リンカーンセンターで上演され、精神性が高く純粋な心を表した観世能が喝采を浴びた!

ワールドレポート/ニューヨーク

三崎 恵里
text by Eri Misaki

Lincoln Center Festival 2016, Kanze Noh Theatre.

リンカーンセンターフェスティバル 観世能

毎年夏のニューヨークの文化の祭典の一つに、リンカーンセンター・フェスティバルがある。決して長い歴史を持つフェスティバルではないが、ニューヨークを代表する文化の殿堂、リンカーンセンターの名誉をかけた立派な祭典で、毎年世界中から優れた製作を招待する。その中に日本の伝統芸能が含まれるようになって久しい。これまでは歌舞伎が招待されることが多かったが、今年は日本の観世流の宗家が招待された。 能は南北朝時代に盛んだった猿楽から発展したもので、室町時代に観阿弥、世阿弥親子によって芸能として完成された。当時の足利将軍たちに愛され、その後は江戸幕府に保護を受けて発展した日本最古の舞台芸術である。観世流は本家本元として現在に君臨する代表的な流派だが、今回は観世流に限らず、日本を代表する能楽師や狂言師が集まってのニューヨーク公演となった。『羽衣』『柿山伏』『隅田川』という組み合わせの舞台を見た。
この公演ではリンカーンセンターの持ち劇場の一つ、ローズシアターの舞台の上に本格的な能楽堂を作って上演された。本来の舞台の向かって右寄りに正方形の能舞台が作られ、その上には屋根が取り付けられた。舞台に向かって左奥から本舞台に橋懸(はしがかり)が設置され、その橋懸を四つに割るように、一の松、二の松、三の松と3本の小ぶりな松の木が配された。本舞台の屋根に字幕が出るスクリーンが取り付けられ、古語で日本人にも分からない台詞の英訳を流して、観客に物語の内容が分かるように配慮されていた。

8人の地謡方と5人の囃子方がしずしずとそれぞれの位置に着くと、後見の一人がオレンジ色の衣を橋懸の一の松のところの欄干に掛ける。杉市和(すぎいちかず)の笛の音で「羽衣」が始まった。
釣竿を持った白龍(はくりょう)(森常好/もりつねよし/宝生流)が入ってくる。口上を述べて自己紹介をしたあと、手摺に掛けられた衣を丁寧に取り上げて、素晴らしい衣なので家宝にしようと、持ち去ろうとする。すると悲しげな女の声が聞こえる。上のスクリーンに英語で解説と台詞が出るので、観客は何が起こっているのかが分かる。
面をつけ、美しい白い着物を着て、頭に冠を被った天女(岡久廣/おかひさひろ)が出てくる。衣を返してほしいという天女に、この衣を宝にすると白龍は答える。二人のやり取りの途中から音曲が入り、白龍の台詞も語りから謡いになる。それに地謡が加わる。能が世界最古のミュージカルと言われる所以である。非常にスタイライズされた発声と節廻しだ。天女が良い声で応じる。羽衣が無ければ天に帰れないと悲しむ彼女を哀れんだ白龍は、衣を返す代わりに天の舞を見たいと言うと、天女は喜ぶ。しかし、羽衣が無ければ舞えないという天女に、白龍は衣を返すとそのまま逃げてしまうのではないかと人間らしい疑いを持つ。それを聞いた天女は人間の浅ましさを嘆き、恥じ入った白龍は羽衣を天女に返す。

Photo provided by Kanze Noh Theatre

Photo provided by Kanze Noh Theatre

羽衣を返してもらうと、天女は白い着物の上にオレンジ色の上衣を着て、輝くような存在になる。地謡が入り、しっとりと盛り上がると、天女は舞台中央に立ち、舞い始める。摺り足で歩きながら、袖をめくりあげる。だんだんと華やかになり、美しい扇を開いて舞う。衣にも、扇にも、冠にも金色をあしらってある。ひとしきり舞うと床に座り、後見が衣を直した。天女は再び舞い始める。片腕を頭の上に挙げ、美しい袖をかざして華やかさを強調するようだ。だんだん音曲が速くなり、地謡が天女の出発を告げる。橋懸を去りかけて、一度戻り、別れを告げるかのように扇を構えなおして、袖を大きく振り上げ、天女は厳かに去って行く。それまで座って見ていた白龍は、立ち上がって見送る。
騙されることを恐れる人間の邪心と弱さ、その浅はかさを嘆く天女の清らかさに、真の心の在り方を思い出して、はっとする作品である。

その次に演じられたのは、狂言の『柿山伏』。山伏を大蔵流の山本則孝(やまもとのりたか)が、柿の木の主を山本泰太郎(やまもとやすたろう)が演じた。
まず、山伏が橋懸に出てきて口上を述べる。能に比べると言語が現代的で分かりやすく、動きもうんと早く、現代の演劇のスピードだ。山伏は厳しい修行を終えてやっと家路に着くが、喉が渇いたと訴える。見事な柿の実がなっている木を見つけ、柿を刀や石で落とそうとする。会場から笑い声が上がる。石の投げ方も、ソフトボールをするように腕をぐるぐる回すなど、現代風にしている。柿の木の主が現れ、木に登って柿を夢中で食べる山伏を見つけ、懲らしめようと考える。必死で誤魔化そうとする山伏に、柿の木に取りついているのは猿じゃ、犬じゃ、いや鳶じゃと言って、山伏に猿や犬の真似をさせた挙句、木から飛ばせようとする。滑稽なやりとりに、場内には爆笑が渦巻いた。 結局、無理に木から飛び降りてケガをした山伏は、自分が柿を盗みながら、ケガの治療をせよと呪文を唱えてまでも柿の持ち主に迫る。この辺の筋違いの図々しさが、ニューヨーカーには身近に感じるものがあったか、大爆笑となった。
若干気になったのが、柿の木の主が現れた時点から、山伏の台詞も主の台詞も同様の音量でしゃべられ、台詞が重なったこと。台詞は上の字幕に出ているし、観客のほとんどが台詞を聞いても理解できないが、少し耳障りに感じた。

Photo provided by Kanze Noh Theatre

Photo provided by Kanze Noh Theatre

Photo provided by Kanze Noh Theatre

Photo provided by Kanze Noh Theatre

最後に演じられた「隅田川」は海外でも多く演じられて有名な演目である。何故、この演目が広く受け入れられるのかは、国境や人種を超えて心に訴えるものを持つ演目だからということに尽きる。
囃子と地謡が入ると二人の後見が塚を持ち出して、舞台の上に設置する。隅田川の渡守(森常好)が現れて口上を述べる。強い笛の音と共に音曲が始まり、ドラマチックな展開を示すように男(森常太郎/もりじょうたろう)が現れ、自分は東国の商人であると、非常にスタイライズされた口上を述べる。同じ口上を地謡が繰り返す。商人は船頭に船に乗せてくれと頼む。船頭は、向こうから来る女の狂人を待って船を出すと答える。音曲が奏でられ、傘を被り、片手に笹の枝を持った旅装束の女(観世清和/かんぜきよかず)が現れ、口上を述べて、子をなくした悲しみを語る。女は舞台に上がると、狂い笹を持って舞いながら、子なくして生きている甲斐があるかと言う。人さらいにさらわれた子供を追って来た、と涙をぬぐい、千里の距離からも子を察することはできると語る。狂って見せなければ船に乗せないとからかう船頭に女は情けなさを覚えて歌を詠む。狂女でも京の人は違う、と変な感心をする船頭。女の教養に素直に自分のエレガンスの無さを謝る船頭に(女の教養を理解できるのは船頭にも同等の教養があることを意味しているのだが)、女は子を愛する思いは誰も同じ、愛は変わらないと謡う。現代のミュージカルでも聞かれそうな台詞だ。かもめを都鳥と呼んで、女はわが子の居場所を聞く。こんなに上品な狂人は見たことないと、船頭は先の商人と一緒に女を船に乗せる。
対岸に着くと人を弔う念仏が聞こえる。いぶかる客に船頭は、昨年3月15日に10歳くらいの梅若丸という子供が京からさらわれて来て、ここで力尽きてて母を恋しがりながら死んだと話す。語る船頭の声が泣き声になり、女が泣き始める。その子の出身、名前、年頃をあらためて聞く女。女の声が震えながら謡いになる。そしてそれは自分の子だと明かすと、傘を投げだして泣く。
憐れんだ船頭が女を墓に案内する。子供の墓である塚の前に座って、女は語りかける。生きていることを信じて、ここまで来た。子供の姿をもう一度見たいと泣く母。渡守の一緒に念仏を唱えようという言葉に、念仏を唱えるには悲し過ぎる、泣かせてほしいという母。渡守が慰め、誘って一緒に念仏を唱える。女は鐘を打ちながら唱える。壊れてしまいそうな女の心と、支えようとする渡守の優しさが観客の心に染み入る。

二人が美しい声で朗々と「南無阿弥陀仏」と繰り返すうちに、澄んだ空気が場内を満たすのが感じられた。言葉も動きも超えたところで、観客をぐいぐいと集中させる不思議な空間となった。
ふと、女が子供の声が聞こえると言う。船頭も聞こえるといい、母親だけに念仏を唱えさせる。母親の南無阿弥陀仏という呼びかけに、子供の声が「南無阿弥陀仏」と答える。そして、塚から梅若丸の幽霊が現れる。母親が抱き寄せようとするたびに、幽霊はその手をするりとすり抜ける。泣く女。呆然として、母親は子供がまた入ってしまった塚を抱く。
私はこの作品を見て泣かずに終わることはない。女を演じるシテは面を付けていて表情は見えないが、その演技から心が強く伝わった。感情に強く訴える舞台で、能でなくとも、どこにでもある話に見えてくる。非常に精神的で、純粋な人の心を強調する舞台であった。

Photo provided by Kanze Noh Theatre

Photo provided by Kanze Noh Theatre

『隅田川』の演者が去った後、カーテンコールに紋付袴姿で二人の能楽師が、『土蜘蛛』のさわりを披露。刀を抜く独武者(あるいは頼光)に蜘蛛が千筋の真っ白い蜘蛛の糸を投げかけて、観客をもてなした。
さらにその後で、『隅田川』のシテを演じた観世清和が子方(梅若丸役)の藤波重光(ふじなみしげてる)の頭を押さえるようにして登場、まるで悪いことをした子を謝らせるかのように、観客に向かって頭を下げさせた。実は本番中の重光の謡いは美声だったのだが、風邪でも引いてしまったのか、大きく割れていた。清和にとってはとても出来が良いとは言えない舞台になってしまったので、ニューヨークのお客様に謝れ、という意味だったのではないだろうか。パフォーマーにとって、体調管理は仕事のうちなのだ。しかし、それに対してニューヨーカーから返ってきたのは盛大な拍手と、「ブラボー!」だった。
(2016年7月15日夜 Rose Theater)

Photo provided by Kanze Noh Theatre

Photo provided by Kanze Noh Theatre

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