世界のダンスシーンとかかわってきた貞松・浜田バレエ団の30回を迎えた『創作リサイタル30』

ワールドレポート/大阪・名古屋

岡元 ひかる Text by Hikaru Okamoto

貞松・浜田バレエ団

『創作リサイタル30』

貞松・浜田バレエ団は、関西最大規模のバレエ団であり、1989年より「創作リサイタル」公演シリーズを継続し、団員による創作ダンス、および外部の振付家によるモダンやコンテンポラリー・ダンス作品の上演に注力してきた。2018年11月10日(土)、この「創作リサイタル」が第30回を迎えたことを記念して、これまで同団が発表した13作品が一挙に再演された。神戸文化ホール中ホールにて、18時開演の一回公演である。公演全体は3部から成り、第1部に7作品、第2部に5作品、そして第3部にはイスラエルの振付家オハッド・ナハリンの振付作品が割り当てられた。プログラムの順番に沿って各作品を振り返ってみたい。

最初は、バレエ団創設メンバーの一人、植木千枝子が振付けた『調子のいい舞曲』(初演1990年)の抜粋。音楽は、弾みのある三拍子のドヴォルザーク作曲『スラヴ舞曲』だ。円になって行進するダンサーたちは、メロディーの区切りの度に、こちらを向いていっせいにポーズをとる。和気あいあいとした集合写真を何度も撮っているような、愛嬌のある幕開けであった。
松良緑振付の 『時を生きる』 より(初演199年)の群舞は、青いユニタード姿にミニマルな垂直ジャンプなど、米国のマース・カニンガムの作品を彷彿とさせる。ところが彼らの上に君臨するトップダンサーは、スカートをひらめかせ優雅に舞う現代舞踊のダンサー、といった雰囲気だ。そして音楽はビートルズと、この作品に詰め込まれた要素の一つ一つが、かなり異質であるところが興味深い。
長尾良子振付の 『クレイジィラヴ』より(初演1993年)は、ラブ・コメディ漫画を3次元化したようなバレエである。ギンガム・チェックのシャツと吊りズボンを身につけた男性、赤いスカートと白いミニスカートの女性の姿が登場する。ヤキモチ、1人の男性を取り合う女性たち、「愛する人が死んだと信じ込んでいたら、本当は死んでいなかった」という件など、古典バレエの物語にも頻出する人間模様が、キッチュに描かれた。
次は 『不安の時代』(初演1978年)である。貞松・浜田バレエ団の創設者、貞松融が振付けた作品で、半ば演劇的な印象を受けた。社会の周縁に追いやられた若者や路上生活者、放浪者をダンサーたちが演じたこの作品は、初演から40年経った今においても、アクチュアルな社会的課題を想起させる。若者集団が明るく繰り広げた缶蹴りゲームは、生きづらさを一時忘れるための、小さな娯楽や興奮の象徴なのかもしれない。しかし放浪者が通りかかった途端、彼らは無機的なポーズで硬直する。排他、自己中心のイメージがよぎり、不安な生活を余儀なくされている人々への、振付家の眼差しが浮かび上がった。

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「Fashion Nightmare」 撮影/古都栄二(テス大阪)

さて、第一部のほとんどの作品がモダンバレエ、あるいはモダンダンス的な性格が強かった。その中では素我螺部(Scarabe)の藤井泉が振付を担当した『Fashion Nightmare』より(初演2014年)は異色で、これはコンテンポラリー・ダンスと言える。まず特徴的だったのは、カラクリのある衣装だ。ダンサーの宮原由紀夫と堤悠輔の格好といえば、身体の前半分は白いスーツ、しかし後ろを向けば肌色タイツである。この奇天烈な衣装を脱ぎ着し、女装も交えながら行った早着替えのスペクタクルが、会場の笑いをさらった。もう一つ、印象的だったのは舞台上における堤のトークだ。堤は観客に向かって「リブが付いた服がどんなに素晴らしいか」を滔々と語る。語りから伝わる嗜好のマニアックさ、そして関西弁による熱のこもった語り口が滑稽さを生み出した。同時にその背後で宮原はキレのある振付を一心に踊るという、無秩序感もまたさらなる笑いを誘った。
『シンシンソ Sin' Sin' So』(初演1996年)は同団でプリマとしてのキャリアを経た木山美恵の振付である。ソロで出演した吉田朱里の動きの軌道は常にまろやかで、同時にダイナミックでもある。また一つ一つの動作の終わりには、読点を打つようにアクセントが置かれたため、観客の目にポーズが鮮明に焼き付いた。たおやかさと芯の強さを併せ持つ女性像が体現されたように感じられた。

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「セイラーズ・セイリング」 撮影/田中聡(テス大阪)

第一部ラストの作品、貞松正一郎による『セイラーズ・セイリング』より(初演1995年)は、阪神・淡路大震災をきっかけに誕生した。バレエ団の拠点、神戸の被災から約8ヶ月後に初演を迎えているが、当時の団員の中にも被災者がいたのではないだろうか。しかしこの作品では、極めてポジティブなイメージが貫かれていた。洒落っ気のある男女のデュオに始まり、モップを用いた軽快な男性の踊り、その次に女性たちの踊りが続く。上山榛名、名村空のパワフルな超絶技巧は目を引いた。フィナーレでは全員が手に旗を握り、手旗信号で「ガンバローコウベ」のメッセージを客席に送る。災害を題材とした舞台作品はいろいろとあるが、この作品は震災発生から1年も経たない時期に、しかも被災地の振付家が創作した点が特徴的だ。起こった出来事を振り返るとか、歴史を伝えるとか、そのような視点で作品が創作され得るのは、さらに時間が経過してからではないか。この快活さは、実は過剰とも感じられたほどであった。といっても、それを批判したいわけではない。まだ震災の当事者であった振付家が、作品を創作しながら経験していたと考えられる切実さや必死さを、最もリアルに呈示したのは、この過剰な明るさそのものだ。

さて、第二部のレビューに移りたい。
『ENSŌ』より(初演2017年)は、コーラ・ボス・クルーセの作品である。三人のダンサーは、個々が独立して動いており、互いの関係性が見えることがない。プログラムのメモによれば、個人の画一化が一つのテーマであるようだ。今回は抜粋であるため短い上演時間であったが、テーマとの関連を感じ、作品全体を鑑賞したいという気持ちにさせられた。
6カ国8曲の民謡が使用された『ダンス スピリッツ2』より(初演1993年)は、高瀬浩幸が振付けた。古典バレエ 『くるみ割り人形』 のアラビアの踊りにそっくりなシーンもあったが、その一方で、沖縄民謡に合わせた振付は、腰の落とし方や、細かい手の動きに独自性が見られた。弓場亮太、廣岡奈美、その2人の子供を演じる小さな上田夏穂による三人の踊りはのどかで、息ぴったりの本物の親子のようである。他に印象に残ったシーンは、最後の群舞だ。胸部を前に突き出してからコントラクションする上体の用い方や足踏みが土俗的な雰囲気を醸していた。
ソロ作品 『黒い妖精』(初演2000年)の振付者は、神戸のモダンダンスを長年にわたり支えてきた、加藤きよ子である。ダンサーの竹中優花は、身体の芯から情念を絞り出すかのように身をよじる。そして彼女が四肢を身体の外側へ解放すると、それが抑圧された感情の溢出として見える。哀しく切ない感情が強烈に伝わり、モダンダンスの醍醐味を味わった。
ティエリー・マランダイン振付 『キエロ』より(初演1994年)からは、デュオ作品が抜粋された。踊ったのは同団のプリンシパル瀬島五月とアンドリュー・エルフィンストンである。足元は裸足だが、振付はほぼバレエのパ・ド・ドゥの語彙から成ると言ってよいだろう。貞松・浜田バレエ団の顔として活躍してきたが2人は、この公演をもって退団した。リフトの様子から、2人の信頼感が伺えた。

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「冬の旅」 撮影/古都栄二(テス大阪)

さて第二部の最後の締め括りを担った森優貴は、日本人として初めてヨーロッパの公立劇場ダンス部門の芸術監督に就任した振付家である。貞松・浜田バレエ団でのスタートからドイツのハンブルク・バレエスクールへ留学、それからドイツのカンパニーでのキャリアを経て、ドイツ・レーゲンスブルク歌劇場のダンス部門を統括することとなった。森の『冬の旅』は2010年に初演を迎え、今回上演されたのはその抜粋である。
登場した黒装束のダンサーたちは、どこかルネ・マグリットの絵画に出てくるスーツの男のようだ。最初に、舞台奥から綱渡りのように歩いてくる男の浮遊感が印象に残る。足元にあるはずの無い一本の綱、その下に広がる深淵な空間を想像させられた。この男のスローな歩みと、別のダンサーによる素速くキレのある動き、そしてストップモーションが、絶妙なタイミングで順番に行われる。するとそれぞれのスピード感に引き込まれ、時間が流れるスピードにムラができるような感覚を得た。本作のダンサーたちは、まるで異なる時間性を生きる人々だ。
死とは、「あっ」という間の出来事なのだろうか。私たちは将来、どんなスピードで、どのように生と死の境界を超えるのだろう。この作品における「死の訪れ」は、一瞬の点ではない。ピンと張り詰めた首吊り用ロープ、額に押し当てられた銃弾、身をつんざかんとするナイフ...。ダンサーたちは、自死を予感させるポーズで微動だにせず、モノのように舞台上に存在した。この瞬間冷凍の傍ら、しかしまた別のダンサーの動作は日常のスピードで展開されている。作品のラストには、動かず佇む男の帽子をもう一人のダンサーが取って去り、ここにも引き伸ばされた死の瞬間があったことが示唆された。『北斗の拳』に出てくる名台詞「お前はもう死んでいる」ではないが、死の訪れが一瞬であるというのは、先入観に過ぎないかもしれない。
実は数年前、筆者は森のワークショップに参加したことがあった。「漫画のワンシーンでカラスがバサバサバサっと羽ばたくように」「小麦粉の入った袋を床に落とすと、ブワッと粉が舞い上がるイメージで」------。いったんダンサーに振付を渡した後、その振付を細かく分解し、動き一つ一つの質感を調整するために、きわめて特定的かつ具体的なイメージが伝達される稽古の記憶は、今も鮮明である。バレエダンサーがコンテンポラリー・ダンスの作品を踊るとなれば、しばしば佇まいと動きに「バレエっぽさ」が残るが、この作品の出演者たちは違った。このことと、森の稽古の質は無関係ではないだろう。

貞松浜田バレエ団創作リサイタル30「DANCE」撮影:古都栄二(テス大阪)1701.jpeg

「DANCE」 撮影/古都栄二(テス大阪)

では、第三部に移りたい。
「創作リサイタル30」最後の演目は、イスラエルの鬼才、オハッド・ナハリンの振付作品『DANCE』だ。(貞松・浜田バレエ団による初演は2005年)。ナハリンは1990年にイスラエルのダンスカンパニー、バットシェバ舞踊団の芸術監督に就任して以来、同団の名声を一気に世界最高レベルへ高めた。今回の『DANCE』は、バットシェバ舞踊団の初来日時に上演された『アナフェイズ(細胞分裂)』の中の有名なシーンを詰め込んだ作品である。ナハリンの振付作品を上演する権利を得た国内の団体は、現時点で貞松・浜田バレエ団だけしかない。
前の第二部最後の作品『冬の旅』が終了して幕が閉じると、間を空けずに「休憩!」と叫ぶ男性(武藤天華)が登場した。ここから既に『DANCE』は始まっているのである。武藤は「休憩(=今から席を立っても構いません!)」と宣言したそばから、観客の目前で即興パフォーマンスを始めた。パフォーマンスを無視して中座するか、それとも舞台を観続けるか。とつぜん思いがけない選択肢が現れたことで、会場には一瞬動揺の空気が生まれた。
コンテンポラリー・ダンスにおいて、作品とは舞台上で行われる物事だけを指すのではない。観客が置かれた状況や、観客の身に起こることもまた、作品のうちに含まれる。だから客席で「(パフォーマンスが続くから)トイレに行けへんやん...」とつぶやいていた中年女性が経験した、意外性や困惑そのものも作品なのだ。
この作品では、観客はダンサーを一方的に見つめ評価する、いつもの安全な身分から引きずり降ろされる。作品の途中、ダンサーたちは客席に降り立ち、無作為に選んだ観客を舞台に連れて上がって一緒に踊ることを促した。そうして観客とダンサーによる即興コラボレーションが始まったが、それだけでは終わらない。徐々に観客が客席に戻されてゆき、あと1人という段で、グルになったダンサー全員が同じタイミングで床に倒れた。最後に残された女性は、舞台のど真ん中で会場の注目を一身に浴びる羽目になる。

貞松浜田バレエ団創作リサイタル30「DANCE」撮影:田中 聡(テス大阪)1615.jpeg

「DANCE」 撮影/田中聡(テス大阪)

さて貞松・浜田バレエ団の出演者たちは、高速かつ緻密に構成された振付を見事に習得していた。瞬時に放出されるエネルギー、腹の底から声を出す野性味のある姿は、日ごろ彼らが高貴な姫や王子を演じていることを忘れさせる。ただ、もしここで本家のバットシェバ舞踊団のダンサーたちと比較するならば、例えばエネルギー放出の仕方や身の運び方に違いが見えるだろう。バットシェバ舞踊団のダンサーたちは、どんな振付を踊るにしても、身体の内側から突き動かされ、また身体に備わるどの関節も常に緩んでいる、そんな状態で踊る。
実はこの作品を上演するにあたり、出演者たちは振付の練習とはまた別に、特別なレッスンを受けていた。それは、振付家ナハリンが独自に考案した、「GAGA」というレッスンである。GAGAのレッスンでは、専任講師が「水に漂う」「骨が肉を突き抜ける」などの架空の状況を発言し、ダンサーはそのイメージから導かれる動きを自ら創出せねばならない。先に描写したようなバットシェバ特有の身体性は、まさにこのGAGAを毎日受け続けることで形成されたものなのだ。
そもそも貞松・浜田バレエ団による踊りが、バットシェバの完全コピーである必要は無いだろう。しかしそうなると必然的に、作品のアイデンティティは曖昧になる。ナハリン作品の場合、動きの質はとりわけ大きな核であるためだ。とはいえ、限られたリハーサル期間や専任講師の調達などの事情を鑑みれば、どの外部カンパニーにとってもGAGAの継続的な受講は難しい。この問題に正しい答えなど無いが、少なくともダンサーとしての自己のアイデンティティと、作品のアイデンティティ、両者に対して出演者本人が意識的であることは、重要であろう。
最後に特筆したいのは、作品冒頭のシーンである。ユダヤ教の三大祝祭の一つ、「過越祭」を祝う歌が流れ、黒いスーツに身を包んだダンサーたちは全員椅子に腰掛けている。気だるく頭を垂れるダンサーたちは、歌があるフレーズを迎えるといっせいに立ち上がって、ヘブライ語の歌詞を腹の底から発声した。そして下手から上手へうねる波のように、ダンサーが椅子から仰け反る。ナハリンの代名詞とも言える、この有名なシーンの強靭な構造は鉄板だ。
ダンス作品は人に踊られなければ風化してしまう。逆に、ダンサーが作品に出演することで新しい表現方法をわが物にすることもあるだろう。今回の『DANCE』を鑑賞し、その萌芽をみた気がする。

貞松・浜田バレエ団は、ナハリンのみならずイリ・キリアンの作品の上演権を有する点など、世界規模の視野を保ちながら、外部のダンスシーンと関わってきた。加えて、森優貴という振付家を輩出したことは、大きな功績である。関西のバレエ・ダンスシーンの発展には、より開かれた外部との交流が不可欠だ。その点においても、貞松・浜田バレエ団という存在は大きい。
(2018年11月10日 神戸文化ホール 中ホール)

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