森優貴インタビュー、ドイツ・レーゲンスブルグ歌劇場芸術監督として7年、そして活動の拠点を日本に

ワールドレポート/大阪・名古屋

インタビュー=すずなあつこ

日本人として初めてヨーロッパの歌劇場の舞踊芸術監督に就任して活躍した森優貴。ドイツ在住だった時にも日本でもいくつもの振付作品を発表していたが、昨年夏から、本格的に活動の拠点を日本に移した。ドイツでの活動から、今、日本に居て思うことまでを聞いた。

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森優貴

──昨年(2019年)夏、拠点を日本に移されて、最初のお仕事がNoismでの金森穣さんとのダブルビル、『Farben(ファルベン)』でしたね。

森:はい、帰国後最初がNoismというのは、とてもありがたいことでした。日本で唯一の公立劇場専属舞踊団との創作は僕自身が経験してきたヨーロッパでの創作環境とほぼ変わらずできました。初日2週間前から毎日舞台上でリハーサルをすることができ、スタジオよりもいっそう本番に近い条件で開幕に向けてのラストスパートの段階(開幕するまでに限りない改良点の発見、修正を繰り返す)を踏んで行くことは創作者にとってもダンサーにとっても大変重要なことですので。それだけに限らず専属舞踊団としてのカンパニースタッフの方々や舞台技術スタッフの方々との共同作業が連日できる、作品に対しての改良点が必要なのであれば劇場に再度話し合うことができ、そして新たなアプローチで作品に関わる全員が個々作業に取り掛かれる。そういう体制は公立劇場で「ものを生み出す」ことでの最大のメリットです。ダンサーが踊ること、表現することのみに集中できるように創る側もそれだけに集中ができる。Noism発足後何度もの危機を乗り越えながら、昨年が16年目としてNoismの新章スタート!という活動継続が決まったことは当然そうあるべきだと僕自身が日本に本帰国をし、実際に新潟で彼らと時間を過ごして強く思ったことでしょうか。このような機会に感謝ばかりしているだけでなく、大きな責任も感じつつ森優貴帰国後の新作第1弾として発表させていただきました。
一方、Noism誕生から15年以上経った今でも、他の都道府県や市町村にこういった劇場専属の芸術集団、僕たちのケースで言うなら舞踊団が創設されていない歯痒さ、情けなさも感じています。これは、国政が文化芸術に対して理解がないとは言い切れない。戦後日本ではバレエが日本に入り、現在日本を代表するバレエ団を創立された先生方はものすごいエネルギーで日本でのバレエを発展させられてきた。外国文化を取り入れ学びつつも、日本人が創る日本でのバレエを作ってこられた。もちろん現代社会とは比べることができない時代背景もあると思います。しかし、今はどうでしょうか? 舞踊に限らず文化芸術を発展していくためには、人としての暮らしに豊かさを求めるには(コロナの期間中多くの方々が人々の暮らしには文化芸術が不可欠だと再認識したはずです。)創る側も、統括していく側も、そして受け止めてくださる観客の意識ももっと変わっていかなければいけない。時代の流れを観察しながら進化していかなくてはならない。財産を凍らせたまま、伝統と言い換え頼り切ってしまっているのでは、今回の様な世界的危機になった場合に平和に慣れすぎたような感覚でズルズルと文化芸術を眠らせてしまうことになり、お上の言うことに忠実であり、お上の様子を伺ってから行動に出ると言うのは最終的に文化芸術を停滞させる危険性にもなり得ると思っています。ヨーロッパでの当たり前の環境で活動してこられた僕の意見は「何を偉そうに」と言われるかもしれませんね。県や市、自治体が積極的に文化芸術を守り発展していかなければ。そこに犠牲が出たとしてもハイリスクが出たとしても。僕にも日本に帰国したからには野心がないわけではない。文化芸術が日本では認知されづらいのは決して国政だけの問題ではないと。それを新潟市、そしてNoismは穣さん筆頭に証明してこられたと。

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『Carmen』2018年マンハイム国立劇場ゲスト振付家、初演
撮影: Hans-Jörg Michel

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『Allegoria』2017年秋初演
撮影: Bettina Stöss

──そうですね。日本で公的な劇場付きの舞踊のカンパニーというと、まだ、新国立劇場バレエ団とNoismだけですね。劇場が芸術を創る場となることを目指す法律、劇場法(劇場・音楽堂等の活性化に関する法律)が2012年に施行されていますが、バレエ・ダンスの世界での動きはまだ小さいと言わざるを得ませんね。ところで、ドイツに22年いらっしゃったのですよね。振り返ってお聞きできるでしょうか?

森:はい、1997年にハンブルク・バレエ学校に留学した時から22年いました。留学は2年程のつもりでいました。当初は学生ビザがなかなか下りず、半年遅れて渡欧したので、約1年半の留学になりました。
卒業学年の時、ハンブルクの先生からハンブルグ・バレエ団入団への前向きなお言葉を頂いていたのですが当時バレエ団に雇用の空きが足りず。ジョン(ノイマイヤー氏)に「もう1年学校に籍を置きながらバレエ団とも活動を共にして来年だったら雇用できる」と言って頂いたのですが、それなら一度出てみようと。外で経験を積んでみて、それでもハンブルグに戻りたければ、その時、また挑戦すればと思って、ニュルンベルグ・バレエ団に入団しました。改修工事を終えた立派な劇場を拠点とした新しいカンパニーの立ち上げの時でした。ここでは、フォーサイスはじめ、ヨーロッパ内で期待されていた当時の新世代振付家たちの作品を踊ることができたのが良かったですね。様々な創作過程でのリサーチ、アプローチの仕方を常に現場で学ぶことができた。しかし僕自身、刺激を受け経験を積むのは3年と決めました。その後は、"この人"と思える振付家のもとでじっくりやりたい、と。

──その、"この人"が、シュテファン・トスだったのですね。

森:そうです。ちょうど3年経った時、シュテファン・トスがキールという街の劇場からハノーファーの州立劇場に異動になる時で、募集があって入団が実現しました。ハノーファーに異動したシュテファンも新たにカンパニーの規模を拡大し30人程のダンサーが在籍していました。ドイツのコンテンポラリー中心のカンパニーでこの規模は当時も今も変わらず珍しいですね。シュテファンの多くの新作で主役など主要なパートを踊らせていただきました。5年経った時、劇場支配人の交替にともなってシュテファンもダンサーも全員解雇。僕はスウェーデンのヨーテボリのカンパニーに移籍しました。移籍1ヶ月後くらいにシュテファンから連絡があり「来シーズンからヴィースバーデンに芸術監督として就任が決まった。一緒に行かないか?」と。その頃、ピナ・バウシュさんが生存されていた頃のヴッパタール舞踊団からもお誘いを受けていたので物凄く決断するのに悩みましたが、シュテファンからの「新たに再スタートさせるにあたって支えてほしいし、僕のところで学び続けてほしい」と言って頂いたことで彼の元へ戻ることにしました。この時のように何年かに一度、自分の人生の流れに多大な影響を受けることになった決断をする場面があったのですが、今、振り返れば全ての決断は正しい選択だったと思います。正しい決断だったと思えるように歩んできたつもりですし、それぞれの場所で"財産になるものを得た"と。

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──素晴らしいですね。そして、振付に関する賞をヨーロッパでも日本でも複数受賞されるなか、レーゲンスブルク歌劇場から芸術監督のオファーが。バレエ発祥の地域であるヨーロッパで初の日本人の舞踊芸術監督でしたね。

森:2012年、レーゲンスブルク歌劇場ダンスカンパニーの芸術監督に就任しました。芸術監督になるにあたっての学びの場ってないんですよね。シュテファンのところでリードして踊り、カンパニースタッフ的なこともさせてもらって来てはいましたが、ダンサーだけでなく劇場全体のスタッフを統括していくこと、レーゲンスブルク市内外の文化教育責任、市の評議会へのアプローチの仕方......などなど、すべて実践で覚えていくしかない。2年間は手探りでしたが3年目くらいから、徐々に様子が分かってくる。芸術監督としてダンサーの雇用、育成、創作者として舞台美術、衣装、音楽などの作品に関わる全てを決めていく。1年先のことを考えて作品プランを作り、言語化し、市の評議会へのプレゼンテーション、記者会見での演目発表を経て、1年前に準備していたことをスタジオで形にしていく。そう言った準備を万全にした上でスタジオでリハーサルを開始し、6週間にわたって積み上げた作品が初日を迎えますが、一方では毎週火曜日の劇場上層部会議で売上チェックが必ずあり売上が伸びていないと、その場で即時に解決法を広報部に指示しなければいけなかったり、劇場支配人や市民からの意見を取り入れざるを得なくて、直前に大きく変更する必要が出たりということもありましたね。就任後2年目を迎えた頃には森優貴の作品性も市民の方々に浸透し、最後の3年は売上がだいたい90%以上でのキープが可能になっていました。それは創作者としてはあまり気にするべきではない事柄かもしれませんが、芸術監督としては出さなければならない結果です。市民が応援し、市民が通う劇場だからこその責務です。経済大国のドイツは地方連邦制で州や市によって劇場の運営予算も、芸術方向性も異なることで、多彩な舞台芸術が国内各地で生まれていきます。これはドイツの文化芸術は国の重要産業の一つとして考えられているからです。文化芸術が根付いた文化大国であるドイツで、音楽家、舞台美術家、技術者、衣装デザイナー、構成作家......など、すべてエキスパートが劇場に揃うなかで、創作活動を自分が育成したダンサーとできていたのは本当に大きな財産だと思っています。その他にもHIVのチャリティーガラの芸術監督も務め、ケープタウンやインドをはじめとするのHIV感染患者施設にも貢献できたりと舞台芸術を通して社会活動に参加することができたことは本当に素晴らしい経験でした。

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『死と乙女』2019年秋初演
撮影: Bettina Stöss

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『死と乙女』
撮影: Bettina Stöss

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『死と乙女』撮影: Bettina Stöss

──もっとも印象に残っている作品はなんですか。

森:全作品と言ってもいいですね。抽象的な作品から、物語性のある全幕作品までレーゲンスブルクでしか創ることができなかった全作品ですから。創作ということは、そこに必ず自分自身の血も肉も細胞も精神も森優貴を形成しているすべてのものが生きている。それを引き継いで表現していくダンサーたちの人生も。その中でも特に2013年に発表した『春の祭典』や退任する最後の年に発表した『死と乙女』とラクロ原作の『危険な関係』は心に残っていますね。

──これから創りたいもの含めて、大切にしていらっしゃるテーマについて聞かせていただけますか。

森:"死"というのが、ずっと心を占めているテーマです。これまで、『死と乙女』、『死の島』......タイトルに示されていなくても"死"を意識した作品を数多く創ってきました。"死"を肯定したいという気持ちがどこかにあるのかもしれない。循環するもの、ループのようなものとして捉えたい。生まれたからには誰もが自覚し誰もが向かう死。誰もが経験する、しかし誰も語ることができない未知の世界への旅。"死"について、様々なことを考えながら作品を創ることで自分が救われている、という面があるのかもしれません。死を意識することで、生きてきたことがどれだけ美しかったことか、生きてきた中で苦しいことがたくさんあったとしても、それでもどれだけ大きな奇跡だったのか。それを肯定したい自分がいます。
これから創りたい作品は、本当にたくさんあります。『カラマーゾフの兄弟』『ヴォイツェック』『真夏の夜の夢』『ニジンスキー』『うたかたの恋』、クラシック・バレエの新演出にも再び挑戦したいですし、レーゲンスブルクで発表した完全オリジナルのダンスサスペンス『The House』を創って以来、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』など王道の推理サスペンスにも惹かれます。僕は基本的に物語性がある作品が自分にはあってる気がしています。抽象的で全幕じゃなく30分、40分などの作品だとしてもそこには必ずストーリーがある。画家のフランシス・ベーコンの人生をテーマとして抽出したもの、シェークスピア文学と作家としての彼の在り方をテーマにしたものなど、ギュッと本質だけが凝縮された作品も創ってきましたが、必ずそこには物語性を持った上での抽象的な作品として発表していました。

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『危険な関係』撮影: Bettina Stöss

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『危険な関係』撮影: Bettina Stöss

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『The House』2015年秋初演
撮影: Bettina Stöss

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『危険な関係』2019年2月初演
撮影: Bettina Stöss

──今、コロナの影響が大きいと思いますが、どう過ごされていますか。

森:今年から2021年の秋までに5つの新作のオファーを頂き発表予定でしたが、当面のものはすべて中止や延期になってしまいました。5月、6月は毎週3回オンラインレッスンを行っていました。週2回がバレエクラスで、週1回が振付のコンビネーションです。6月からスタジオが少しづつ再開されたり、芸術団体も少しづつ活動再開されている中で僕自身が新しい挑戦と思える機会にも出会うことができました。このような思いもよらぬ状況に世界的に全人類が陥り、オンラインでの繋がりが選択肢として唯一「今までのようには行かないけれど、今までのような。。」を可能にしてくれました。そのオンラインに少しづつ慣れてきている自分たちもいる。しかしこれは一時的なことであって再びオフラインでの表現が安全に行えるように願うばかりです。共存していくことを選んでいかなければいけない。そもそも共存していくのが当たり前だったんです。我々人間が自分たちの住みやすい地球に世界に作り上げてきた。これからの時代は安全に共存していく方法を確立させ、報道にコントロールされず自らの知識と目で判断していくべきだと。そのためには1日も早く個々の価値観によって多様に感じ取れる舞台芸術が日常に戻ってこられるよう、そしてその日常が今までのものでなく進化した日常での芸術として改めて人々に認知されるように、努力していかなければと思っています。そのためにオンラインも使いながら、オフラインでの表現で、心が、暮らしが、人々が再び豊かになれればと切に願います。

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