マリインスキー・バレエの壮大なヤコブソン版『スパルタクス』、往年の名バレリーナ、オリガ・モイセーエワに捧げられた
- ワールドレポート
- ワールドレポート(その他)
掲載
ワールドレポート/その他
梶 彩子 text by Ayako Kaji
The Mariinsky Theatre マリインスキー劇場
"Spartacus" Dedicated to the memory of Olga Moiseyeva ballet by Leonid Yakobson set to music by Aram Khachaturian
『スパルタクス』オリガ・モイセーエワに捧ぐ レオニード・ヤコプソン:振付、アラム・ハチャトゥリヤン:音楽
ハチャトゥリヤン音楽のバレエ『スパルタクス』は、1956年、キーロフ劇場(現在のマリインスキー劇場)でレオニード・ヤコプソンの振付で世界初演された。古代ローマのスパルタクスの奴隷反乱を題材にした全三幕の壮大な歴史もので、200人近くが出演する。グリゴローヴィチ版を筆頭にクラシック・バレエのテクニックに基づく振付が多いが、ヤコプソンはダンサーにサンダルを履かせ、クラシック・バレエの基礎であるアン・ドゥオールを排し、独自の舞踊言語を作り上げた。同じ手法はフォーキンの作品でも見られるが、ソ連のアカデミック劇場ではヤコプソン版の『スパルタクス』が最初であり(マリインスキー公式HPの情報による)、その意義は大きい。1976年、1985年、2010年と3度の再演を経て現在もマリインスキー劇場のレパートリーに残っている。
Ⓒ Alexander Neff
今回の公演は、2021年6月24日に92歳で亡くなったキーロフ・バレエの元名バレリーナ、オリガ・モイセーエワに捧げられた。ヤコプソン版『スパルタクス』のエギナを初演で踊ったのはアーラ・シェレストだが、エギナ役の創作においては、シェレストと並んでキャスティングされたモイセーエワの寄与も大きく、彼女は約半年間ヤコプソンのリハーサルにのみ参加するという徹底ぶりで彼の独特の舞踊言語を会得したという。
スパルタクス役のアンドレイ・エルマーコフを除くヴィクトーリア・テリョーシキナ(フリーギヤ)、ユーリー・スメカーロフ(ガルモーディ)、エカテリーナ・コンダウーロワ(エギナ)の3人は、11年前の同じ日(2010年7月1日)に再演版の初日を飾ったメンバーでもある。盤石のキャストが揃い、客席はほぼ満席だった。
エギナ(コンダウーロワ)とガルモーディ(スメカーロフ)ⒸAlexander Neff
まず、ガルモーディ(スメカーロフ)とエギナ(コンダウーロワ)のデュエットが素晴らしかった。ガルモーディをおびき寄せ大胆にのけぞるエギナと、その体の線をなぞり溺れていくガルモーディ。三幕のクラッススの宴会のさなかのデュエットはいっそう熱を帯び、3つの寝台を行き来しながら愛の駆け引きが繰り広げられ、観客を物語へ引き込んだ。
スメカーロフはギリシア彫刻のような顔立ちと体つきで、古代ローマ風の舞台装置を背景に立っているだけで絵になる。スパルタクスと共に自由のために立ち上がったはずが、エギナの魅力に骨抜きにされ、乱飲乱舞の酒宴に身を投じ仲間を裏切ってしまう。その勇ましい戦士の姿とは裏腹の人間らしい弱さをドラマチックに演じた。
コンダウーロワのエギナは、艶やかでありながら、どこかキュートなファム・ファタール。ガルモーディを誘惑する場面も上品で楽しげだった。だからこそ、いよいよガルモーディをこれから捕らえるという場面で客席を向いた時に見せた微笑みの消え去った真顔、そしてそこから目の笑わぬ笑顔をつくる変化が迫力だった。三幕の宴でのソロでは、鋭い跳躍で魅せ、クラッススの腕の中で大きく背を反るラストまでエネルギッシュに踊り切った。
エギナⒸAlexander Neff
エギナⒸAlexander Neff
スパルタクスを踊ったエルマーコフは、鎖につながれた登場から、仲間を亡くし一人になってもなおローマ軍に立ち向かい討たれる最期まで、英雄の名にふさわしい重みのある動きと演技で魅了した。特に、高い跳躍で夜の闇を切り裂くように宙に浮かんだ二幕が印象に残った。
スパルタクス(エルマーコフ)ⒸAlexander Neff
スパルタクス(エルマーコフ)ⒸAlexander Neff
最も盛り上がるのが三幕のクラッススの宴である。メナード(酒神の巫女)とサテュロス(酒神の従者)の踊りから始まり、エギナとクラッススとのデュエットとエギナのソロを挟み、ローマ支配下の都市エトルリア(イタリア半島中部の都市国家群)とカディス(スペイン南西部の港湾都市)の踊りが続き、物語はいよいよ最後の戦いへとつながっていく。
マイナスとサテュロスを永久メイとヴィクター・カイシェタが軽やかに踊った。男性ダンサー2人(マクシーム・イズメースチエフ、ヤロスラーフ・バイボールディン)と女性ダンサー1人(シャーマラ・グーセイノワ)による「エトルリア人の踊り」では、ゆっくりと腰を波打つような動きを繰り返す儀式めいた前半から、激しい音楽に切り替わる後半まで一気に盛り上がった。特に印象深かったのが「カディスの乙女たちの踊り」である。ヴェールに覆われたカディスの乙女たちが祈りのポーズを繰り返しながら一人ずつ登場する。ヴェールを取り払われると乙女たちの肌が露わになり、天を仰ぐ祈りは音楽と共に激しさを増してゆき、恍惚状態に達する。乙女たちを率いたオリガ・ベーリクの力強さが目を引いた。
宴もたけなわといったところで、捕らわれたガルモーディがクラッススの前に投げ出される。身ぐるみをはがされ、遠くに見える磔刑にされた仲間たちの姿に絶望するガルモーディの悲哀が見事だった。
サテュロス(カイシュタ)ⒸAlexander Neff
マイナス(永久メイ)ⒸAlexander Neff
「エトルリア人の踊り」ⒸAlexander Neff
「エトルリア人の踊り」ⒸAlexander Neff
「カディスの乙女たちの踊り」ⒸAlexander Neff
「カディスの乙女たちの踊り」ⒸSvetlana Avvakum
「カディスの乙女たちの踊り」ⒸAlexander Neff
ガルモーディⒸAlexander Neff
自由のために立ち上がり命がけで戦うスパルタクスたちと、派手な酒宴に夢中になるクラッススたちは明確なコントラストを成す。それらを有機的につなぐのが、高浮彫調に表現された舞台場面で、幕に大写しにされている間に舞台装置が転換される。幕が上がると歴史的瞬間が色鮮やかによみがえるようである。
そして、テリョーシキナのフリーギヤが感情表現の極致を見せた。出陣前のスパルタクスとの別れのシーンでは、スパルタクスに会えた喜び、隷属への怒り、そしてスパルタクスの死を予感する悲しみを織り交ぜて表現した。終幕のスパルタクスの死を嘆く「フリーギヤの哀歌」の場面では、腕を歪に折り曲げ、顔をかきむしり、拳を口に当て声を押し殺す。全身で救いようのない絶望を叫ぶ姿に鳥肌が立った。フリーギヤの慟哭は女性のヴォカリーズ(歌詞のない歌)と重なり合い、戦争で愛する人を亡くし残された女性たちの嘆きの総体のように見えた。
スパルタクスとフリーギヤ(テリョーシキナ)の別れ ⒸSvetlana Avvakum
スパルタクスとフリーギヤの別れ ⒸAlexander Neff
「フリーギアの哀歌」ⒸSvetlana Avvakum
「フリーギヤの哀歌」ⒸAlexander Neff
「フリーギヤの哀歌」ⒸSvetlana Avvakum
(2021年7月1日 マリインスキー劇場)
記事の文章および具体的内容を無断で使用することを禁じます。