[ フランクフルト ] 即興性を発揮させる振付、フォーサイスのインスタレーションによる「The Fact of Matter」展

ウィリアム・フォーサイスのインスタレーションを中心に構成されたThe Fact of Matter展が、2015年10月17日から2016年3月13日までフランクフルト現代美術館で開催された。
振付家としてのフォーサイスというと、「ハード・バランシン」、「バレエのデコンストラクション」、即興を使った集団創作やメディアテクノロジーを用いたダンスの分析や創作など、知的でともすれば難解なイメージを思い浮かべるかもしれない。もちろんそれは一面では正しい。だが他方で、フォーサイスはダンサーにピーナッツのきぐるみを着せたり、芸者の鬘をかぶらせたり、あるいは執拗に自分はペネロペ・クルスだと言い募らせる、といった馬鹿げたことをやるところもある。
また、フォーサイスは知性あふれる人物ではあるが、すべてのことを理詰めで決めていくわけでは決してない。むしろ、とりあえず実践しながら、その結果をみてどんどん変えていくという。これは即興性という言葉で表現できるだろう。ここで即興性という言葉で示したいのは単に事前の準備によらずその場で演じることだけではない。思いつきや面白味、その都度起こることを追いかけていくという心の動きやそこに含まれる自由さでもある(i)。フォーサイスのインスタレーションは鑑賞者がこの即興性を発揮して体感するようにデザインされている。

会場入ってすぐの吹き抜けのホールには、20枚のモニターがつなぎ合わされた大画面が設置されており、そこには鑑賞者自身の姿が映しだされる。『City of Abstracts』(2000)と題されたこのインスタレーションでは、リアルタイムの映像がそのまま流されるのではなく、1、2秒程度遅れて映しだされる仕掛けになっている。そしてその遅れが画面の各所で不均等になるように設計されている。結果として生み出される映像は写真だけでは分かりづらいが、歪んでぬめぬめとしたユーモラスな動きとなる。この動きに誘われるようにして、鑑賞者はごく自然に自分の身体を動かし始める。最初はただ闇雲に動いて画面上にどのようなイメージが現れるかを試し、次第に装置の特性を理解した上で自身のイメージを操作するようになる。つまり自分の身体をインターフェースとして、画面内の自分自身のイメージを振付けることになるのだ。そして、少しでも面白い振付をしようと、鑑賞者はあたかもダンスをするようにさまざまな、時に奇妙な動きを繰り返すことになる。パブリックスペースに設置されることを前提としていたこの作品は、こうして見る側であった鑑賞者の姿そのものがまた見られるものとなり、かつそれが新たな参加を誘発するという構造を持っている。

写真:Dominik Mentzos

写真:Dominik Mentzos

『The Fact of Matter』(2009)はいわばつり輪の森とでも言うべきもので、多数のつり輪が天井から不規則にぶら下がっている。鑑賞者は地面に足をつかないようにこのつり輪の森を通り抜けることが求められる。高さも間隔も不揃いなつり輪に両手両足をかけて進んでいくのは、見かけよりも遥かに難しく、床に付いたたくさんの足跡がそのことを物語っている。実際に挑戦してみると、次のつり輪に手や足をかけようとした瞬間に、支える残りの手足に思わぬ力が必要となったり、それまで保たれていたバランスが一気に崩れ、思わぬ方向と角度に身体が動き出し、バランスを回復するのに四苦八苦したりするハメに陥る。しかし、その適度な難しさは同時に楽しさも生む。バランスを失うことそのものが、身体に新鮮な解放感をもたらすし、揺れ動く不安定な場所でバランスを獲得し直すために、普段は全くやらないような身体の使い方を探求することも気持ちの良いものだ。また、安定した状態を崩さなければ先には進めないので、適度にバランスを崩しつつどのつり輪を離してどのつり輪にいくのか戦略を立てる必要もあり、知的な刺激にも満ちている。

写真:Dominik Mentzos

写真:Dominik Mentzos

この展覧会では鑑賞者が繰り返し自然と即興性を発揮させられることになる。たとえば羽根はたきをもって完全に静止しろと指示される『Towards the Diagnostic Gaze』(2013)、天井から吊り下げられた無数のおもりが不規則に動く中をおもりに触れずに通り抜ける『Nowhere and Everywhere at the Same Time, No.3』(2015)、人工的に発生させた霧にプロジェクターで投影された輪を乱さないように動くよう要請される『Additive Inverse』(2007)などを体験することを通して、鑑賞者は自然に自分の身体を内側から探り、周囲の空間への知覚を研ぎ澄まして運動へとつなげる。つまり鑑賞者は作品を対象として客観的に見るのではなく、主体的に体験することで作品を理解するのみならず、作品を媒介にして自分自身の身体を「見る」ことになるのである。ここで鑑賞者が「見る」ことになる身体は、端的に言えばフォーサイスのダンサーの身体でもある。どういうことか?

写真:Dominik Mentzos

写真:Dominik Mentzos

写真:Dominik Mentzos

写真:Dominik Mentzos

写真:Dominik Mentzos

写真:Dominik Mentzos

フォーサイスがコレオグラフィック・オブジェクトと呼ぶこれらの作品群は、フォーサイスがダンスで実践してきたことを別の形で実現するものである (ii)。これまでフォーサイスはダンサーにさまざまなルールを課した上で即興的に踊らせることで、身体と精神の限界に挑戦し、ダンスの新たな可能性を探求してきた。そこで求められたのは、外延的な身体能力の向上だけではなく、身体に潜む思わぬ断絶や不随意の反応とその利用、あるいはコントロールすることはできないが、危機的状況の際に現れる身体システムの駆動でもあった。
フォーサイスの考え方を学び実践してきたダンサーたちだからこそ可能であった探求だが、本展のようなコレオグラフィック・オブジェクトの形をとることで部分的にではあるが我々にも自らの精神と身体の可能性を探求することが可能になるのだ。つまり、これを体験することは、フォーサイスの「振付の不在を振付ける振付」(iii) を観客としてダンスを見るのとは別の角度から見ることだ。とはいえ、コレオグラフィック・オブジェクトはフォーサイスのダンスを理解するための解説書的なものでは決してない。それらは、フォーサイスのダンスを全く知らない人にも楽しめる開かれた作品であり、日常慣れ親しみ存在を意識すらしないようになっている自らの身体や認識のメカニズムを問いなおす格好の機会となる。
こうして身体感覚を揺さぶられた後でみる『Solo』(1999)は、すでに本作を見慣れた者でも新鮮な驚きをもって体感できるだろう。『Solo』はフォーサイスが即興で踊るダンスを収めた映像作品である。会場の黒く塗られた壁面にほぼ等身大で投影されるフォーサイスのダンスは、あたかも目の前で踊っているような臨場感があり非常に生々しい。通常のダンスのヴォキャブラリーから離れた複雑で予想がつかないダンスには独特のグルーヴもある。だから、他の展示を体験することによって掘り起こされた鑑賞者の身体が強く共振するだろう。
The Fact of Matter展にはこれまでのフォーサイスの実践のエッセンスがつめ込まれている。そこで鑑賞者は振付けられたダンスを見るのではなく、「振付の不在」を振付けられて自らダンスに参入し、更にはその姿が新たな人を自発的に「振付の不在」へと参入させることになる。コレオグラフィック・オブジェクトはそのために精密にデザインされている。ユーモラスな動き、他の鑑賞者たちの様子、オブジェクト自体の美しさ、鑑賞者が即興的に創意工夫できる余地など、さまざまな工夫が凝らされており、そこにフォーサイスのアーティストとしての才が遺憾なく発揮されている。そして、それらはやはり究極的にはダンスに捧げられている。「振付は踊る欲望への経路として機能しなければならない」」(iv) とフォーサイスは言う。The Fact of Matter展に溢れる即興性はまさに鑑賞者を自身の身体の探求へと向かわせ、ダンスへの欲望の経路として機能するだろう。


i)『美学事典』(佐々木健一、1995、東京大学出版会)の「即興」を参照した。
ii)コレオグラフィック・オブジェクトについてはフォーサイス自身によるエッセイと松井智子による紹介が『Who Dance?』(早稲田大学演劇博物館、2015)に掲載されている。またフォーサイスのエッセイの原文は、以下に掲載されている。(http://www.williamforsythe.de/essay.html
iii)フォーサイスの振り付けに関しては『Who Dance?』に掲載されている拙論「振り付けなきダンスのための振り付け」を参照して欲しい。

(iv) Roslyn Sulcas (1995) "Kinetic Isometries: William Forsythe on his 'continuous rethinking of the ways in which movement can be engendered and composed'", Dance International, summer 1995.

ワールドレポート/その他

[ライター]
渡沼 玲史

ページの先頭へ戻る