あるバレリーナの悲劇 エイフマン・バレエ『赤いジゼル』をペテルブルクで観る

ワールドレポート/ペテルブルク

梶 彩子 text by Ayako Kaji

Eifman Ballet of St. Petersburg サンクトペテルブルク・エイフマン・バレエ

"Red Giselle" Choreography by Boris Eifman 『赤いジゼル』ボリス・エイフマン:振付

7月7日、ロシア・バレエの鬼才ボリス・エイフマンの『赤いジゼル』を鑑賞した。
エイフマン作品は巧みな心理描写とアクロバティックなデュエットが特徴的であり、同時にどの作品もテーマが明確である。例えば『ロダン』や『チャイコフスキー』では、天才的芸術家の苦悩を見事に浮き彫りにし、『レクイエム』はレニングラード包囲と粛清の悲劇を扱い、『ロシアン・ハムレット』では女帝エカテリーナ2世の息子パーヴェル1世の悲劇的な生涯という歴史的テーマを取り上げた。『エフゲーニー・オネーギン』ではプーシキンの同名作品の舞台を90年代のソ連末期に移し、現代ロシアで起きたカオスと悲劇を描き出した。

この作品『赤いジゼル』は、アンナ・パヴロワと同時期に活躍したバレリーナ、オリガ・スペシフツェワ(1895-1991)に捧げられている。しかし、彼女のバイオグラフィーをなぞるのではなく、登場人物に具体名を用いず「バレリーナ」「コミッサール」「教師」「パートナー」とし、革命という激動期に祖国を捨てざるを得なかったバレリーナが直面した悲劇へと普遍化された物語に昇華されている。

簡単に史実を補足しながら、印象的な場面をかいつまんで紹介していきたい。
1幕の舞台はロシア革命当時のペトログラード。帝室時代のバレエが革命により到来する新勢力たちによって壊され、国内が「赤色」に染まっていき、バレリーナが亡命を余儀なくされるさまが描かれる。バレリーナ役はオリガ・レズニク。目千両の美しいダンサーである。2016年にワガノワ・バレエ・アカデミーを卒業した若手。

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©Evgeny Matveev

マリインスキー劇場のレッスン風景では、上品で優雅な白いチュチュに身を包んだバレリーナたちを、厳格なバレエ教師が指導する。教師役を務めた若手のアレクサンドル・ソロヴェイは、すらりとした長身のダンサーで、キレのある踊りを見せる。緊張感の漂うレッスンが終わると、教師とヒロインの個人授業と思しきデュエットが始まる。レッスンは次から次へと基本的なパをアレンジした踊りが静かな音楽に合わせて展開される。デュエットがはじまると、アクロバティックで複雑な踊りが非常に滑らかにつながってゆく。二人の踊りがだんだん盛り上がりを見せる中、背景にマリインスキー劇場の舞台装置が現れ、あたかも教師がヒロインを舞台へ誘うよう。金色をベースにした衣装に身を包んだマリインスキー劇場のダンサーたちが現れ、本番風景が描かれる。
ヒロインが主役を踊り切り、拍手喝采の栄光が劇場を満たす。新勢力が舞台芸術を支配する前の、古き良き劇場風景は、黒ずくめの男の登場で一変する。尊大な様子でゆっくりと拍手をしながらバレリーナに近づき、耳元で囁いたり体を撫でまわしたりしながら、ヒロインをだんだんと支配してゆく男は、コミッサール(イーゴリ・スボーチン)。表情が読めない不気味さを漂わせる彼に必死にあらがうバレリーナ。最初はクラシック・バレエのパを繰り返そうとする彼女と、それを邪魔し歪めてゆく男の不穏なパ・ド・ドゥは、ヒロインの敗北で終わる。スボーチン扮するコミッサールは、スペシフツェワと恋愛関係にあり、後にスペシフツェワの亡命を手引きする共産党幹部ボリス・カプルーンをなぞらえている。
マリインスキー劇場の舞台装置に赤い幕が垂れ下がり、革命後の新時代の担い手である、労働者たちが現れる。躍動的で、地を踏み鳴らし、両腕を握りしめ行進するように動かす民衆の踊りは、レッスン風景と非常に対照的。民衆たちが斜めに整列すると、コミッサールが跳躍を繰り返しながら登場する。彼に促されバレリーナも登場し、労働者たちと交互に踊りを披露する。エスメラルダの衣装で、最後にはタンバリンを足で叩くパを披露し、民衆の心をつかむ。エスメラルダはスペシフツェワの当たり役の一つであった。彼女を追い登場するバレエ教師は、教え子を叱責するが、ヒロインの心はコミッサールに傾いてしまっている。

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©Evgeny Matveev

「赤い」ドレスに身を包んだバレリーナが夜会に登場する。コミッサールの男との官能的なデュエットに酔いしれるヒロイン。しかし瀟洒なパーティの背後では、白い服を着た人々がコミッサール同様黒ずくめの男たちに殺されるショッキングなシーンが繰り広げられる。それを目にしたヒロインの恐怖に見開かれた目! スペシフツェワ同様、印象的な大きな目を持ったレズニクの美貌が恐怖におののく。新時代の影に何があるのか、自分が今一緒にいる男が一体何者なのかを知ったヒロインの心理描写は巧みである。コミッサール自身も、処刑を椅子に座って指揮しながら、恐怖に取りつかれたように周りを見回す。その時権力を持つものが、いつその座から引きずり降ろされるかわからない時代を、如実に表している。

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©Evgeny Matveev

マリインスキー劇場のレッスン場に現れ、教師に許しを請うヒロイン。レッスン場にコミッサールを筆頭とする黒ずくめの男たちが現れ、バレリーナたちは彼らの言うとおりに踊らされる。優美な踊りで抵抗するバレリーナたちが、次第に力強い労働者風の踊りに身を投じてゆき、最後には赤いライトに照らされながら、男たちと敬礼し足を踏み鳴らす動きを繰り返す。「赤い」ボリシェビキの不気味なメタファーである。教師が可動式のバーにぶら下げられリンチされる様子は、処刑のようで痛ましい。恐怖、絶望、カオスが渦巻く祖国。舞台背後の坂を白い服を着た人々がのぼっていく。革命主導側であるボリシェビキ(赤軍)に対する白系亡命者たちである。コミッサールとの最後のデュエットののち、バレリーナも彼らを追って、1幕、いわば「ロシア編」は幕を閉じる。

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©Evgeny Matveev

ここで一点補足をすると、「古典バレエの擁護者であり、理想の美をヒロインの中に見出す」教師は、自らバレエ学校を設立し、『歓喜の書』という著書をバレエに捧げた、文学・芸術評論家のアキム・ヴォルィンスキーをなぞらえている。彼はスペシフツェワと非公式の婚姻関係にあった。

2幕は、パリ・オペラ座のレッスン場から始まる。亡命先パリで、全く新しい世界と対面するヒロイン。淡い紫やブルーの、パンツスタイルのレッスン着を着たダンサーたちのレッスン風景は、エイフマンのオペラ座バレエの解釈が垣間見えて面白い。オフ・バランス、軸足をプリエしながらの回転などクラシック・バレエよりはモダンのようなエグゼルシスで、女性ダンサーたちはどことなくコケティッシュ。彼女を迎え入れてくれる「パートナー」と心を通わせたかのようだが、彼には男の恋人がいた。このパートナーはセルジュ・リファールであると言われている。
失意のバレリーナは、ジャズダンスに夢中の社交界に赴くも、孤独なまま。そして、次第に狂気に呑み込まれて行ってしまう。社交界の紳士淑女たちが、ヒロインには、革命に狂喜する民衆に見えてくる。ヒロインが纏う赤い布が、彼女を捕まえて離さない悲劇的な運命のよう。
狂気が明確に表れるのが、『ジゼル』の狂乱の場である。短縮された『ジゼル』の一幕が足早に展開され、その合間には、アルブレヒト役を踊るパートナーと、従者役の彼の恋人の仲睦まじい姿を目にし、ショックを受けるバレリーナの姿も挿入される。スペシフツェワを彷彿とさせる大きな目に狂気の色を宿し、剣を振り回し、地に倒れこみ這う狂乱の場を、レズニクは見事に演じきった。

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©Evgeny Matveev

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©Evgeny Matveev

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©Evgeny Matveev

終盤、パートナーが恋人との諍いの後、精神病院のバレリーナを訪ねる。精神病院を表すガラスのようなドームの中にバレリーナが閉じ込められ、内側からガラスの壁に手のひらを当て、外を窺う様子がうすぼんやりと見える。常人の世界を捨ててしまった痛ましくも美しいヒロインが、ウィリーを模した精神病院の患者たちをバックにパートナーと踊るうちに、やがて、『ジゼル』の二幕のように、夜明けを告げる鐘の音が響く。可動式の数枚の鏡を効果的に用いた演出で、きらきらと輝く鏡にバレリーナがつかまって鏡ごと移動し、パートナーは鏡に阻まれてバレリーナに触れることができない。バレリーナはあたかもウィリーが飛んでいるかのよう。そして、バレリーナは鏡の向こうの世界へと観客に手を差し伸べながら去ってゆき、幕が閉じる。
悲しく壮絶でありながら、幻想的で美しい物語であった。

この作品の登場人物は皆、苦悩する。革命の混乱や異国での孤独から狂気の淵に追いやられるバレリーナ、消えゆくロシア・バレエに心を痛める教師、残酷でありながら内なる葛藤に苛まされるコミッサール、バレリーナの精神的な病に自責の念を感じるパートナー。その苦しみや生きざまが、エイフマン特有の複雑でアクロバティックな舞踊によって、鮮やかに描かれている。主要キャストは若手が占めていたが、それぞれ見事な感情表現で、作品全体に非常に説得力があった。
コール・ドについても言及すると、エイフマン・バレエの特徴として、少ない群舞が何度も違う役で登場する。例えば、バレエ学校の女生徒たち、マリインスキー劇場のダンサーたち、革命に狂喜する民衆たち、オペラ座のダンサー、社交界の人々、精神病院の患者、これらの役を同じメンバーが、すべてこなしている。少数精鋭のダンサーたちによる非常に質の高いバレエ団であると言える。

2019年には同バレエ団が待望の来日を果たす。代表作である『アンナ・カレーニナ』と『ロダン』が上演される予定。今から楽しみである。
(2018年7月7日 アレクサンドリンスキー劇場)

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