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アメリカのモダンダンス振付家、ポール・テイラー亡くなる、88歳だった

ワールドレポート/ニューヨーク

三崎 恵里  Text by Eri Misaki

20世紀から21世紀にかけて大きな影響を与えた芸術家の一人、そしてアメリカが生んだ芸術であるモダンダンスの草分けの一人、振付家ポール・テイラーがニューヨーク市マンハッタンで8月29日に亡くなった。88歳だった。

テイラーは1954年以来、147作のダンス作品を創った。その多くはアイコン的な存在となり、ポール・テイラー・ダンスカンパニー、テイラー2、そして世界中のダンスカンパニーによって踊られた。
テイラーの作品は広い範囲のトピックスを扱ったが、常に生と死を含む恒常的なテーマに基づいていた。自然の世界とその中における人間の位置、あらゆる性別の組み合わせにおける愛と性、アメリカの歴史における象徴的な瞬間、といった内容を扱った。兵士、彼らを戦場に送り出す者、そして兵士が残していくものたちに対する痛ましいほどの観点は、ニューヨーク・タイムズをしてテイラーを「偉大な戦争詩人」と呼ばしめた。作品の一部は「暗い」と言われ、はたまた一部は「明るい」と言われるが、ほとんどの作品はその両方の要素を含む二元的なものである。テイラーの初期の作品は往々にして因習打破的なものだったが、それでもこれまでになくロマンチックでアスレチック、そして楽しいダンスを作った。

テイラーは死の直前まで振付け、モダンダンスを形成し続けた。2014年、その芸術形式の組織体、ポール・テイラー・アメリカン・ダンスを設立。自らキューレーションし、現在と過去の優れたモダンダンスを自らの作品と共にリンカーンセンターで上演、また新人振付家に製作を委託することによって、モダンダンスが将来へ流れていくことを図った。

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Paul Taylor photo by Maxine Hicks HighRes Cut

今年、テイラー自身が指名した、テイラーカンパニーのダンサー、マイケル・ノヴァク(Michael Novak)が同カンパニー64年の歴史で2番目の芸術監督となった。

ポール・テイラーは1930年6月29日に生まれ、ワシントンDCやその周辺で育った。1940年代に水泳の奨学金を得てシラキュース大学に入学、大学図書館で本を通じでダンスの存在を見つけた。そして、ジュリアード・スクールに転校する。1954年には小さなダンスカンパニーを作って振付を始めた。ダンスを遅く始めたにも関わらず、リードパフォーマーとして踊り、1955年にはマーサ・グラハム・ダンスカンパニーに入団、ソリストとして踊った。その間、自身のカンパニーにも振付を続けていた。1959年、テイラーはニューヨーク・シティ・バレエにゲストアーティストとして招待され、ジョージ・バランシンは彼のためにソロ作品『エピソード』を振付けた。

テイラーがダンス作家として初めて認識されたのは、1957年の『7つの新しいダンス(Seven New Dances)』だった。その中で、動きを排した試みは白紙のダンス批評で注目を集め、グラハムは後に彼を当時の流行歌にひっかけてダンスの「腕白坊主」と呼んだ。1962年に太陽のように明るい『オリオール(Aureole/光輪)』で、テイラーは先駆的なモダンムーブメントを、近代音楽ではなく200年前に作曲された音楽に振付け、これは彼の最初の大きなヒット作となった。かと思うと翌年には『スカッドラマ(Scudorama)』で、宗教の苦行者の観点から全く違う方向を見せた。
テイラーは1965年の『ただの海から、輝く海へ("From Sea To Shining Sea)』でアメリカの著名人の風刺をしてその業績を確立させ、1970年に『ビッグ・バーサ(Big Bertha)』で近親相姦というテーマを舞台の上に置いて物議を醸しだした。1974年に現役を引退した後、『エスプラナード(Esplanade)』を製作、この作品は多くの人々にテイラーの代表的な作品と認識されている。それからは高い評価を受けた多くのダンス作品が怒涛のように続いた。その中には、『切り離された王国(Cloven Kingdom、1976)『春の祭典(Le Sacre du Printemps 〔The Rehearsal〕、1980)、『アーデン・コート(Arden Court、1981)』、『日暮れ(Sunset、 1983)』、『ラスト・ルック(Last Look、1985)』『音楽の贈り物(Musical Offering、1986)』、『言葉にして話すと(Speaking In Tongues、1988)』『ブランデンバーグ(Brandenburgs、1988)』『カンパニーB(Company B、1991)』、『ピアッゾラ・カルデラ(Piazzolla Caldera、1997)』『イヴンタイド(Eventide、1997)』『黒い火曜日(Black Tuesday、2001)』『プロメテウスの火(Promethean Fire、2002)』『 ハゲワシの饗宴(Banquet of Vultures、2005)』 『愛された裏切り者(Beloved Renegade、2008) 』などがある。テイラーの最後の作品は今年3月に発表された『コンサーティアーナ (Concertiana)』だった。

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Aureole Courtasy the Paul Taylor Dance Foundation

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Episoids Courtasy the Paul Taylor Dance Foundation

テイラーはまた、振付を目指す多くの男女に影響を与えた。ピナ・バウシュ、パトリック・コービーン、ローラ・ディーン、センタ・ドライバー、ダニー・エズラロウ、ダニー・グロスマン、デーヴィッド・パーソンズ、トワイラ・サープ、ダグ・ライト、リラ・ヨークなどがその中に含まれる。更に多くの彼のダンサーたちが大学教授として迎えられた。テイラーは衣裳や照明、美術などの著名なアーティストとも仕事をした。ジャスパー・ジョーンズ、アレックス・カッツ、エルスワース・ケリー、ウィリアム・イヴィー・ロング、サント・ロカスト、ジーン・ムーア、タロン・マッサー、ロバート・ロウシェンバーグ、ジョン・ロウリングス、トーマス・スケルトン、ジェニファー・ティプトンなどである。


テイラーは、マシュー・ダイアモンドのオスカー賞にノミネートされたドキュメンタリー、『ダンスメーカー(Dancemaker)』や『創造の領域(Creative Domain)』のモデルで、彼の作品『三つの怪しい記憶(Three Dubious Memories)』を振付ける過程が描かれた。テイラー自身の自伝、『個人の領域(Private Domain)』は全米書籍批評協会(National Book Critics Circle)の1987年の最優秀自叙伝にノミネートされた。また、彼のエッセイ集、『ファクト・アンド・ファンシー(Facts and Fancies)』は2013年に出版された。1992年にはテイラーはケネディー・センター名誉賞を受賞、また同じ年に前年に製作されたWNETテレビ局製作の『言葉にして話すと(Speaking in Tongues)』で優れたテレビ制作に授与されるエミー賞を受賞した。1993年にはクリントン大統領から米国芸術殊勲賞(National Medal of Arts)授与された。1995年には優れた芸術に対して与えられるアルギュラ・H・メドウズ賞を受賞し、米国国会図書館学術研究所によって、「優れた業績を称えられる50人のアメリカ人」の一人に任命された。テイラーは三回グッゲンハイム・フェローシップを授与され、カリフォルニア芸術評議会、コネチカット大学、デューク大学、ジュリアード・スクール、スキドモア大学、ニューヨーク州立大学パーチェス校、シラキュース大学、アデルフィ大学の名誉博士の肩書を持つ。生涯貢献賞はマッカーサー財団フェローシップやサミュエル・H・スクリプス・アメリカンダンスフェスティバル賞等を含む団体から得ている。そのほかの受賞は、ニューヨーク州知事芸術賞、ニューヨーク市長芸術・文化名誉賞などがある。1989年にテイラーはアメリカ芸術・文学研究所の10人のメンバーの一人に選出された。1969年にフランス政府から騎士(Chevalier)に選出されて芸術文化勲章を授与され、1984年には役員(Officier)、1990年には指揮官(Commandeur)に昇格された。そして2000年にはフランス文化への卓越した寄与を称えて、フランスの最高栄誉賞であるレギオンオブオナー(Légion d'Honneur)を受賞した。(ポール・テイラー・ダンスカンパニーの資料に基いて加筆)

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at 50th Anniversary Photo by Paul B. Goode

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