NYCBのプリンシパルとして活躍し、初めて黒人のバレエ団を創立したアーサー・ミッチェルが、84歳で亡くなった

ワールドレポート/ニューヨーク

三崎 恵里  Text by Eri Misaki

世界で初めて黒人ダンサーとしてアメリカの大手バレエ団ニューヨーク・シティ・バレエで踊り、黒人バレエ団のダンス・シアター・オブ・ハーレムを創立したアーサー・ミッチェルが9月19日、マンハッタンの病院で死去した。84歳だった。まだ人種差別の激しい時代に、黒人として、プロのダンサーとして、そして芸術監督として燃焼した人生だった。

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Arthur Mitchell. Photo by Joan Marcus

ミッチェル(本名アーサー・アダムス・ミッチェル・ジュニア/Arthur Adams Mitchell Jr.)は1934年3月27日に、ニューヨークでビルの管理人の息子として生まれた。5人兄弟の一番上だった彼は、子どもの時から新聞配達をして家計を助けた。

10歳の頃から芸術に関心を示し、警察のアスレチック・リーグ・グリークラブや教会で歌ったり、近所でタップダンスのクラスを取ったりした。数年後、ミッチェルが学校のダンスパーティーでジタバーグを踊っているのを学校の進路指導の教師が見て、ニューヨークでも有名なハイスクール・オブ・パフォーミング・アーツに進学することを勧める。ミッチェルはフレッド・アステア風のタップダンスを踊ってスクールのオーディションに合格、高校ではジャズ、モダン、バレエとすべてのダンスジャンルに打ち込んだ。あまりにも懸命にトレーニングに励んだため、腹筋を痛めて入院するほどだったという。この時期に厳しいバレエ教師で、黒人ダンサーにバレエを習うことを奨励したカレル・シュック(Karel Shook)に学ぶ。ミッチェルが18歳の時であった。シュックは後に彼と組んで、ダンス・シアター・オブ・ハーレムを設立することとなる。

ミッチェルは1952年に高校を卒業、モダンダンスで有名なベニントン大学からの奨学金入学の招待を断り、NYCBの養成校であるスクール・オブ・アメリカン・バレエ(SAB)に入学する。当時、黒人のダンサーには公演の機会はほぼ皆無であったにも関わらず、ミッチェルはバレエを選択したのである。スクールでは父兄の一部が自分の娘が黒人の男と踊ることを嫌って抗議するという事態もあった。

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Arthur Mitchell_photo by Martha Swope

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DTH Co-founders Karel Shook & Arthur Mitchell, Photographer, Marbeth, 1971 during renovations at 152nd Street

SABで学ぶ間、ミッチェルはブロードウエイ・ショー『花の家(House of Flowers)』(1954)に小さな役で出演したり、ドナルド・マッケイル(Donald McKayle)やアンナ・ソコロウ(Anna Sokolow)のカンパニーなどで踊った。そしてジョン・バトラー・ダンスシアター(John Butler Dance Theater)のメンバーとしてヨーロッパで踊っている時に、NYCBから入団の要請を受ける。ミッチェルは、「ニグロが人種の壁を破るといった報道は一切しない」という条件で承諾する。

ミッチェルは1955年、ニューヨーク・シティ・バレエの振付家で芸術監督だったジョージ・バランシンに採用され、唯一の黒人ダンサーとしてニューヨーク・シティ・バレエの団員となった。まだ人種差別が公然と存在した当時、ダンス界の上部へ上がりつめたミッチェルへの風当たりはきつかった。ダンスの教師の中は、彼にバレエは諦めて他のダンスジャンルへ行くよう勧める者が居たり、彼が白人女性のパートナーと踊るのを見た観客が、ショックのあまり「とんでもないことだ」という手紙をバレエ団に書いたりしたという。

バランシンはそうしたハードルをものともせず、多くの作品をミッチェルに振付けた。その主なものは『アゴン(Agon)』(1957)の主役と『真夏の夜の夢(A Midsummer Night's Dream)』(1962)のパックの役などだ。テレビ局がNYCBに番組出演を要請した時に、ミッチェルは外すように要求したのに対し、バランシンはミッチェルを入れないのであればNYCBは出演しないと一蹴したという。またバランシンと共にNYCBとSABを創立したリンカーン・カースティンともミッチェルは深く通じ合うものがあり、カンパニーのコール・ド・バレエで入る時に、カースティンは彼に、コール・ドであってもプリンシパルのつもりで踊れ、とアドバイスしたという。

1955年、ミッチェルは『ウエスタン・シンフォニー』でNYCBデビューを果たす。当時映画撮影に入っていたプリンシパル、ジャック・ダンボアーズの代役であった。2年後、『アゴン』で男性主役を得る。衣裳は白のTシャツに黒いタイツのみ、相手役はダイアナ・アダムスでこれもシンプルなレオタードとタイツのみだった。1950年代の観客には黒人の男性と白人の女性の組み合わせのバレエは衝撃的かつ画期的なものだったという。

また、バランシンがミュージカル『オン・ユア・トゥズ(On Your Toes)』の劇中ダンスで彼が振付けた『10番街の殺人(Slaughters on 10th Avenue)』をNYCBのレパートリーとしてステージ化する際に、その中のタップダンスの振りをオリジナルメンバーが誰も覚えてなかったため、ミッチェルの助けで再構築したという。

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Arthur Mitchell & George Balanchine. Photo by Marbeth

ミッチェルはNYCBの舞台に出演しながら、ブロードウエイ・ミュージカルやナイトクラブ出演の仕事もしていた。また、1957年のニューポート・ジャズ・フェスティバルと、1960年と61年のイタリアのスポレトで行われた二つの世界のフェスティバルでは、振付家兼ダンサーとして出演した。

1960年代後半、ミッチェルのキャリアは方向転換を始めた。1968年に15年間踊ったNYCBを退団、イタリアのスポレトでダンスカンパニーの立ち上げを助け、ブラジルで国立バレエ団の設立に貢献した。ミッチェルはまた、ニューヨークのキャスリーン・ダンハム・スクールやワシントンのジョーンズ・ヘイウッド・スクール・オブ・バレエで教えるようになった。いずれも黒人のダンサーにとっては重要なダンススクールであった。

そしてバレエ団の設立で頻繁に往復していたブラジルからニューヨークへの帰途、黒人解放運動家マーチン・ルーサー・キング牧師の暗殺を知る。その時、ミッチェルは「他人がアメリカの黒人に変化をもたらすのを待つことは誰にでもできる。自分は今、いろんなことをするために世界中を走り回っている。なら、自分の故郷で同じことはできないか? 誰でも自分のできることで人々を助けることができる。私の場合は芸術を通してそれができる」と考えた。

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Mr. Mitchell with DTH Company Dance Theatre of Harlem Archive

1969年、ミッチェルはかつてバレエを習い、メンターでもあったカレル・シュックと共同で黒人のためのダンススクールを設立する。最初はガレージで教え始め、初めてのクラスには生徒が二人来た。最初はできるだけ多くの子どもたちを集めるためにミッチェルはドレスコードをあまり厳しくしなかった。つまり(特に男の子は)タイツをはかなくても構わないことにし、クラシック音楽ではなく、ドラムのリズムに乗せてレッスンをした。数か月のうちに生徒の数は400人ほどになり、クラスを教会の地下に移さなければならなくなった。子どもたちがあまりにもたくさん集まるので、人々はミッチェルを「ダンスのパイド・パイパー」と呼んだ。しかし、ミッチェルはクラスでは厳しい完璧主義者で知られた。

ミッチェルとシュックはやがてプロのカンパニーを組織に加えることにする。そうすることで生徒たちにゴールと夢を与えるためだった。ダンス・シアター・オブ・ハーレム(DTH)は1971年に正式デビューし、グッゲンハイム美術館で3つのバレエを上演した。

NYCBの振付家のバランシンとジェローム・ロビンズがDTHに作品を寄与し、同じ年の後半にはDTHはイタリアのスポレト・フェスティバルとオランダで公演した。ミッチェルのカンパニーはクラシック・バレエからコンテンポラリー、そしてジャズ風味のバレエまで見せて注目されるようになった。1974年にはニューヨークとロンドンで毎年の定期公演が始まる。1988年にはソ連のモスクワ、トビリシ、レニングラードで公演、全席完売となった。1992年には南アフリカで公演、行く先々で教育プログラムを行った。カンパニーの規模が大きくなるにつれ、ミッチェルは振付から退き、古典レパートリーやコンテンポラリー作品の再現に力を注ぐようになった。

「DTHを始めたとき、まだ世間に黒人にはバレエはできないという間違った観念があった。人々は私に君は例外だと言ったが、私はそれは違う、私には機会があったんだと答えた」と1995年のトロント・スター紙にミッチェルは話している。ワシントン・ポストの批評家は、「ミッチェルは優れたダンサーたちのキャリアを作って発展させただけでなく、アフリカ系アメリカ人のプロのダンサーのイメージを変えた」と書いた。

1985年にシュックが他界。芸術的な成果を上げながら、ダンス・シアター・オブ・ハーレムは経済問題で何度も破綻しそうになり、ミッチェルのビジネス手腕が問われた。アメリカの経済混乱から1990年には企業スポンサーが手を引き、政府からの助成金も減額される事態となり、推定170万ドルの赤字を抱えたDTHは多くの公演をキャンセルし、ダンサーを解雇した。5年後には更にスタッフとダンサーを解雇して、カンパニーメンバーは56名から36名に減少。1997年にはダンサーがストライキを起こす事態となり、2004年にはカンパニーの赤字は250万ドルに膨張して更なる経営難に瀕した。2009年にミッチェルはディレクターの職を辞し、DTHで踊っていたプリマ・バレリーナのヴァージニア・ジョンソンが後を引き継ぐ。2011年、ミッチェルはDTHの名誉芸術監督に就任。カンパニーは2012年に規模を縮小して公演活動を再開、現在はコンスタントに公演ツアーを行い、ニューヨーク・シティ・センターで毎年の公演を行うところまでに回復している。

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Mr. Mitchell with DTH students at Church of the Master Photographer, Bruce Lawrence

今日のDTHは幅を広げて、バレエだけではなく他のバックグラウンドのダンサーも含むようになった。その結果として知られるのが、テネシー・ウィリアムズの戯曲をもとにした『欲望という名の電車』や、1984年に上演された『クレオール・ジゼル』(古典バレエ「ジゼル」の物語を19世紀のルイジアナに置き換えたもの)などである。

ミッチェルは1993年にケネディー・センター栄誉賞を、1994年にはマッカーサー財団フェローシップを、1995年には芸術国家勲章など、多くの賞を受章した。

ミッチェルはジョージ・バランシンとの関係から、自身をロシア貴族の構成を持ったアフリカ系アメリカ人という見方をしていた。「バランシンと私の関係は他のダンサーのそれとはまったく違うものだった。それは、『私はどの役を踊るんですか?』というものではなく、『私にできることは何ですか、遠慮なく使ってください』というものだった。そして彼はそうした。」とミッチェルはニューヨーク・タイムズに語っている。

ワシントン・ポストはミッチェルのダンスへの情熱とダンスの変革の力への信頼は、彼をして「芸術のない人生を送っている人は砂漠に生きているのと同じだ」と言わしめていることに象徴されると書いた。

ミッチェルには直系の家族の遺族はいない。

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