オペラ座ダンサー・インタビュー:パスカル・オーバン

ワールドレポート/パリ

大村真理子(マダム・フィガロ・ジャポン パリ支局長)
text by Mariko OMURA

Pascal Aubin パスカル・オーバン(コリフェ)

オペラ座のパブリック・スペースを活用し、9月25日から10月11日まで開催されたボリス・シャルマッツの「20世紀のための20人のダンサー」。 地下のロトンド・デザボネで、パスカルはピナ・バウシュ、ロビンズ、そしてミュージカル作品を披露して喝采を浴びた。11月17日からは『ラ・バヤデール』に配役されている。

ローラン・プティの『ランデブー』でアコーディオン奏者を従えて舞台下手に現れ、 挿入歌『枯葉』を 朗々と歌ったパスカルを覚えている人も多いだろう。 ガルニエの舞台に美しいテノール響かせた彼。来年は創作『くるみ割り人形』に参加し、3月31日オペラ座を去るという。引退を控えた彼に、「20世紀のための20人のダンサー」やその後の仕事などについて話を聞いた。

Q:「20世紀のための20人のダンサー」で踊った作品について、聞かせてください。

A:ジェローム・ロビンズの作品は、オペラ座で過去に何度も踊られた『Glass Pieces』からの抜粋です。この作品のおかげで、生前のロビンズに会える幸運に恵まれました。彼は僕にとって、とても大きな存在。1991年に入団した2〜3年後にこの作品の公演があったのですが(注 :1994年)、僕はやる気満々の若いダンサーというだけでなく、ミュージカル作品の大のファンで・・・。『ウエスト・サイド・ストーリー』を振付けた大巨匠が自分の目の前に ! ということに、興奮しました。僕はMGMが作った素晴らしいミュージカル映画が好きで、フレッド・アステアやジンジャー・ロジャースなどが活躍した時代のファンなんですよ。

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『Glass Pieces』photo Michel Lidvac

だから、彼と会った時にミュージカルの世界との関連を感じることができました。この「20世紀のための20人のダンサー」では、その時の『Glass Pieces』から男性ダンサーのパートを抜粋して踊りました。

Q:この公演で踊る作品については、各ダンサーに選択が任されたのですか。

A:テーマは20世紀のダンスということでダンサーが作品を選んでいい、と ボリスから言われました。もちろん選択したものについて 、その後彼と話し合う必要がありましたけど。この作品は素晴らしいし、ロビンズへの崇拝の気持ちもあり選んだのです。そして、彼にはピナ・バウシュも提案しました。彼女との出会いは僕にとって、 とても強烈なものでしたから。ルフェーヴル前芸術監督がピナ・バウシュを『春の祭典』創作のためにオペラ座に招いた時、僕もオーディションで選ばれました。彼女は人間的にも芸術的にも信じられないほどの人物。この作品を通じて、それまでオペラ座で踊った他の作品では経験のできなかった体験ができました。それゆえに、この公演を通じてピナにオマージュを捧げたいと思ったわけです。3つめに選んだのは『キャバレー』。これはボブ・フォッシーへの、そしてミュージカル・コメディへのオマージュとして。

Q:あなたというダンサーを紹介するという3つの作品ともいえますね。

A:そうですね。確かにそういう面もありましたね。それは演目を選ばせて、自分にあう作品をダンサーが表現できる可能性を与えるというボリスの目的でもあったと思います。 選択として『キャバレー』を彼にちょっとやってみせたら、すぐにOKしてくれました。

Q:どのように準備したのですか 。

A:ボブ・フォッシーと僕は仕事をしたことがありません。それでボリス・シャルマッツのアシスタントが,、映画『キャバレー』を巡る振付の創作を助けてくれたんです。『キャバレー』って、あまり踊りがないんですよね。ボブ・フォッシーの他の作品をみて、手の独特な動きや、腰の振り方と彼らしさのある振付を研究し、ちょっとした出し物を創りあげました。

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ボリス・シャルマッツ「20名のダンサーによる20世紀のダンス」 photos Agathe Poupeney

Q:オペラ座の地下で、観客にぐるりと囲まれて踊ることについてどう感じましたか。

A:初めてピアノ・バーで歌った時のことを思い出しました。このとき聞き手がごく身近なところにいたんです。自分で作詞作曲をはじめていた頃で、ピアノ・バーというのはそんな若いアーチストがデビューできる場所でした。

Q:歌うことは、小さいときから好きだったのですか。

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photo Julien Benhamou/ Opéra national de Paris

A:はい、小さい時から。自宅の屋根裏部屋で、大声で歌ってました(笑)。ママにそんな大きな声をだして うるさい! って、よく言われていたんです。なんでも耳にしたものを、声をはりあげて歌っていました。でもその後、児童教育センターでダンスと出会ったので・・・。ワーテルローという、フランス北部の小さい街で僕は生まれました。リルの近くです。両親はエネルギーが有り余った子供の僕に、何かスポーツをさせようと考えたんですね。父は僕にバスケットボールを選んだのだけど、僕はそれが気に入らなくって・・・。それで教育センターで様々なアトリエを見学しに行ったときに、クラシック・ダンスの教室を見て、「あ、これが僕はやりたい!」とすぐに思いました。歌うことは生まれつきの才能というか、気持ちが解放されて快適になる。でも、ダンスというのは規律ですね。僕を鍛えてくれるもの。厳しさをもって自己表現することを学びました。

この教室に入ったら、教師が僕には才能があるというので、リルのコンセルヴァトワールに行くことになったわけです。その後、父の転勤もあってオワーズ県に引っ越して、そこの小さなバレエ教室でレッスンを続けました。そこの先生が、「彼には才能がある。オペラ座のバレエ学校へゆくべきだ」というので、バレエ学校の試験を受けることになったんです。

Q:何歳のときでしょうか。

A:13歳でしたから、これがオペラ座の学校に入れる最後のチャンスだったわけです。試験のとき、後ろのほうにこっそり隠れてたんですよ。とても怖くって・・・。でも、クロード・ベッシー(当時の学校長)にみつかってしまって、「そこの茶色の髪の子、前にきなさい!」って。それで、習ったこともないジャンプやら回転をやらさせたんです。 すっかりパニックしてしまったのだけど、幸い試験に合格しました。彼女、僕に何かをきっと見出したんでしょうね。学校に通ったのは5年間で、いつもクラスで一番の生徒。1991年の入団でも1位でした。

Q:ダンスを職業にしようと思ったのはどの時点でですか。

A:オペラ座の学校に入った時です。ダンスは単なる楽しみでしてるのではない、仕事としてしたいことなんだと。

Q:学校は寮生でしたか。

A:はい。最初の1年はまだナンテールに引っ越す前だったので、パリ市内クリッシー広場の近くの寮から通っていました。その後4年間、ナンテールの寮暮らしです。ダンスに忙しいのであまり歌いませんでしたが、学校の公演でクロード・ベッシーから歌うようにって。ジャズのスタンダード「Stormy Weather 」でしたが、面白いことに、この時やはり生徒だったボリス・シャルマッツが僕のピアノ伴奏をしたんですよ。彼もそのことを覚えてましたね。「20世紀のための20人のダンス」で僕たちは再会したわけです。

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ボリス・シャルマッツ「20名のダンサーによる20世紀のダンス」photo Agathe Poupeney

Q:ローラン・プティの『ランデブー』では踊らずに、「枯葉」を歌う歌手役でしたね。

A:素晴らしい体験をすることができました。それまでに15年間ミュージカルの公演など外の舞台で歌った経験はあったけど、オペラ・ガルニエの舞台で歌える ! ことになるとは。それもピカソによる背景、ローラン・プティの振付という作品で・・。ローランは僕のことを「歌い手」って呼ぶんですよ、だからそのたびに「僕はダンサーです !」「いやいや、君は僕の歌い手だ」って・・(笑)。なぜ僕が歌うことになったかというと、ブリジット・ルフェーヴル(前芸術監督)のおかげです。僕の作品のディスクをプレゼントしたことがあったので、僕が歌えることを彼女は知っていたんです。この『ランデブー』で歌うことになっていた歌手が出られなくなったとわかった時、ブリジットは僕のことを思った訳です。 それである日、ガルニエの舞台に呼ばれていったら、彼女とローランがいて、『枯葉』を歌えるかというので、はい、と。それで何だかよくわからないまま、舞台で歌ったところ、ローランが「僕はOKだよ」と・・・。翌日にブリジットから「『ランデブー』で歌うことが決まった」と告げられたんです。2011年、2013年の2回ともだから、合計30公演くらい歌ったことになるでしょうか。信じられないような体験ですよね。 

Q:歌のレッスンも受けたことがあるのですか。

A:はい、オペラ座の仕事をしながら習いました・・・。実は1991年に入団し、1993年にコリフェにあがったのですけど、その翌年にスジェに上がるコンクールのリハーサルですっかり自信をなくしてしまい、本番には参加しませんでした。その後もコンクールに参加してはいたものの、他のダンサーたちが 昇級を目指すほどの気持ちが僕にはなくって・・。そんな時期と並行して、歌うことに喜びを見いだすようになっていったのです。もちろん、ここでの仕事はきちんと続けていましたよ。みんながエトワールになれるわけではなく、誰もがエトワールになりたいと思ってるわけではなく・・・。エトワールになるというのは、正直なところ僕の夢ではなかった。コール・ド・バレエの仕事は好きです。美しいし、エトワールの価値をより高める大切な仕事です。 一歩下がって見てみると、自分はオペラ座にあって ダンス以外に歌という情熱を持っているので、このメゾンにあってそれは個性的というか風変わりというか・・・枠からずれている人間です。ダンスへの愛はあるのでもちろんダンスは続けているけれど、外部での活動も続けるという他のダンサーとは異なるコースを歩んでいます。

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『ランデヴー』パスカル・オーバン photo Opéra national de Paris

Q :『ドン・キホーテ』ではキトリの父親役で、会場を沸かせましたね。

A:はい。この作品ではガマーシュ役も踊ってますよ。『眠れる森の美女』のカタラビュットとか、今は『ラ・バヤデール』のラジャ(ガムゼッティの父親)役を準備中で・・。こういった演劇的要素を必要とされる役は、いろいろやっています。ストーリー性の高いバレエ作品では大切な役割りなんで、すごく面白いですよ。パトリス・バールが創作した『ドガの小さな踊り子』では、バイオリニストの役をもらっています。

Q:引退が近いと聞きました。

A:はい。来年3月31日でオペラ座を去ります。これから『ラ・バヤデール』があり、その後『くるみ割り人形』の創作に参加し、これが最後の舞台となります。これには、とっても満足していますよ。シェルカウイやミルピエなど4名の国際的に今最も興味深いコレオグファラーによるクリエーションの作品が、アデュー作品になるということに。

Q:その後はダンスの仕事を続けるのですか。それともミュージカルの舞台に立つことを考えていますか。

A:いろいろなことに興味があって・・・。まず、パリのコンセルヴァトワールでクラシック・ダンスの教師の資格をとりました。ダンスを伝承してゆくのは大切な役割ですから。昨年、引退後のことを考えて資格を取りました。これがまず1つめで、今はダンスのアートセラピストになる勉強をしているところです。

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「MC 14」photos Michel Lidvac

Q:アートセラピーとはどういうものでしょうか。

A:ダンス、文学、歌、演劇といった芸術を介して、身体的あるいは精神的に痛みを抱えている人々を治療するというものです。これはクリエーションに関わりがあり、救いが必要な人を助けるという素晴らしい仕事です。 僕はまだ学んでいる最中。6月末に終わりますが、資格を得るためには論文を書く必要があるんです。

Q:どういった場所でその仕事をすることができるのですか。

A:自分の診察室を開いて、そこに治療者を受け入れる。あるいは病院や孤児院といった場所にこちらから出向いてゆくケースもあります。今、 Halte Femmeという団体で研修中です。ここはホームレスの 女性たちの避難所で、毎週水曜にここでダンスセラピーのアトリエが開催されるんです。ダンスのアートセラピストがいて、その人から僕は実地で学んでいいます。ミルピエ監督の許可が出たので、このアトリエに参加している女性たちを、ガルニエで開催されるピナ・バウシュの『春の祭典』を含むトリプルビルのプレ・ゲネプロに連れて行くんですよ。社会との関係を築くのが難しい人たちに、歌やダンスといった芸術を結びつける。この『春の祭典』というのは、僕のアーチストとしてのキャリアにおいて、また人間としてもっとも印象に残る作品です。たくさんのことをもたらしてくれました。僕だけではなく、これを踊る大勢のダンサーが振付というダンスの仕事だけでなく、自分の内面についての仕事もしています。こういった作品を逆境にある人を救うことに役立てるのは興味深いことですね。

Q:つまり引退というのは、イコール新しい出発といえるのでしょうか。

A:そうです。引退後のことについては、いろいろ考えましたよ。もちろんミュージカルの舞台で歌って踊ることを仕事にすることもできます。でも、過去の経験からその世界にも通じていて・・・42歳を過ぎて、改めてオーディションに出かけていってということはもうしたくないんです。それに実は引退後は友人と南仏で暮らすことにしていて・・・都市の近くでアートセラピストとして仕事をし、もし機会があるならば舞台にも立って、と。

Q:引退によって長年の友達、長年の仕事場を離れることに寂しさはありませんか。

A:もちろんオペラ座を去ることに何の感傷もないといったら、嘘になりますね。30年の人生がここにあるのですから。でもここの仕事は42歳で終わるとわかっていることで、すでに2年前から引退の準備も始めているし・・・。感謝をしつつドアを閉め、別の新しい扉を開くという感じです。オペラ座ではたくさんの出会い、幸運がありました。 ベジャール、プティ、バウシュ、プレルジョカージュなど多くの振付家と一緒に仕事をする機会に恵まれました。これまでは、高い要求に応えてゆくという追求を常にしてきました。これからは、楽しみに満ちた人生へと !  アートセラピーのためにダンスを続けることになるのだし、歌も自分の一部なので続けてゆきます。

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「ナポリ」Photo Michel Lidvac

Q:42歳を前に身体疲労を感じますか。

A:いえ、どちらかというと快調です(笑)。『ラ・バヤデール』ではインディアンのコール・ド・バレエも踊るし。30年間で、それほど身体を痛めつけてはいません。だから他のカンパニーで踊ったり、コレオグラファーと仕事することもできるのだけど・・・引退後の仕事というのは選択の問題です。チョイスの問題ですね。先のことはわからないけど、自分の奥底に教育者の面があるのがわかり、また今はアートセラピーが語りかけてくるものが多いので、そうしたことを探って行きたいと思っています。

Q:アートセラピーとはどのように出会ったのですか。

A:僕自身、実にたくさんのセラピーを受けてるんです(爆笑)。バレエという芸術を仕事にし、セラピー経験も患者としてあって・・・つまり30年のキャリアの後、その2つがハイフンでつながって、僕に課されたというように感じています。始めたのは2年前。ミュージックセラピーの仕事をしてる友人と、ずい分話し合いました。それでどんな養成所があるのか調べた結果、グルノーブルに素晴らしい場所をみつけたんですよ。ジャニス・ゴッドフレイという、昔ジャズ・ダンサーでありコレオグラファーだったアートセラピストです。彼女は今もダンスを教えていて、僕とは経歴も似ているので、今、毎月1度3日間、グルノーブルに通っています。残りの日はパリで研修。オペラ座の仕事と同時に、この2年間、実にたくさんのことを学んでいるのです。指導することへの情熱に気がついたので、もう10年くらい前からバレエのレッスンも行っています。僕はキャリア追求型ではなく、経験を重ねるということに興味を持ってるんですね。自分がしたいと思ったことを常にしています。

Q:自分のしたいことをして生活できたら理想的といえますね。

A:ぼくはすごく楽しんでいますよ、今も。外部でいろいろ活動をしていることは、オペラ座の人の目からはよく思われない部分がありますね。僕は他の人からすると個性的というか、枠にはまりこまない境界人。だけど外の世界で喜びを得ることによって、ここオペラ座での厳しさ、コール・ド・バレエの仕事の厳しさを忘れることができるんです。実は2003年に外部で研修をするための1年休業年をとりました。歌の学校に通うためです。というのも、ミュージカルの舞台に専念し、ここを辞めようかと思ったので。その年にミュージカル『Chance』のメンバーに選ばれました。これは素晴らしい作品です。でも継続契約とかあるわけではないので、オペラ座に戻ることにしたんです。良い経験でした。で、この時に不定期契約の舞台人という暮らしとは何かということも知ったわけです。契約から契約という暮らし。ここオペラ座とは違います。ここには安定があるし、ここに至るまでにたくさんの稽古を積んだのだから、オペラ座に残ろう ! と決めたわけです。もし声がかかるなら、外部での仕事も続ければいいし、と。その結果、ローラン・プティの『ランデブー』で歌手になったり、オペラ座で素晴らしい年月を過ごせました。

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ミュージカル『Chance』
photo Michel Lidvac

Q:これまででオペラ座のダンサーとして最高の思い出は何でしょうか。

A:間違いなく、ピナ・バウシュとの出会いですね。素晴らしい女性です。そして彼女の『春の祭典』との出会いも。個人的、アーチストとして素晴らしい経験が出来、また、自分たちは一座を形成しているのだという感触がありました。オペラ座は150名以上もいる大きなカンパニーでそれぞれが自分のキャリアを追求していて個人主義的な感じがするのに対し、この作品では全員が密接に繋がりあうことができたんです。統一感、同胞愛というのを『春の祭典』で感じることができ、そして、自分たちが芸術に役立っていと感じることもできました。

Q:前芸術監督の時代を長く経験したあなたは、ミルピエ監督が今手がけている変化をどのように見ていますか。

A:ブリジット・ルフェーヴルはバレエ団にとって素晴らしい監督でしたが、カンパニーは新鮮な風を必要としていたんです。新しい息吹を待っていたんですね。それをミルピエ監督はもたらしたわけです。彼はアメリカでの経験や彼自身の考えをベースにして。どういったらいいのか言葉でいうのが難しいのだけど・・・。僕が観察してる範囲でいうと、カンパニー内にあった張りつめていた感じが和らぎ、より自由が感じられますね。若いダンサーたちにも、舞台にたてるチャンスが増えました。僕たちの時代は、「若いダンサーの夕べ」以外には、スジェでもない限り、ソリストで踊る機会はまわってきませんでした。それが今はすっかり変わって、アメリカ的ですね。若いダンサーたちがモチベーションを得られることで、若さが持つダイナミズムや気持ちの高揚感が損なわれず、これは素晴らしいことです。 また、28歳以下の若者が10ユーロでプレ公演を観ることができるというのも、良いことです。オペラ座というのはエリートのメゾンですが、それにアクセスしやすくすることで観客の幅を広げることができるのですから。

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