地方発信のさまざまなオリジナル企画が行われた

ワールドレポート/大阪・名古屋

唐津 絵理
text by Eri Karatsu

長久手ダンスシアターIII『ゆめのまにまに』

 今月は東海地域で開催された地域劇場独自の、企画性の高い自主公演を紹介したい。
3月初めの週末、愛知県名古屋市の中心から約40~50分ほどの郊外、長久手町と知立市で開催されたのは、その場所に関わりの深いアーティストをメインに、独自に企画されたダンス公演であった。それらはいずれも地方にある劇場が、どのようにその場所に存在するべきか、という公立文化施設の本質的な問題を提起してくれる興味深い内容であった。

長久手ダンスシアターIII『ゆめのまにまに』

長久手文化の家で行われたダンス公演・長久手ダンスシアターIII『ゆめのまにまに』は、50歳以上のシルバー世代の方を対象に昨年から開催されている新しい形のダンス公演。年齢を重ねた人々の、生きざまやその軌跡といったものを舞台の上に、コラージュのように重ねていったパフォーマンスである。演出・構成は山田珠実、音楽監修は野田雅巳。クレジットにも「振付」の明記がないように、ダンス公演というよりも、出演者(大人・約60名、子供・約30名)のそれぞれの身体が、きわめて素に近い状態で舞台におかれ、その間を音楽がつないでいくといった構成になっている。様々な楽器を演奏し、野田と一緒に奔走していた港千尋が印象的。一人の女性がパステルカラーのスリップ姿で横たわってはじまる「眠る女」から、参加者が総出演となる「あなたとわたしの間にあるもの」まで続く14の場面には、個人の内面に踏み込むような内容も多く、友人を誘うには躊躇する参加者も多かったのではなかろうか。また、数十名ものシルバーの参加者を表舞台に上げるために、ダンサーやプロのミュージシャンが黒子に徹して悪戦苦闘しているように見受けられた。

地方では買い公演が多い中、自主制作公演で100名もの地域住民を舞台に上げた、ということだけでも十分に価値あることにも思えるし、確かにプロ・アマチュアあわせ沢山の人々が作品の創作に関わることで、得ることも多いはずだ。それがさらに生きた公演となるためにも、少しでも多くの観客に見ていただきたいと思う。
(長久手文化の家・3月4日)

長久手ダンスシアターIII『ゆめのまにまに』

長久手ダンスシアターIII『ゆめのまにまに』

長久手ダンスシアターIII『ゆめのまにまに』

『雪女』

『雪女』

次の日に知立で開催された『雪女』は、長久手とは少し趣が異なる、プロのダンサーとミュージシャンによる共同制作公演であった。この劇場では、ダンスオペラ『月に憑かれたピエロ』、『神舞』と、すでに2回登場している愛知県出身の舞踊家・平山素子を核にして、日本人には馴染みやすい小泉八雲の怪談「雪女」のダンス化に取り組んだ。音楽も、三味線・野澤徹也と尺八・山口賢治という、日本人には懐かしい楽器による楽器構成(作曲:佐藤容子)で、難しそうなコンテンポラリー・ダンスを、地方の観客にわかりやすく伝えることを目指しているのだろう。

『雪女』

『雪女』

第1部の小泉八雲のひ孫・小泉凡による講演に続いてダンス上演。観客席から登場した尺八の山口がゆっくり歩きながら舞台へ進む。薄明かりの中で、舞台奥には巣穴でもがく生き物らしきものが見えてくる。巣穴から網を破って現れた平山扮するのは妖艶な雪女。女が赤子を身ごもる場面では、ワンピースにスニーカー姿の平山が真緑のボールをもって、知立の舞台の特徴を生かした舞台奥の扉を開け閉めしながら、扉を何度もかいくぐっては登場し、現代的なダンスを繰り返す。テクノっぽい音楽に合わせてボールを赤子に見立てるなど、コメディタッチの振付は平山には珍しく、重くなりがちな今回の怪談作品を軽妙化するのに効果的。ラストの降り続く雪の中、微笑みながら狂ったように舞い続けるダンスは、三味線のかき鳴らす激しい音色と一体になって、魔力的な平山の魅力を十分に引き出していた。
(知立市文化会館・3月5日)


一方、3月18、19日に静岡芸術劇場で開催されたのは、静岡と新潟のそれぞれの作品を同時上演するといった両劇場の共同公演であった。いずれの劇場も芸術監督制をとっており、定期的にプロデュース作品を上演している日本でも数少ない劇場である。
静岡芸術劇場からは、芸術監督の鈴木忠による『ディオニュソス』、そして、新潟市民芸術文化会館りゅーとぴあからは、舞踊部門芸術監督の金森穣が率いるダンスカンパニーNoism05による『NINA』が上演された。

『NINA』は、金森が鈴木の舞台を観たことに着想を得た舞台であり、そのことにより今回の共同上演が実現したという。「物質化する生け贄」というサブタイトルをもつ『NINA』は、まさしく「身体」そのものを追求することで、ダンスの本質に迫った作品である。静岡では、昨年の『NINA』の本公演の第1部を劇場に合わせて、手直しを加えて上演している。本公演については、東京公演(ダンスキューブ1月号)ですでに公演評が書かれているので詳しくは報告しないが、今回こうして2作品を並べて鑑賞することで、鈴木作品における舞台上での身体のあり方が、どのように金森作品に影響を与えたかを、まのあたりにすることができた。そしてダンスでも演劇であっても、真に舞台に立つべき身体がいかに強度を必要とするものなのか、ということを強く実感できた貴重な機会であった。
(静岡芸術劇場・3月19日)

Noism『NINA』

Noism『NINA』

Noism『NINA』

Noism『NINA』

静岡芸術劇場『ディオニュソス』

『ディオニュソス』

日本全国にあまたある劇場が、自らの施設の存在価値を高めるために、地域の状況にあわせて独自の企画を考える必要性がさらに強くなってきている。その上、静岡と新潟のように施設間の連携などにより、さらなる工夫を行っていく必要性もあるだろう。こういった工夫は関東圏に比べ、集客などの苦労など、より強く危機感をもっている地方で行われることが多いように感じる。こうしたひとつひとつの努力が、ダンスが社会に根付いていく本当の力につながっていくのだと思う。

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