映画「東京SWAN1946」公開直前!宮尾俊太郎×宮武由衣 インタビュー

ワールドレポート/その他

坂口 香野 Text by Kaya Sakaguchi

1946年8月。敗戦からたった1年、焦土と化した東京で『白鳥の湖』全幕が日本初演された。舞台は連日満員の観客を迎え、異例のロングランとなったという。この舞台がきっかけでバレエを始めたダンサーも数多い。
当時を知る人々の貴重な証言とともに、この伝説的な舞台を再現したドキュメンタリー映画「東京SWAN1946 〜戦後の奇跡『白鳥の湖』全幕日本初演〜」が、間もなく開催を迎える「TBSドキュメンタリー映画祭 2023」にて上映される。
衣食住も事欠く時代に、なぜダンサーたちは『白鳥の湖』初演に命をかけたのか。

本作品に出演しているKバレエカンパニーゲスト・アーティスト、俳優の宮尾俊太郎と宮武由衣監督に、本作完成までの道のりやバレエへの思いについてうかがった。

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宮尾俊太郎

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――作品、拝見しました。実際に1946年の舞台に出演した方、見た方々の貴重な証言も、それらを受けて当時の振付を再現した浅川紫織さん、宮尾さんのパ・ド・ドゥも、非常に見ごたえがありました。宮武監督は、そもそもなぜテーマに興味をもったのですか。

宮武 プロデューサーとしてドラマ『カンパニー 〜逆転のスワン〜』(NHK BS 2021年放映)を撮るために、バレエ関係の書籍をいろいろと読んでいたとき『焼け跡の「白鳥の湖」』という本に出会ったんですね。読んで、実際にこんなことがあったのかとびっくりしました。
日本のバレエの原点ともいえる舞台ですけれど、それを当時の人々が熱狂的に受け入れたこと、敗戦から1年のどん底にあった人々の心をバレエが励ましたということに、すごい驚きと感動があったんですね。レオタードは手づくり、男性の稽古着は海水パンツ、当初は全幕の楽譜すらなかったとか。いったいどんな舞台だったのか想像しただけでわくわくしてきました。
Kバレエカンパニーさんに全面協力いただき、宮尾さんにダンサーの高野役で出演していただいて『カンパニー』をつくれたことはとても嬉しかったんですけれど、次はいつか、この題材をドラマか映画にできたらなあと考えていたんです。

ある時、宮尾さんを中心に、映画の配給宣伝関係の方や広告代理店の方など、映画をつくりたい人たちが集まって会議をしたんですね。その時、この企画について話したらすごく盛り上がって。宮尾さんが、この舞台を知っている当時の人たちに話を聞きたいとおっしゃったのがきっかけで、ドキュメンタリー映画の企画としてスタートしました。

――宮尾さんはこのテーマのどんなところに興味を引かれたのですか。

宮尾 僕自身、自分がバレエを必死でやってきたけれど、日本のバレエの歴史についてはほとんど知りませんでした。こんな戦争直後に『白鳥の湖』が初演されていて、しかも帝国劇場を3週間も満席にしたということに驚いて。食べるものもない、街には死体が転がっているような時代に、なぜ命がけでバレエをやろうとしたのか。なぜそこまで、この舞台は人々を熱狂させたのか。「なぜ?」という疑問が次々湧いてきて、これは面白そうだなと思いました。

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――実際に舞台に出演した諸井昭さんをはじめ、この舞台がきっかけでバレエを始めたという現東京シティバレエ団顧問の石井清子さん、『焼け跡の「白鳥の湖」』著者の小野幸恵さんなど、様々な方に取材されています。

宮尾 小野先生は亡くなられてしまったんですけれど、「誰もが使命感を持っている」という言葉が非常に印象に残っています。いつ、どういうタイミングで感じるかはわからないけれど、みんなが持っているんだと。「自分たちの手で『白鳥の湖』全幕を上演するんだ!」と奔走を始めた島田廣さんにとって、バレエこそが貫くべき「肚」であり、使命であったとおっしゃっていました。ふつふつと燃えてきた使命感にかられた人たちが、『白鳥』の舞台をつくったということなんですよね。
その話をうかがって、「自分にとって使命ってなんだろう」とすごく考えました。ちょうどKバレエカンパニーのゲストアーティストに移行して、俳優としての仕事が増えてきた頃です。Kバレエにいた時は、勝手に使命感にかられていた思いはたしかにありました。では今、本当にやりたいこと、貫くべきことはなんだろうと。

宮武 すべてがくつがえった時代だと、皆さんがおっしゃっていましたね。敵国だったアメリカが国を占領し、すべての価値観が崩れてしまった。1946年の新円切り替えで多くの人が財産を失い、新しいお金が一律に配られたという話もありました。何を信じて良いのかわからない状況だったのは間違いないと思います。

宮尾 石井清子先生が語られていた、当時の東京のお話も強烈でしたね。映像にはなっていないんですけど、空襲のとき、学校に避難して一夜明けてみたらグラウンドは、逃げ遅れた人たちの死体の山だったと。川に水を汲みに行ったら、合掌したまま焼け死んだ子どもの遺体が流れて来たんだそうです。その子は「もう死ぬ」と観念して、手を合わせた姿のまま亡くなったわけですよね。凄まじいなあと。そのような景色を見て来た人たちが、僕らと同じようにバレエの稽古場に通っていた。食べるものがないから、そのへんにいるタニシなんかを食べた話もありました。

――そんな状況の中で、なぜバレエに打ち込めたのでしょうか。

宮尾 踊っている時だけが、唯一正気でいられた時間だと。つまり、日常が異世界になってしまっているから、バレエがなかったら正気でいられない状況だったってことですよね。
僕はもちろん、そんな大変な経験はしたことがないけれど、「踊っている瞬間だけは自由」だと感じます。その時間だけは誰にも邪魔されない。特に本番はそうですね。舞台の上は、誰も止められない聖域になる。

――私たちが舞台を観て感動するのは、その自由を共有できるからかもしれませんね。以前、ダンスの研究者の方に聞いたんですが、人の運動を見ているだけで、運動するときに使う脳の部位が反応するそうです。だから、ダンサーの高いジャンプを見ていると、自分も飛んでいるかのような気持ちになれるのかなと思います。

宮尾 感動の本質は共有、共感ですね。僕は感動とは、原子核同士が結びついて巨大なエネルギーを出す核融合みたいなものだと思っているんですよ。

宮武 1946年当時は信じていたものも何もかもなくした時代だったからこそ、観客はオデットと王子が愛を貫く物語に気持ちを乗せて熱狂したのかもしれません。

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――当時の振付、衣裳で『白鳥の湖』を再現するというアイディアは当初から?

宮尾 そこに実は、かなりの紆余曲折があったんです。バレエはテクニックも表現も、時代を経てブラッシュアップされてきています。僕たちは先人が学び、磨いてきたスタイルをもう染みつくまで踊ってきている。ただ当時の衣裳を着て当時のまま踊るだけでは、滑稽なものになりかねない。
それでも、日本のバレエの原点を再現してみよう、というアイディアは出発点からあったので。とにかくそこに立って感じてみようと。

宮武 その意義を探す旅でしたね。答えがない旅だからこそ、ドキュメンタリーそのものでした。

――舞踊評論家のうらわまことさんをはじめ、当時を知る方々が振付指導をされています。うらわさんは、1946年にオデットを踊った松尾明美に師事し、後にパートナーを務められていたんですね。

宮尾 自分たちが培ってきたものを残そうと、皆さん、本当に真剣に寄り添ってくださいました。キーワードは「心で踊る」ということ。それがなかなか明確にならなかったんですね。

宮武 すごく悩みました。「心で踊る」ってなんだろう?って。うらわ先生が繰り返しおっしゃっていたのは、心のキャッチボールを大切にして、一緒に舞台に立つダンサーたちの気持ちを受け取りながら踊ること。そうすることで、作品に魂が宿ると。数少ない当時の方々の映像の中でも、小牧正英さんの『シェヘラザード』を見ると、全身で役になり切って表現していると感じました。つまり、より演劇的にということなのかなと思ったんですけれど、決してそれだけではないんですよね。
そもそも、宮尾さんも浅川さんも演劇性の高いバレエをたくさん踊っていらっしゃる、心情表現の素晴らしいダンサーです。すでに「心で踊っている」んじゃないか。そのお二人が、先人たちから何を学んでどう変わっていく姿を撮ればいいのか。どうすれば、当時の大衆がひきつけられた、魂を震わせる踊りを今、再現できるのか。

宮尾 そこにちょっと僕の振付を入れたらなんて話もありましたが、それでは「再現」の意味がない。撮影の最中に『ハリー・ポッター』の初日を迎えて。答えが出ないまま、舞台が休みの日も休まず撮影をしていました。

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――宮尾さんがうらわさんに「ちょっと踊ってみせてください」というシーンがありましたね。あれは宮尾さんがあの場で思いついて?

宮尾 そうです。うらわ先生が動いてみせてくださったとき、単なる演技以上の「何か」が確かに見えたんです。目の前で動いている命の中に、どのくらい炎が燃えているかが見えた時、「あ、これが心で踊ることだ」と思いました。これがうらわ先生の生きざまであり、人生だなと。それをすべてさらけだして燃やしている。

――あのシーンはぞくっとしました。うらわさんの醸し出す雰囲気も、見ている宮尾さんの表情も。あの微妙な表情の変化は、ドキュメンタリー映像でなくてはとらえられないものですね。

宮武 それを形にできて、本当によかったです。

――本番のパ・ド・ドゥの、浅川さんの表情も素晴らしかったです。自分の身の上を動きで切々と語っていて、そこに内面がそのまま出ているといいますか。

宮武 うらわ先生がおっしゃっていたのは相手の気持ちを受け取ることで、自分の中にも自然に感情が生まれるということでした。だからこそ作品に魂が宿る。魂の宿り方にも様々な形があるのかもしれません。
1946年、焦土の東京で『白鳥の湖』初演をなしとげたダンサーたちは「自分たちが日本のバレエをつくる」と魂を燃やしていました。また、何もかも失った当時の人々の心には、欲にも支配にも惑わされない、純粋な愛という『白鳥の湖』のテーマがストレートに響いたのではないでしょうか。『白鳥の湖』に関わった人々の生き様が重なり、無数の魂が込められたことで、人の心を震わせる、伝説的な舞台になったのだと思います。これは今回の作品を撮り終えて、ようやくわかったことでした。
最後のほうで、宮尾さんは「一生懸命やりました」とおっしゃっています。宮尾さんは「心で踊る」とはどういうことか、最後まで考え続けてくださったからこそあのパ・ド・ドゥを撮影できた。その一方で、一生懸命、命がけでやるしかないということは、ある程度最初からわかっていらしたんじゃないかなって。

宮尾 「懸命」って「一生ぶんの命を懸けて」ですからね。話を聞いて、あの方たちも一生懸命やったんだと思ったんですよ。だったら僕なりの「一生懸命」でやるしかない。それが伝説の舞台にリンクする唯一の方法かなと。

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――宮武監督にとって、ダンサー・俳優としての宮尾さんの魅力とはどんなところでしょうか。

宮武 物事の本質にいちばん最初から気づいているような直観力があって、心から尊敬しています。芸術とエンターテインメント、どちらの引き出しもお持ちです。私はもともと「アートとエンターテインメントを融合したものをつくりたい」という気持ちがあるので、仕事をする上で感覚を共有できるのがありがたいですね。

宮尾 ランチおごります(笑)。僕らダンサーは、どうしても職人気質になりがちですが、宮武さんは、僕らをちゃんと納得させた上で、お客様にわかりやすく届ける力が素晴らしい。それでいて、僕らが大事にしている本質をちゃんと守って形にしてくれる。

――今年の初夏には、宮尾さんも出演されている映画『魔女の香水』が公開されますね。

宮武 はい。主人公が香水の力で未知の可能性を見出していくんですけれど、最後に本当に大切なものに気づかされるというストーリーです。

――『カンパニー』も、今回の『東京SWAN1946』も、芸術とエンターテインメントといったジャンルを超えた、未知のエネルギーへのご興味が根底にあるのかなと感じました。

宮武 そうですね。突き詰めれば、人間の中にある美しさと可能性のようなものがテーマかもしれません。バレエに惹かれるのもそこかなと。バレエは子どもの頃少し習っていただけで、純粋に憧れの存在ですが。

宮尾 1946年当時、バレエはオペラや映画と並ぶ数少ないエンターテインメントのひとつで、西洋文化への憧れが大きかったからこそ、あれだけ多くの観客を集めたという事実もあると思います。今はエンタメがこれだけ多様化していますし、もっと気軽に楽しめるものがたくさんある。でも本当にすごい作品であれば、今の時代だってつかみ取りに来てくれるお客様は必ずいるはず。舞台にしろ映像にしろ、芸術性とエンタメ性を兼ね備えた作品をお客様に届けることは、僕らの使命なんじゃないかな。

――バレエを題材とした作品も、またぜひつくってください。今日はありがとうございました。

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TBSドキュメンタリー映画祭2023
3月17日〜東京、大阪、名古屋、札幌にて順次開催
https://www.tbs.co.jp/TBSDOCS_eigasai/

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