オペラ座ダンサー・インタビュー:セバスチャン・ベルトー

ワールドレポート/パリ

大村 真理子(マダム・フィガロ・ジャポン パリ支局長) Text by Mariko OMURA

Sébastien Bertaud  セバスチャン・ベルトー(スジェ)

この夏の「エトワール・ガラ」のBプログラムで、振付作品がイザベル・シアラヴォラによって踊られることになったセバスチャン。昨年の昇級コンクールの結果、スジェにあがった彼はコレオグラファーでもある。

エトワールたちと肩を並べてソリストとして活躍する彼は、この2〜3年、コレオグラファーとしても名前が知られ始めている。オペラ座でのダンサーとしての仕事に加え、創作にも精力的な活動をしているだけではなく、驚くべきことに昨年までの5年間は、パリ政治学院で学ぶ学生でもあったのだ。語ることがたくさんある彼なので、今回は少々長いインタビューとなった。目下自分のサイト(www.sebastienbertaud.com)を準備中だというので、しばらくしたら、チェックしてみるといいだろう。

Q:昨年のコンクールの結果、今年1月1日からスジェですね。それ以前からソリストとして配役されていましたが、スジェになって何か大きな変化がありましたか。

A:スジェになってから『フォール・リヴァー・レジェンド』の牧師役を踊っていますが、それ以前に、すでに自分に合うソリストの役はスジェにほとんどすべて踊っています。昨年はジェレミー・ベランガールが怪我で降板した役を踊っているように、エトワールと同じ仕事をしています。ですからオペラ座の仕事は、実際的には何も変化はありません。でも、僕自身、スジェに上がったことで、とても心が落ち着いた、と感じています。

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photo/Anne Deniau

Q:それはどういう意味ですか。

A:自分のいるべき場所に居る、という意味です。心の平穏がある・・・というのも、長いこと、ずっと自分は上にあがれないのではないかという強い不安があったからです。スジェというのは、オペラ座のヒエラルキーにおいて、大切な位置だと思います。そのレヴェルまでは至りたいものだと、ずっと願っていて、そのために稽古を重ねていたのですから・・。ここに至るまで、とても年月がかかりました。

Q:カドリーユからコリフェに上がったのが2005年。つまり8年がかりということですね。

A:そうです。毎年コンクールの結果がでるたびに、なぜだろう、なぜあがれなかったのだろうって、周囲の人がいってくれて・・・。僕だって、なぜかはわからない。コリフェでありながら、エトワールの役も踊っていたくらいで、配役という点では何も問題はありませんでした。落ち着かなかったのは、コリフェというタイトルとその現実のずれ。なにか居心地の悪さがありました。

Q:スジェになって、楽屋など環境の変化がありましたか。

A:スジェの楽屋は二人部屋になります。でも、僕は大勢と一緒にいて話しができるのが好きなので、コリフェ時代のままの楽屋です。

Q:コンクールの結果を知った時、喜びと安堵のどちらが大きかったですか 。

A :とても大きな喜びでした。コンクールって、とにかく準備が難しいことなんです。本能的恐怖があるというか、眠れなくなってしまうし・・・。過去に何度も失敗してるので、その蓄積や、それに緊張、・・・。それゆえ、良い結果を得た、というのは大きな喜びでしかありませんよ。安堵に勝るものです。

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photo/Anne Deniau/Opéra national de Paris

Q:自由曲はトワイラ・サープの『Push comes to shove』でした。なぜこれを選んだのですか。

A:これはオペラ座のレパートリーの1つだけど、長いこと踊られていません。僕はコンクールのたびに、何を踊ろうか、いつもすごくリサーチをしているんです。可能な限りヴィデオを見て、リストを作って・・と。僕は、どちらかというと暗く影のあるシリアスな役で知られています。フロロやロットバルトのような。

Q :『天井桟敷の人々』のラスネール役もそうですね。こうしたタイプの役に自分に向いていると思いますか。

A:こうした役は、外見的に僕には合いますよね、僕は黒髪なので。こうしたことも関係してると思います。僕は、このコンクールではリニューアルしたい、と思った訳です。長いこと、自由曲に似たようなセレクションをしていて、それで上手くゆかないのなら、何かこれまでと違って陽気なものを、舞台にユーモアを、何か新鮮なものを・・・と。これまで見せてないものを見せたかったんです。この自由曲を踊って、舞台上ですごく楽しめました。

Q:自由曲を踊り終わったときに、今回は上がれる! というな思いがありましたか。

A:結果は絶対にわかりませんよ。過去に、これほどないというくらいパーフェクトな踊りをしたと自分で思ったときも、上がれなかったのですからね。コンクールの結果というのは、自分だけでなく他のダンサーにもよります。自分が最大限をだしきっても、他の人がより良かったら、だめなのですからね。

Q:長いコリフェ期間中、辛いと思うことがありましたか。

A:辛いということは全然! というのも、先に話したように、僕は常に配役されていたのですから。僕が代役をすることが多いのはバンジャマン・ペッシュ、ジェレミー・ベランガールで、彼らはあいにく怪我が続いてしまい、僕はずっと踊っていたことになります。それに『輝夜姫』、『PAS./PARTS』などでソリストも踊ってますし。またコンクールに関して言えば、審査員だけによるものでないのです。僕自身も進歩しているのです。きっと、僕、頭の中で何かが解放され、より輝けることができたのでしょう。確かにスジェの昇級まで長くかかったけれど、まさに良いタイミングで上がれた、という感じです。速すぎるよりも、よいと思っています。その間に多くを学ぶことができました。コール・ド・バレエのアンサンブルとか..。速く先に進むことより、完成してゆくことが大切だと思っています。

Q:今はピナ・バウシュの『オルフェとユーリディス』に出演中ですが、古典作品にも多く配役されていますね。好みはどういったタイプのダンスですか。

A:ネオ・クラシックが僕は好きなんです。ジョン・ノイマイヤーやウィリアム・フォーサイス、イリ・キリアンなどの動きのセンスがクラシックな・・・。また、個人的なことだけど、彼らの作品を踊るのは僕の身体にすごく快適なことなんです。といっても、どんな作品でも好き。すべての作品にそれぞれ異なる面白さがありますから。

Q:これまでに踊っていて一番歓びを感じた作品というのはありますか。

A:前シーズンのことですけど、僕の人生を変えるような出会いがありました。それは、ウィリアム・フォーサイスとの出会いです。『PAS./PARTS』に配役され、彼の作品を踊ったのは初めてでした。自分がこうしたスタイルのバレエを踊れるのかどうかもわかっていず、だから、すごくレッスンを積みましたよ。実は、オペラ座のバレエ学校の生徒だった時代、1999年にこの作品の初演を見ているのです。その時にカデル・ベラルビのパートが気に入って・・その10年後に自分がそれを踊ることになったのです。とても幸せでした。
最初にまずコーチのリヨネル・ドラノエと稽古を重ね、それからフォーサイトが来たのですが、そのときに彼との間に信じられないような結びつきを感じたんです。彼は僕を信頼してくれて・・・。この出会い前の僕、出会い後の僕がいるように思います。僕がコンクールで昇級できたのは、彼が僕の中の何かを芸術的に解放してくれたのではないかと思っています。本当に信じられないことでしたね。彼がいわんとすることの、すべてが理解できて、それによって、自分のすべてを捧げたい、乗り越えたい、といういう欲が生まれたんです。

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photo/Anne Deniau/Opéra national de Paris

驚くべき機会でした。この公演(注・2012年12月)では、怪我で降板するダンサーが多くて、僕、毎晩ステージで踊ることになりました。コール・ド・バレエのリズムで、ソリストとして踊るというのは大変きつい日々ではありました。でも、それによって、耐久力の維持、規則正しさなどたくさん学びました。フォーサイスはとにかくポジティブで、僕たちの頭を解放するような言葉をいろいろくれました。例えば、ストレスだと思わず、これは学ぶチャンスなのだと思うように、とか。ちょっとした言葉ですけど、彼って心理学者ですよ。それだけじゃない。彼の振付を踊って得られる喜び! また、『フォール・リヴァー・レジェンド』も素晴らしい機会でした。僕ってコレオグラファーや伝承してくれる人たちとの出会いに心を動かされる質で、彼らを好きになることで、自分のすべてを出し切りたくなるようです。 

Q:オペラ座のレパートリーの中で、ぜひとも踊りたいという作品はありますか。

A:たくさんあります。例えばクラシックなら、『ジゼル』。アルブレヒトの役は語ることがたくさんあるように思うので。でもオペラ座にはエトワール、プルミエ、それにスジェだって素晴らしいダンサーが大勢いるので、この役を得るのは難しいでしょうね。もちろん期待はしていますけど。

Q:オペラ座以外で、すでに『ジゼル』を踊った経験はありますか。

A:今のところ、このバレエはオペラ座でコール・ド・バレエしか踊っていませんが、ガラでパ・ド・ドゥを踊っています。それに実は来年、全幕を日本で踊る話が持ち上がってるんですよ。

Q:彼らと踊るのは初めてですか。

A:いえ、過去にもこのカンパニーのダンサーとは踊ってい ます。ここでは僕がレッスンをしたりと、やりとりがあるんです。『ジゼル』をオペラ座で踊りたいというより、僕は、この役を踊りたいので、いつか他の場所でも、全幕で踊れる機会があれば、と願っています。

Q:他所のバレエ団との稽古というのは、どれくらい時間をかけられるのですか。

A:来年はおそらく公演の2〜3週間前に訪日して、稽古をすることになると思います。ここオペラ座ではパントマイムなどある程度自由があって、流れに任せて自然にやっていますが、日本はすべての振付に正確であることにレスペクトがあるので、パントマイムもオリジナルに忠実にすることになります。そういうことも、面白いことですよね。『ジゼル』以外にも踊りたいのはいろいろありますけど、とりわけ踊りたいのはこれです。カデル・ベラルビにいわせると、『ジゼル』はダンス界の「ジョコンダ(モナ・リザ)」。アイコン的作品です。音楽も何もかも素晴らしい。

Q:音楽はどの作品においても重要な要素ですか 。

A:ええ、凄く。音楽がインスピレーション源です。それからパートナーも重要! 分かち合う相手ですからね。どのバレエということもありますが、まずは、誰とどのように、というのも大切なことです。

Q:ではオペラ座でアルブレヒトが踊れるとしたら、誰があなたのジゼルでしょうか。

A:あ、それは僕の「妹」のドロテ・ジルベールでしょうね。

Q:妹というのは、どういう関係なのですか。

A:僕たち、とても近しい関係なんですよ。というのも、僕は彼女と同い年でバレエ学校でも一緒。で、彼女の両親が僕の ''コレスポンダン(連絡役)''だったのです。僕の実家はボルドー地方と遠方だったので、学校の寮がクローズする週末は彼らの家に泊めてもらっていました。僕が学校にいる間、ずっと。だから、僕は彼らの家族の一部のようなもんなんです。僕が彼女の結婚式の証人役も務めていて・・。彼女はコンクールごとに僕の稽古をみてくれて、良い関係です。そんな彼女と一緒にオペラ座で『ジゼル』を踊れることになったら、それは、素晴らしいでしょうね。でも、オペラ座には若いダンサーでも凄い人が多いですよね。『ジゼル』のパ・ド・ドゥは、ガラ公演ではレオノール・ボーラックとよく踊りました。彼女、素晴らしいダンサーです。

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photo/Sébastien Mathé/Opéra national de Paris

Q:ガラはどのグループに主に参加していますか。

A:いろいろです。カール・パケット、ジョゼ・マルチネスたちのグループなど。でも、コレオグラファーとしてなら、ブリューノ・ブーシェのグループの「アンシダンス・コレオグラフィック」です。

Q:今年の「エトワール・ガラ」のBプログラムに、あなたの振付作品が入っていますね。

A:はい。イザベル・シアラヴォラがずっと以前から僕と一緒に仕事をしたいといっていました。悲しいことに引退してしまい、 ''僕が始めたところで、君は去ってしまう・・・。何かを一緒にするなら今なのだけど、どうするのがいいだろう'' と。そうしたら、イザベルは僕が創った『Fugitif』を日本で踊りたい、って言ったんです。

Q:『Fugitif』 というのは、オペラ座で4月にあった公演「若いダンサーたち」でリューシー・フェンウィックとミカエル・ラフォンがパ・ド・ドゥを踊った作品ですね。

A:はい。イザベルにこう言われて、「このようなちょっとした作品を、君のような偉大なダンサーが踊るのって、どうなんだろう」と思ったわけです。で、「そうだ、これをパーソナライズするのがいいだろう。

君はオペラ座を去ってしまうのだから、オリジナルタイトルの『Fugitif』をもじって、『Fugitive(注 :Fugitifの女性形) とするのはどうだろうか、と。つまり、このタイトルは去って行ったエトワールである彼女に対する、ちょっとした言葉遊びでもあるわけです。

Q:でも、オリジナルタイトルの『Fugitif 』は、消え去る男や逃亡者という意味では使われていず、束の間の、とか、はかない、という意味ですね。

A:そうです。現れては消えてゆくイメージ。印象派ということばの元となったimpression fugitive(光の変化に応じるつかの間の印象)からです。光のイプレッションのように、パッと現れてはパッと消える。それをビデオプロジェクションを使ったコンテンポラリー・ダンスにしました。次々に何かが現れては消えてゆき、捕えにくいもの...。 イザベルがオペラ座を去る、ということが、このように言葉遊びに含まれているのです。

Q:日本でイザベルが踊る作品は、新作ということですが・・・。

A:はい、新作です。ベースには『Fugitif 』がありますが、それをイザベルというダンサー用に創り直すので。 彼女の信じられないようなボディが踊る振付へ、より遠くへ、ステップを増やして、と。8分から10分の長さとなるでしょうか。

Q:イザベルのパートナーはオードリック・ブザールですね。

A:そうです。彼女が彼をパートナーに選びました。オードリックは オペラ・ガルニエで昨年6月に音楽サロンの夕べがあって、そこで僕の作品『Trio per uno』を踊っています。彼とも学校で一緒でした。入団前からの親友の一人です。こうした温かみのある人間関係の中で仕事をするのって、快適ですね。

Q:イザベルとの仕事はこれが初めてということですね。

A:はい。僕は彼女のファンなので、彼女からこうして声がかかったのはとても幸せです。実は彼女は今年の1月にコルシカでガラをオーガナイズしたのですが、その時に『Fugitif』のパ・ド・ドゥをプログラムに入れたいと希望してきたんです。ジュリエット・イレールとイヴォン・ドゥモルが踊りました。彼女、この作品をとても気に入っていて、それで「エトワール・ガラ」でこの作品を自分が踊れないかしら、となったのです。

Q:彼女用の新版創りはもう始まってるのですか。

A:これからです。でも、パ・ド・ドゥはすでに存在するので、ベースはあるわけですね。毎回、 各ダンサーの価値をよりひき出すために、少し創り変えてるんです。
ダンサーのベストのアングルなど、各自の長所を引き出すようにしています。それゆえ、ダンサーは僕と仕事をするのを好んでるのだと思います。いってみれば彼らにあわせて作られた誂え作品というわけですからね。イザベルのために僕はすでにアイディアがいろいろあります。おそらくイザベルもそうだと思います。二人で対話して作り上げてゆくことになるでしょう。それに、冒頭に、オードリックのソロを加えますので、ビデオなども新しいバージョンとなります。この「エトワール・ガラ」だけのための特別ヴァージョンですね。こうしたやり方って、過去、クラシック作品においても、あったことです。マリウス・プティパの回想記を読んだのですが、彼もダンサーによって部分的に作り直していました。このようにダンサーに誂えるという発想はとても好きです。「エトワール・ガラ」に際して、僕の愛情、ノウハウをイザベルに捧げられるのはとても幸せです。

Q:振付に興味をもったのは、いつ頃のことですか。

A:最初の作品は2003年・・・でも、もっともっと小さいときから振付には興味がありました。僕は小さいときからルグリ、ギエム、ベジャールなどが好きで、とりわけベジャールには、そのパーソナリティに魅了されていました。彼について本を読んだり、ビデオをみたり。小さいときから、どちらかというと夢みがちな質で、想像力いっぱい。音楽、デッサンなど芸術的な分野で、いろいろやっていました。ボルドーのコンセルヴァトワールで学んだ後、オペラ座の学校に入る前にパリのコンセルヴァトワールでダンスを学んでいました。そこではコレオグラフィーの課外クラスがあって、僕の一番最初の振付はそのときに遡ります。13歳。ちょっとした試みに過ぎませんけど。頭の中には映像と動きをつなげることへのアイディアや欲求が常に渦巻いていて・・・だから、振付をするというのは、ごく自然なことなんです、僕には。。 

Q :『Fugitif』はオペラ座バスチーユで2012年に開催された「ダンサー・コレオグラフ」でも踊られていますね。

A:はい、作品の一部ですけど。というのは、この作品は全編25分あって、ダンサーも6名必要なんです。それに機械装置も必要ゆえに、振付家としてまだそれほど有名ではなく予算もないので、実現が難しい作品なのです。

Q:舞台背景にはビデオプロジェクションが使われていますね。

A:はい。作品の中には複数のパッサージがあって、それによって映像も異なります。
作品の中には男性ダンサーのトリオもあったり、女性ダンサーのデュオがあったり・・。この間のオペラ座の「若いダンサーたち」の公演で踊られたのは、パ・ド・ドゥの部分。これがガラでも一番リクエストされるんです。すでに20名くらいのオペラ座のダンサーがこの部分を踊ってるんじゃないかな。希望があれば、僕は無料で作品を提供していますし、リハーサルも立ち会って・・・。これはダンサーのために創ったのですから、ダンサーに使用料を支払わせることはしていません。フォーサイスやノイマイヤーのように、若いダンサーたちに踊る喜びを提供したいと思っています。

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photo/ Anne Deniau/ Opéra national de Paris

Q:『Fugitif』は舞台でダンサーがとても快適そうに踊っています。

A:見る観客たちにも快適であって欲しいですね。ダンサーたち、僕の振付を好んでくれてますね。みな、情熱を傾けて踊っています。それこそが、この作品を創ったアイディアなので嬉しいです。

Q:このクリエーションは何から始まったのですか。

A:Swod の音楽からです。『Fugitif 』はオペラ・バスチーユで2014年に開催された「ダンサー・コレオグラフ」でも一部を発表していますが、それ以前に、あるフェスティヴァルからオーダーがあって生まれた作品なんです。僕は以前はフィリップ・グラスの音楽で作品を創っていました。で、先にお話したフォーサイスとの出会い以前、実は僕にはもう1つ大切な出会いがあります。マグレガーです。彼の作品に、美的面での衝撃を受けたのです。そして、その時にコレオグフラファーとして、時代を後退してはいけないのだ、と確信したんです。彼はクラシックなボキャブラリーを、今日の最先端へと持ってゆきます。コレオグラファーは後退するのではなく、先へと続ける必要がある、と彼に学びました。バレエの革命です。マクレガーのように、より先へ先へと進めなくては、と。つまり、 音楽は最近の曲から選んで・・・。ダンス界では、1つの楽曲に複数の振付作品がありますね。なぜ、これほどたくさんの音楽があるのに、1つに拘る必要があるんだろう。観客のためにも、リニューアルしなければ。前進せよ、新しいものをクリエートせよ、革新せよ、と。マグレガー、フォーサイス、ミルピエ・・彼ら同様、僕も過去に戻っては行けないんだと。だから、僕自身はジャズも聞けばクラシックも聞きますが、創作に使う音楽は今日のものであるエレクトロミュージックから探しました。
これはコレオグラファーとしての意欲なんです。いかにダンスを前進されるかということを反映させる明らかなポイントなのです。コスチュームにしても、 身体します。そして照明についても、今日における照明とは何かというのを追求しました。他のコレオグラファーの作品ですでになされたことかもしれませんが、僕にとって今日のボキャブラリーとしての照明を追求しました。サークル、正方形・・・など舞台上を構造化する照明です。以前、例えば『白の組曲』などの照明は舞台上に拡散されています。でも、21世紀に向かうにつれて、舞台上のアイディアも変化していっています。背景については、黒いままにしておくか、否か。僕は21世紀のアートはビデオなので、ではビデオを使ってみよう、というように進めてゆきました。

Q:この作品のビデオクリエーションは、エレナ・ベルトーとクレジットされています。

A:僕の妹です。エレナはリヨンの美大で学んだ造形アーチストなんです。彼女がいろいろと提案をしてくれて・・・二人で相談して進めました。 妹と一緒に仕事をするのは、感情面もあって簡単とはいえませんけど、先ほどもいったように何しろ予算がないのですから、僕にとっては都合のいいことなんです。ビデオは必要なかったのかもしれませんが、せっかく僕にはこうした妹がいるのですし、見る人々にとっても、ただ黒い背景のまえでダンサーが踊るのを見るより、こうした興が添えられてるほうが作品も豊かですよね。ダンサーたちがこの作品を踊りたいといってくれる理由には、そうしたこともあるでしょう。

Q:オペラ座からも「若いダンサーたち」のためにリクエストがあったのは、素晴らしいですね。

A:これには驚きました。振付家としては新人の僕が、ミルピエ、マクレガー、プレルジョカージュといった名前と並列されたのですから。キャリアが全然違います。プレルジョカージュの『ル・パルク』といったら、21世紀のマスターピースでしょう。オペラ座も危険を冒したわけですが、幸い上手くゆきました。

Q :「エトワール・ガラ」には振付家としての参加ですね。

A:はい。今年は日本でダンスの講習会があって訪日しますから、見に行けるでしょう。僕、毎夏、日本で講習会があるので、「世界フェスティヴァル」や「エトワール・ガラ」を観客として楽しんでいます。

Q:バレエ教師の資格をお持ちなのですね。

A:はい。それにシアンスポ(パリ政治学院)の修士課程の卒業証書も持っています。

Q:シアンスポというフランス屈指のエリート校にダンスを続けながら通うというのは大胆な決断ですね。

A:オペラ座の仕事と並行しての5年の学生生活は、とても大変でした。スジェにあがれずにいた時期が長く、走り続け走り続けて・・・自分を豊かにする必要を感じたからなのです。

Q:その長い間、オペラ座を辞めようと思ったりはしなかったのですか。

A:学校の公演で『ヨンダリング』を踊ったときに、ジョン・ノイマイヤーから、もし彼のカンパニーに来たいなら、それは可能ですよ、って言われていましたし、ティエリー・マランダンからも提案がありました。でも 移ることは考えませんでした。僕はオペラ座が好きだし、それにここのレパートリーはとても幅広いものなので。小さいときから僕はここにいて、好きな人たちがいて家庭のような場所。あえて、自分の根っこをもぎとって他所へ行くという気にはなりませんでした。ただ、すべてのバレエを踊り、『コッペリア』『椿姫』など何度も、それもコール・ド・バレエの同じ場所で・・・。自分を豊にするには、もっと何かが必要だという状態に陥ったのです。

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photo/ Anne Deniau/ Opéra national de Paris

Q:シアンスポに入るのは大変難しいと言われています。

A:2006年のあるとき、ブリジット・ルフェーブル(芸術監督)がシアンスポでのコンフェランスで学生たちにオペラ座のことを話すので、ダンサーの日常を語ってくれる人が必要だというので、一緒にゆきましょうと僕を誘ってくれたんです。 彼女と僕の間には相互レスペクトがあって、たとえ僕がエトワールでなくても、彼女は僕の意見に興味をもっていてくれていて。そうしたことから、この時、僕に白羽の矢がたったのですが、そのときに、シアンスポの今は故人となった当時の学長が僕が話したことに興味を持ってくれたのです。

彼いわく、''シアンスポをもっとオープンにして、学生のプロフィールをもう少し広げたいい。ここの生徒は親も卒業生だとか、金銭的に大変豊かな家庭であるとか、という生徒ばかりなので、それを変えたい、芸術的な学生が欲しいのだ''と。それで僕にまず聴講生として来ないか、と提案があったのです。考えましたね。もしずっとカドリーユのままで前進がないのなら、学生となっても仕事に全力を傾けることを妨げるのでもないし、それはチャレンジだ!と。

Q:オペラ座の仕事を続けながら学業にさく時間がとれるかどうか、不安はなかったのですか。

A:いいえ、僕はとにかく勤勉ですからね。それに舞台はどれも過去に踊ったものばかりという安穏状態だったので、とにかくチャレンジが必要だったのです。それで最初は聴講生として、シアンスポにおける学科のための教養課程から。つまり、法律、歴史、政治、経済などを学びました。これがとても上手くいって、1年半たったところで一般生同様の試験があって、全科目をパスしたんです。次に2年目の試験があり、これもパス。学長が聴講生を受け入れる意図というのは、シアンスポに入るのはとても難しく、それによってキャパシティのある学生を取り逃がしてしまうので、聴講生システムでそのようにふるいにかけられてこぼれた生徒を取り戻したい、ということだったんですね。僕は次に、芸術学の修士課程のコンクールがあって・・・。ここが一番大変なポイントでした。周囲は僕より若くて、たっぷりと時間をかけて準備した一般学生ばかりで。

Q:学業を続けるために、オペラ座は仕事時間について特別な計らいを頼んだのですか。

A:いいえ。オペラ座の仕事をしながらというのは、すごい原動力となって良いエネルギーが得られました。最初、ぼくがシアンスポを試してみたいとブリジットに告げた時に、「僕がしてることがあなたの目に触れることはないでしょう」と。彼女は僕を信頼してくれて、これには感謝しています。他の人々は僕がシアンスポで学んでいると知ると、「ああ、ダンスを辞めて他のことするんだね」「転職だね」というような反応だったんです。ただ僕は前進したいんだ、とことんやってみたいんだ、ということは、誰もわからない。コンクールの審査員などからも、君には他のことがある、という目で見られて・・。そんな風に思われると考えてなかったので、これは不味いと思いましたけど、ブリジットは決してそういう目では僕を見なかったのが、すごい支えとなりました。僕も、シアンスポに通うためにゆくため彼女に何かをお願いするということはなくて・・。でも、一度だけとても重要なことがあったので頼んだのですが、拒まれました。でも、それでよかったんです。これは僕の問題であって、僕自身で解決することだったので。彼女のほうは僕が外でしてることは何も知りません、というように、僕に役をくれ続けて。それのおかげて、バランスという点でとても健全な状態にいられました。オペラ座にいるときは、全力投球しましたよ。修士課程のコンクールはレヴェルが高いので受かるとは思っていませんでしたが、意外にも・・。2013年6月に修士課程が終わり、芸術学の修士号が得られました。やり遂げたことに、とても満足しています。強い意欲で、やりげられることが出来るのだと。コンペティション好きな僕には、これが必要だったのですね。この年のコンクールで僕はスジェにあがりました。つまり、学業はダンスに何らの不利ももたらさなかったことが証明できました。

Q:シアンスポの卒業証書によって、どんな職業が可能となるのですか。

A:ダンサーは現役のときはダンスがぼくたちにもたらしてくれるものがあるので、定年後は僕たちがダンスにお返しをします。教師だったり、コレオグラファーだったりという形で。証書があることで、例えばフェスティヴァルのようなイヴェントをオーガナイズしたりする資格もあるわけです。

Q:どのようなきっかけでバレエを始めたのですか。

A:ボルドーで7歳のときにです。体操を習ってた教室がクローズ。隣りにダンス教室があるので、そちらにいったら、ということで始めたんですよ。バレエのレッスンそのものより、ダンスの世界にひかれたんですね。舞台の世界。衣装、音楽・・・。それは未知の世界でした。

Q:オペラ座のことは当時知っていましたか。

A:何も。でも、ボルドーのコンセルヴァトワールのダンスの先生がダンスの世界にはパリ・オペラ座があると、ルグリやギエムがいるのだと話してくれました。14歳のときにパリのコンセルヴァトワールに入りました。学校のデモンストレーションを見に来たジルベール・メイヤールに、オペラ座の学校入りを薦められました。入学できる年齢が過ぎていましたが、オペラ座に手紙を書くようにと彼から言われて。それで、当時の校長のクロード・ベッシーのオーディションを受けて、学費支払い生として受け入れられたのです。1998年だったか、学校公演で日本ツアーに参加したんですよ。というのも、『バル・デ・カデ』の衣装に身体が入るのが僕だけだったので。このツアーの後で、給費生として迎えられました。

Q:これが初来日ですか。

A:はい、学校に入り立てで。それに飛行機に乗ったのも初めてで興奮しました。
第3ディヴィジョンから入って、学校では3年学んでいます。第2ディヴィジョンのとき、ジョン・ノイマイヤーが学校にきて、僕を『ヨンダリング』に選んでくれました。初の役づきで、これぞ僕の人生だ、とつくづく感じました。第1ディヴィジョンのときの公演では、ベジャールの『ダンス・グレック』を踊りました。振付家との間におきるスピリチュエルともいえる瞬間をこの時に得ました。これが、フォーサイスとの間にも感じられたのです。

Q:オペラ座には大勢の振付家が来て、仕事をしますね。

A:僕、振付家に選ばれて踊ることが多いですね。サッシャ・ヴァルツやピナ・バウシュなど。オーディションには大勢が参加し、そこから振付家がダンサーを選ぶ仕組みです。

Q:オーディションは自分で参加を決められるのですか。

A:いいえ、まずオペラ座側が振付家に僕たちダンサーの写真付き資料をみせるんです。振付家がクラスレッスンにダンサーをみにきて、それから舞台姿をみて、そうして選びます。自分でも振付をするので、振付家が望んでることが僕にはすぐに理解できます。外の振付家は時間をかけて養成した自分のカンパニーのダンサーと仕事をするのに慣れていますね。だから仕事は直観的です。ところがオペラ座だと、自分のスタイルを細かく説明しなければならず、それは彼らにはとても大変なことです。すぐに理解してくれるダンサーが必要。それで、僕が彼らから選ばれることが多いだと思います。 

Q:若い振付家の仕事には、自分が師とあおぐコレオグラファーの影響がみられることがよくあります。でも、あなたの作品にはそれがないように思えます。

A:ああ、こうしたことを話せる機会があるのはうれしいですね。まさしく、僕は他のコレオグラファーの例が入り込まないようにし、可能な限りパーソナルな作品をつくるようにしています。振付をはじめたての若い人間は、まだ僕が自分に課す要求がありません。取りのけ、消し去りて、よりパーソナルな作品に仕立てることをしません。自分の好きなスタイルに、無意識に頼ってしまいがちになります。イリ・キリアンのごく最初の頃の作品をみると、ジョン・クランコに近いものが見られます。フォーサイスの初期の作品は、とてもバランシンに近い。初期の作品にこうした影響が見られるのことは、ノーマルなことです。そこから脱出するのには、知的なな努力が必要とされます。うしろに一歩さがって見る必要があります。でも同時に、何事もゼロからは発してないということも言えます。ピナ・バウシュだって、そう。フランスではマーサ・グラハムの作品が知られてないので、言われませんが、グラハムの仕事を知るアメリカではピナの仕事にグラハムの影響をみてとっています。自分が持っている文化的指標でどうしても物事をみる傾向が、どうしてもありますからね。

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photo/ Sébastien Mathé/ Opéra national de Paris

例えば(片腕を上にあげ、手の甲を天に平にする動作をしながら)、こうすると、フォーサイスの手のスタイルとして認識されてるので、見た人は、あ、それはフォーサイスだ。この振付家、フォーサイスが好きなんだとなりますけど、でも、それはバランシンから来てるのです。例えばビデオやエレクトロニック音楽を盛り込むと、人々はそれをマクレガーの作品で見ているので、ああ、それはマクレガーだ、となりますね。でも、違うんです。マクレガーはバランシンよりも、フォーサイスよりも、未来へと進みたいと思ったから、これらを用いたのです。
僕はマクレガーの作品を踊ったことがないのですが、でも、僕の作品をみて、ああ君のマスターはマクレガーなんだね、と言う人がいます。僕は答えるんです。一度も彼と仕事をしたことはないけれど、 レヴェルの違いはありますけど、僕のメンタルな手段が彼と同じなのだと。ぼくはアナクロニズムに陥りたくない、と心がけています。僕の作品が「若いダンサーたち」のプログラムで、マクレガー、ミルピエと並びとなったのはそれゆえなんです。ぼくたち3名の作品が、今日のダンス・クラシックだからです。アプローチが同じ、ということなんです。

Q:予算に限りがなければ、どんなアーチストに舞台装置を依頼したいですか。

A:偉大なコンテンポラリー・アーチストたち。例えば、フランソワ・モルレ。彼はでもたいそうな高齢なので、彼にお願いできるチャンスがめぐってくるかどうか・・。キネティック・アートの創始者で、ポンピドゥー・センターでも展覧会がありました。真っ黒なキャンバス上に光についての仕事をするピエール・スーラージュの仕事も好きです。それから、マタリ・クラッセの仕事も好き。でも、なんといっても一緒に仕事ができたらと夢見ているのは建築家のザハ・ハディッド。彼女がバレエの舞台を創ったら・・・。それは物事が一新されますね。それから僕はフィリップ・スタルクのファンなんです。
今こうして話しをしながら、考え直したのですが、ザハ・ハディッドとフィリップ・スタルク。ぜひ仕事をしてみたいのは、この二人です。ダンスに何かを必ずもたらしてくれるはずですから。今、バンジャマン・ミルピエが創作『ダフニスとクロエ』でダニエル・ビュランと仕事をしていますね。これって、最高だと思います。まるでバレエ・リュスの時代のよう。偉大なクリエーターたちと、新しいことを追求するって。僕は、ミルピエがオペラ座に来ることがとてもうれしいです。彼は今の時代とダンスを共存させようとしています。クラシックなベースを保ちながら現代的であるというのは、素晴らしいことです。

Q:パリで開催中の展覧会で最近何を見ましたか。

A:グランパレで開催中の「ビル・ヴィオラ」展です。マクレガーから受けた衝撃をさきほど話したように、何かをクリエイトするには、もう後ろには戻れないんです。僕が受けたビジュアル面でのショックというのが、実はもう1つあります。それはオペラ座であった『トリスタンとイゾルデ』のオペラです。その舞台背景に、ビル・ヴィオラのビデオが使われていたのです。かつて背景は布に描かれた絵でしたが、2000年以降はビデオの時代です。これが現代言語なんです。モードに例えれば、イヴ・サンローランが女性にスモーキングを着せることで、女性の服装に新しい段階を築きましたね。こうしたアーチストたちは舞台の世界で、そうしたことをしてるのです。だから、僕はこの方向でリサーチを続けます。
社会学者でアーチストのイヴ・ボヌフォワが、こういったのです。「偉大な作品の成功というのは、その結果だけではないのだ。他の人々に追求を続ける可能性を与えることでもあるのだ」と。どのアーチストも終止符とはならず、満足することなく、追求を続ける。振付にせよ、舞台のヴィジュアルにせよ、とにかく、追求の人生。僕はマクレガー、ヴィオラの作品をみることによって、このボヌフォワのことばがするりと理解できたんです。この展覧会は面白く、僕にアイディアをもたらしてくれるので、また見に行こうと思っています。

Q :ミルピエの新芸術監督就任以降、ヌレエフ作品についてはどうなると思いますか。

A:ヌレエフ作品の上演は続けると、彼は言っていますね。彼はこうした傑作へのレスペクトがあります。それに、これこそがオペラ座のアイデンティティですからね。ヌレエフ作品はぼくたちの台座のようなもので不可欠です。すごく要求される振付です。『白鳥の湖』のポロネーズを踊ることによって、多くのことが理解できます。コンクールの課題で、このバレエのソロの稽古をしたときに、自分の仕事において開眼するものがありました。身体の重心、肩の位置、足・・すごく洗練されたソロで、ダンサーとして実に多くを学ぶことができるんです。それにオペラ座にはヌレエフと実際に仕事をした人々がいます。彼らが口伝えでヌレエフの教えを僕たちに伝承してくれるって、素晴らしいことではないですか。

Q:彼の就任後、どんな変化を期待していますか。

A:ルフェーヴルが始めたことですが、オペラ座内のコレオグラファーが発表する機会が今後もあることを期待しています。ダンサーがしたいことを発展させられる場が欲しいですね。彼の着任によって新しいエネルギーが生まれるのは、良いことです。彼はフランス人でもアメリカで仕事をしてますから、僕たちと同じようには物事を見ないと思います。だから、僕たちの目をさますような見方をするかもしれません。彼は今の時代の文化にとても通じています。彼のアイディアで僕たちを動かしてくれることを期待しています。

<<10のショート・ショート>>
1 . プティペール:いません
2 . プティトメール:ステファニー・ロンベール(彼女も僕がボルドーで小さい時に通ったバレエ学校の出身者。今はコレオグラファーとしての僕のアシスタント。僕の作品をダンサーが稽古するときに彼女がコーチをする)。
3 . コレクションしてるもの:出会いなど好機。
4 . 舞台に出る直前にすること:待っている間に不安に襲われないよう、舞台に上がる直前に舞台裏に行く。
5 . 朝食に欠かせない品 :フレッシュ・オレンジジュース(毎朝、フィリップ・スタルクがデザインしたプレスマシーンで絞る。朝のちょっとした幸せ)。
6 . 小さい時に夢みた職業:考古学者。
7 . 好きな香り:ディプティックのパヒューム・キャンドルFeu de bois
8 . 夢のバカンス先:イタリアのアマルフィー海岸。
9 . パリのお気に入りの場所:良い時間を過ごし充電できるのは、マレ地区のティーサロンLoire dans la théière 。
10 . 東京で必ず行く場所 :渋谷(大量の人と情報が溢れ、エネルギーに満ちた信じられない場所)。チャコットのブティック(ここはダンサーの巡礼の地。フランスにはないダンスレッスン用のCDや、ちょっとした品がみつかる)

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