ジジ・ジャンメール追悼――バレエ、ミュージカル、ミュージックホール、シャンソンに一世を風靡した20世紀の大スターが逝去

ワールドレポート/その他

関口 紘一 Text by Koichi Sekiguchi

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© Opéra national de Paris

20世紀の大スター、ジジ・ジャンメールが逝った。
ローラン・プティが振付けて、世界的に大ヒットしたバレエ『カルメン』、ハリウッドで花開いた『エニシング・ゴーズ(夜は夜もすがら)』『アンデルセン物語』『ブラック・タイツ』などのミュージカル、パリのミュージックホール<カジノ・ド・パリ>のレヴューなどなど、華やかに踊り歌って観衆を魅了したジジ・ジャンメールが7月17日(金)に、スイスで亡くなった。
「私の母は昨夜、トロシェナーズの自宅で安らかに亡くなりました」と、ローラン・プティとの間に生まれた娘で歌手でもあったバランタイン・プティが報道機関に伝えた、という。
フランスのシュルレアリスムの詩人、ルイ・アラゴンは「ジジがいないパリは、パリで亡くなってしまう」と言ったというが、まさにパリを象徴するダンサーであり、民衆に愛されたミュージックホールの女王でもあった。
ジジはパリ・オペラ座バレエ学校から1939年にパリ・オペラ座バレエに入団したが、44年には退団。オペラ座バレエ学校の同級生でオペラ座バレエ団でもずっと一緒だったローラン・プティのパリ・バレエ団に参加。49年にはプティ振付『カルメン』で、ショートカットのヘアスタイルの鮮烈なカルメンを踊って、一躍、世界的スターダンサーとなった。1954年にジジとプティは結婚し、ハリウッドのミュージカル映画やパリのミュージックホールでも大活躍した。ちなみに本名はルネ・ジャンメールで、ジジは"Mon Jesus"の幼年期の発音 "Mon zizi" に由来すると言われている。

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© Opéra national de Paris

日本でもローラン・プティ率いる国立マルセーユ・バレエ団と共に来日した。私は1987年の日本公演を観ている。個人的なことだが、この前年に私はマルセーユ・バレエ団のバルセロナ公演に招待されたこともあり、そのお礼も兼ねてプティとジジ夫妻とディナーを共にした。ジジは明るくおおらかで、際どいセリフも屈託なく話して、お箸を巧みに操って日本食を楽しみ、座を大いに盛り上げてくれたことを覚えている。
この年のローラン・プティ国立マルセーユ・バレエ団の日本公演では、『長靴をはいた猫』(パトリック・デュポン)『コッペリア』(ドミニク・カルフーニ、デニス・ガニオ、プティ)そして『ジジ・ジュテーム』が上演された。
ジジの舞台を観て、まず何よりも驚いたのは、フランスの作家ボリス・ヴィアンが「彼女の脚は身体より長い」と評し、世界的に有名だった<100万ドルの脚線美>。当時、ジジは63歳になったばかりだったはずだが、舞台に立つスラリと伸びた美しい2本の脚が、まるでダイヤモンドのように光り輝いていた印象は、生涯忘れることはできない。
『ジジ・ジュテーム』は、ジジが長いキャリアの中で歌い踊り演じてきた名作のアンソロジーで、ローラン・プティが編みあげたマルティ・スター、ジジ・ジャンメールへのオマージュだ。カルフーニとガニオが踊る『カルメン』のシーンに始まり、シュトラウスの『こうもり』。そしてバッハの曲による『若者と死』、これはジジがヌレエフと踊って話題を呼んだバレエだ。フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースが映画『トップ・ハット』で踊ったことで知られる『チーク・トウ・チーク』(アスティアはこの年の6月に88歳で亡くなっている)。そしてラストは「羽毛を使った私のトリック」大きな羽飾りを様々に変化させて魅せるファン・ダンス。まさに稀代のアーティスト、ジジ・ジャンメールにしか作ることのできない魅惑溢れる最高の舞台だった。
「マレーネ・ディートリッヒのように話し、ジジ・ジャンメールのように踊る」と歌にまで詠われた大スターの死に、マニュエル・ルグリも「・・ジジ・ジャンメールは私たちの思い出の中に永遠に残る・・」と追悼の言葉を寄せた。

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