ブロードウェイ・ミュージカル『王様と私』にダンサーとして出演中の四宮貴久にインタビュー

ワールドレポート/ニューヨーク

インタビュー/ブルーシャ西村
text by BRUIXA NISHIMURA

四宮貴久は近年、注目を集めるミュージカル俳優(ダンサー・歌手)、プロデューサーです。四宮の経歴は、通常ミュージカルをやってきている人とは毛色が違い、興味深い独自の活動をしています。国境と型に収まりきらない個性の持ち主で、四宮は本格的な声楽というベースの上に、ニューヨークで23歳からバレエとダンスを始め、ダンサーとしても活躍しています。アメリカでは地方劇場やツアー、スイス、ロシア、韓国で舞台に立ち、日本での初舞台は東宝の『ミス・サイゴン』。それを機に日本で活動するようになり、ミュージカルだけでなくロスのユニバーサル・スタジオ・ハリウッドでダンサーとして踊ったりしてきたバックグラウンドをもつミュージカルダンサーです。
『王様と私』は、渡辺謙も出演している時に観ました。4月13日には、四宮の案内でバックステージツアーをしてもらい、舞台裏、小道具、装置などを色々と説明を受けながらじっくり見学しました。舞台裏は奥行きも広くて、大がかりな装置が様々ありました。
四宮が日本で活動しながら、この『王様と私』のキャストとして出演するまでには、数々のドラマティックな経緯がありました。

Q:23歳でダンスを本格的に習い始めたのですね。

四宮:大学卒業してすぐ、ニューヨークに来て、AMDAというミュージカルの学校で学びました。4か月で1セメスターを4回とって卒業なので、1年半でした。そこに通いながら、ダンスのクラスを受け始めました。AMDAを卒業してもずっとダンスのレッスンは続けていました。多いときは週23クラスとか受けていました。1日4クラスは当たり前に受けていました。ありがたかったのは、たまたまBDCでスカラシップをもらえて、バレエのクラスの先生に、「あなた、私のクラスを全部受けなさい。その代わり、ポワントのクラスをパートナーとして手伝って」と言われて、リフトや回転のサポートなどを手伝いました。その先生のクラスだけでも週に12クラスあったので、短期間でダンスが上達しました。実践を踏んでなんぼっていうところもありましたけれど、入る演目によってダンスのスタイルがぜんぜん違いますし、例えば、日本で『パイレート・クイーン』をやった時にはアイリッシュダンス(アイリッシュタップ)でしたし、いろいろなダンスをやりました。AMDAを卒業したらOPT(プラクティカルトレーニング)をもらえて仕事ができるので、オーディションを受け始めました。

photo/Billy Bustamante

photo/Billy Bustamante

Q:もともと声楽家ですよね。歌だけでなくダンスもできるほうが仕事の幅が広がるから、ダンスもやり始めたのですか。

四宮:そうです。もともとオペラ歌手志望だったので、留学先としてイタリアという選択肢もあったのですが、ミュージカルをやるには、とニューヨークを選びました。

Q:歌は子供の頃からなさっていたのですか。

四宮:歌は、岡山に桃太郎少年合唱団という少年だけの合唱団があって、そこに小学生からいっていました。海外公演もあって、オーストリア、ドイツ、オーストラリアなどへ行きました。今年で50何年目の老舗の合唱団です。それで私は、中学生の頃から海外のオペラハウスだとか、舞台に立つ機会が度々あったので、海外へも目が向いていたため、海外の舞台に出るという考えが当たり前になり、今の自分に影響しているかもしれません。

(C) Paul Kolnik

(C) Paul Kolnik

Q:ミュージカルを選んだきっかけは。

四宮:大学在学中に東京で、『ウエスト・サイド・ストーリー』(アメリカ人キャスト)を観て感動して、それが生まれて初めて観たミュージカルで、自分の中でとても大きかったです。ジェローム・ロビンズ振付で、お話もよく出来ているし、歌も踊りも素晴らしいなと思いました。その東京で観たものを演出していたのが、アラン・ジョンソンだったのです。往年の方で、もともと1950年代から『ウエスト・サイド・ストーリー』のオリジナルキャストで踊っていて、過去50年間ずっと演出も担当してきた方です。私が25歳の時に、彼が演出する『ウエスト・サイド・ストーリー』のスイス公演のキャストに受かって、その流れでミュージカル界に入っていきました。アラン・ジョンソンと知り合ったことが大きかったです。一緒に仕事できて勉強になりました。『ウエスト・サイド・ストーリー』は私の夢だったので、「叶った」と思いました。

Q:本格的な発声法の鍛錬を積んできた歌手であり、ダンサーでもあるということで、珍しいアーティストですね。

四宮:歌メインのものと歌とダンスの両方がメインのものが中心でした。『ミス・サイゴン』とか。

Q:指導や振付の仕事はどのようされたのですか。

「王様と私」のAngel役のときに楽屋で

「王様と私」のAngel役のときに楽屋で

四宮:アメリカに8年半滞在して活動した後、日本で歌とセリフ中心のものを多く演じてきて、商業演劇にちょっと疲れてきたなと感じた頃に、もう私は地方だろうとどこだろうと、人が楽しんでくれて喜んでくれる仕事をやっていこうという気持ちになりました。ダンスだろうと市民ミュージカルだろうと振付だろうと、人が喜んでくれるものを手掛けました。その結果、兵庫のバレエ教室の指導と振付を見た大阪の人に「うちでもお願いします」と頼まれ、さらにそれを見た京都の人に「うちでもお願いします」と頼まれて、だんだん広がっていきました。自分がレッスンをして教えることも、自分が舞台に立つことも、結局、人に喜んでもらえる仕事ということ、子供たちや人を育てるということです。やっぱりバレエだけを習っている子供はなかなか自分の気持ちを表せない場合があるのだけど、もっともっとざっくばらんにすることで、表現していけるように指導していました。そうしているうちに評判になり、大学の幼児教育科の人たちに呼ばれて、「表現法を教えてください」と頼まれて指導したり。もう無数に、指導の仕事が増えていきました。アメリカから日本に拠点を移したのは30歳の時なので、32歳頃からそのような指導と振付の仕事もしていくようになりました。その頃からやりたい方向性がさらにはっきりしてきました。20代で苦労してきたことが30代で役に立ち、生かされています。

Q:愛媛の坊っちゃん劇場のミュージカル『誓いのコイン』に出演して、それがロシア公演に呼ばれて、大成功しましたね。

四宮:マールイ劇場はドラマをやるところで700人以上収容できて、ヨーロッパではかなり有数の劇場です。ロシア大使、日本大使、愛媛の企業家たちが動いて実現しました。ロシアが能とか歌舞伎以外で日本のミュージカルを呼んだのは、これが初めてだったのです。私が何に感銘を受けたのかというと、日本で作ったオリジナルのミュージカルが、海外で受けたということでした。それまでは海外のものに影響されていて、外国人の役に憧れていましたが、これを機に自分の中で「日本人らしさ」を持ったままで表現するというアイデンティティがはっきりしました。ミュージカルの技法は西洋のものであれ、日本語で演じて日本人として出来ているということです。そして今回、オーディションに受かってブロードウェイの『王様と私』に出演していることも、アジア人の役だったから、アジア人の自分だからこそ実現したことでした。これが西洋人の役なら受からないです。20代の頃はアメリカでアジア人として限界を感じていたことが、アジア人ということが生かされるという考えに変わってきました。今は、アジア人としてブロードウェイの舞台に立てることに、日本人として誇りを感じています。

「誓いのコイン」(坊ちゃん劇場)

「誓いのコイン」(坊ちゃん劇場)

「誓いのコイン」(坊ちゃん劇場)

「誓いのコイン」(マールイ劇場別館)

「誓いのコイン」(マールイ劇場別館)

「誓いのコイン」(マールイ劇場別館)

Q:今回のブロードウェイの『王様と私』の振付についてお聞かせください。

四宮:ジェローム・ロビンズの振付なのですが、特殊ですね。2幕の途中に、15分間の劇中劇があるのですが、バレエとタイ舞踊が混ざった振付です。私はそこでも踊っていて、今回はダンサーのキャストとして仕事をしています。リンカーンセンターの劇場は真ん中に舞台が前に突き出ていて、その周りを半円形状に客席が囲んでいる特殊な形をしているので、それに合わせて立体的な演出をしなければならなかったのです。どこの角度から観ても観えるようにするにはどうしたらいいか考えなければならないので、オーディションの最中にあった10日間のワークショップで、それをどうしたらいいのか皆で作り上げていく作業をしていきました。ジェローム・ロビンズのもともとの振付を残しながら、それを生かして同時に、動線は変えていったりしました。ドラマも、演出家(バートレット・シェール)の希望によってすごく深くなっていますし、ただ踊るのではなくて、お話を深く見せるためにはどういうふうに踊ったら良いのか、すごく細かく考えられて作られています。

Q:『王様と私』のオーディションの様子をお話くださいますか。

四宮:私はアーティストとしてアメリカのグリーンカードを取ってから、AEAというミュージカル・演劇の組合に10年前位から入っているので、そこでいつ何のオーディションがあるか情報を得られます。2014年6月くらいからオーディションを発表し始めました。そこから、プリンシパル、シンガー、ダンサーとカテゴリーが分かれていて、7月の頭にダンサー・コールがありました。『王様と私』は、男性は歌うパートがほとんど無くて、ダンサーしか役の枠がないので、私もダンサーとしてオーディションを受けました。

(C) Paul Kolnik

(C) Paul Kolnik

Q:ダンスだけを専門としてやっているダンサーの人たちも、このオーディションをたくさん受けたでしょう?

四宮:もちろんです。

Q:ダンサーとして働いている人々はほとんどが、子供の頃からダンスやバレエを学んでいる人々ばかりだと思います。23歳からバレエを始めて、そういう人たちに混じって、オーディションを受けるレベルにまで到達するのはすごいことですね。

四宮:『王様と私』は前に出演経験があったので、それも生かされました。本格的にダンスとバレエを習い始めたのはニューヨークに来てからで、始めたのは23歳と遅いですが、日本では近くにバレエ教室が無かったですし、バレエに触れる機会がなかったからなのです。でも大学の時にもダンスに興味はあったので、少しだけレッスンを受けてみました。ニューヨークに来てから初めて、バレエ、ジャズ、タップなど、ミュージカルに必要なことは一通りやってみました。
私は日本に住んでいたので、今回のオーディションに合格するまでの経緯は特殊なものでした。まず7月にダンサー・コールがあってから、コールバックがいくつかありました。私は日本からニューヨークへオーディションを受けに行っていました。そして9月の終わりごろに2週間のワークショップがあって、そこに16〜18人くらい絞って集められて、実際の劇中劇のバレエシーンをどうやって作るかというのが最終的なオーディションでした。その間に、どの人だったらどの役ができるかとか、雰囲気とか体格とかを見極められて、具体的に選ばれていきました。結果、その中の3分の2弱がオリジナルキャストとして残りました。

四宮貴久が岡山で手がけた「王様と私」

四宮貴久が岡山で手がけた「王様と私」

7月の最初のオーディションには、ポストされている日に京都で教えているバレエ教室の公演をやっていたため行けなかったので、あきらめました。
でも次に、エージェントから集められるインバイテッド・コールを探したのです。それで現地の友だちの助けを借りて、「そのオーディションがあるかもしれない」という噂を聞いたので、その噂の段階で行って、オーディションがあったのですけれど、それは役付きのオーディションだったので受けられなかったのです。噂だけのために、すぐに2日後のフライトを押さえて、ニューヨークへ来ました。
私はオーディションを出遅れてしまったので、あせっていたため、オーディションを受けて落ちるなら納得できますが、受けずにあきらめるのは納得できなくて「やっぱり行けばよかった」と後から後悔するからです。オーディションのために何回も日本とニューヨークを往復したので、飛行機代は5000ドル以上使っています。お金の問題ではないです。後々、わだかまりが残ったまま生きていくのはスパッとしないからです。

四宮貴久

そしていったんあきらめてまた帰国して仕事をするために空港へ戻っている車の中で、それから4日後に「今度はダンサーとしてのインバイテッド・コールがある」という連絡を受けて、帰国した後またすぐ4日後にニューヨークへ戻りました。金曜日にその噂があって、火曜日にそのダンスコールがあって、週末日本で仕事をした後、火曜日にオーディションを受けに来ました。それで見てもらえました。この時は、1週間に2往復しました。時差もあって体内時計が分からなくなっていて、ヘトヘトで、足がプルプルしていましたけれど、ダンスのオーディションを受けたのです。その日は滞在時間13時間で日本へ帰りました。 「わらにもすがる思い」ってこういうことだなと思いました。「これは絶対に行かないと!」と必死でした。これだけアジア人がハイヤーされるブロードウェイ・ミュージカルは他には無いからです。ブロードウェイの世界では、アジア人が出演できるのはたったの2パーセントと言われているのです。

それからまた、「この日に来れる?」と言われたのですが、「日本に帰らなきゃならない仕事があったのでまた一旦帰ります。でもこのような交通の事情があるので、ダンスコールが必要ならばまた来ますが、もしできれば、必要ならば後発のものに呼んでくれたらありがたい」ということを伝えたら、OKと。でもその後、周りの仲間の友だちはみんなコールバックがもらえているのに、私だけなかったので、あせってきていました。実際は、キャスティングが交通費について気を使ってくれて、フタを開けたら、最終的に9月のワークショップに呼んでもらえました。それが10月4日くらいに終わり、日本に帰って2〜3日後くらいにすぐオファーがきました。 
私はその時日本で仕事が詰まっていたので、自分が出ているショーと、振付が2ヵ所と、あと、1月の終わりに自分がプロデュースしている公演『TRAILS』が東京であったので、その下準備といろいろありました。『TRAILS』は1月28日から1週間公演があったので、私はその28日のオープニングを見届けて、そのまま次の朝飛行機に乗って、29日にニューヨークでリハーサルが始まりました。そのリハーサル初日は朝からありましたが私は少しミスして、正午くらいから参加しました。

(C) Paul Kolnik

(C) Paul Kolnik

それから毎日、稽古が始まりました。渡辺謙さんもそこにいらしていました。
3月12日がプレビューの初日で、最初は3時間25分の作品だったのですが、それから1ヶ月の間に、4月16日の本公演の初日までに短くして3時間以内に収めるように作り上げて、かいつまんでかいつまんで、段取りのロスをなくしていき、最終的に2時間55分の作品にしました。
作品の立ち上げからたずさわれたことは良かったです。ミュージカルを作り上げる時期は、一番大きな学習の時間でした。公演は週8回で、毎週月曜日休みです。
(2015年秋から2016年4月までの間に、数回インタビューしたものをまとめました)

渡辺謙と「王様と私」の舞台裏で

渡辺謙と「王様と私」の舞台裏で

バックステージでは渡辺謙さんにもお目に掛かりました。渡辺謙さんは「ジャズダンスを習っていたからチャコットにはお世話にになったよ」と。私はサムライのイメージが強かったのですが、「ジャズダンスをやっていたおかげで、演技にもいろんな役に立っているよ。手の振りとか動きとかきれいに出来るし、 ぜんぜん違うよ。」といいながら、手を動かして見せてくださいました。


『王様と私』
トニー賞受賞演出家・バートレット・シェール演出による再演。(1951年、セント・ジェームズ劇場初演。)2015年版では、渡辺謙の王様役、ケリー・オハラのアンナ役。第69回トニー賞では、ミュージカル・リバイバル作品賞、ケリー・オハラがミュージカル主演女優賞、ルーシー・アン・マイルズがミュージカル助演女優賞、ミュージカル衣装デザイン賞受賞。渡辺謙は第69回トニー賞のミュージカル部門の主演男優賞に日本人として初めてノミネートされた。


四宮貴久(シノミヤアツヒサ)
岡山県玉野市出身、1976年生まれ。国立音楽大学音楽学部声楽科卒。大学在学中に観たアメリカ人キャストによる『ウエスト・サイド・ストーリー』を観てミュージカルに惹かれるようになる。卒業後、単身渡米し、AMDA( American Musical and Dramatic Academy )、 BDC( Broadway Dance Center )などで研鑽を積む。主な出演作には、ブロードウェイ・ミュージカル『王様と私』(バーレット・シェール演出)、全米ツアー『王様と私』(バイヨーク・リー演出)、スイス公演『ウエスト・サイド・ストーリー』(アラン・ジョンソン振付・演出)、米地方公演『モダン・ミリー』『ラ・カージュ・オ・フィール』『ピーターパン』他。

photo/Billy Bustamante

photo/Billy Bustamante

ミュージカル『TRAILS』(四宮貴久翻訳・プロデュース)が、シアター・グリーンにて行われたグリーンフェスタ2015にてBIGTREE THEATER賞受賞。坊っちゃん劇場(愛媛県東温市)のミュージカル『誓いのコイン』(四宮貴久:主演(ロシア兵二コライ))、同ミュージカルが2012年9月ロシア公演(モスクワ・マールイ劇場、オレンブルグ・国立ドラマ劇場)。おかやま国際音楽祭2010『王様と私』(四宮貴久: 翻訳、演出、振付、主演(王様))。ユニバーサル・スタジオ・ハリウッドほか様々な場所でダンサーとして出演。米国内AEA、SAG、AGVAの各俳優協会に所属。東温市観光大使。東宝ミュージカル『ミス・サイゴン』のオーディション合格を機に東京へ拠点を移す。その後、東宝『パイレート・クイーン』『ドラキュラ伝説〜千年愛〜』などに出演。ダンス、歌、芝居と幅広くこなし、各地にて演出・振付・指導にも力を注ぐ。
四宮貴久ブログ 
http://ameblo.jp/atsuhisa-shinomiya/

2015年1月、ニュ−ヨークに渡る直前に四宮が翻訳・プロデュースしたミュージカル「TRAILS」について、四宮は「2007年に、サンディエゴ近郊の劇場で『Thoroughly Modern Millie』という舞台をやっていた時に、共演者の奥さんが『TRAILS』の脚本家で、まだ開発段階の脚本と音楽を聴かせてもらったところから、"これは日本の人たちにも絶対に受ける、いつかやりたい"と思っていました。2012年のコンサートヴァージョンで好評を博し、2015年はフルヴァージョンで上演しました。また、ブロードウエイの過去の作品を買って公演する商業演劇に反し、"ブロードウエイに上がる前の作品でもこれだけの秀作があるんだ"ということを広めるライフワークの一つです。」
また、四宮貴久が主演(ロシア兵二コライ)をつとめた日本のオリジナル・ミュージカル『誓いのコイン』(坊っちゃん劇場、愛媛県東温市 2011年)は、2012年9月ロシア公演(モスクワ・マールイ劇場、オレンブルグ・国立ドラマ劇場)に招聘され大成功しました。

ページの先頭へ戻る