渡辺謙が威風堂々の演技で観客を魅了した『王様と私』

ワールドレポート/ニューヨーク

三崎 恵里
text by Eri Misaki

Lincoln Center Theater at the Vivian Beaumont

"The King and I" Music by Richard Rodgers and Book and lyrics by Oscar Hammerstein II, Directed by Bartlett Sher, and choreographed by Christopher Gattelli.
『王様と私』リチャード・ロジャーズ:作曲、オスカー・ハマースタイン二世:作詞・脚本、バートレット・シャー:演出、クリストファー・ガッテリ:振付

ニューヨークといえばブロードウェイ。ブロードウェイを目指して世界中からダンサーや俳優たちがニューヨークに来る。しかし、実際にブロードウェイの舞台に立つのは至難の業だ。白人至上主義と陰口をたたかれるこの業界で、特にアジア系が起用されるショーは少ない。そんな中で『王様と私』はアジア系がどっさりとリクルートされ、大成功したことで知られるショーである。このショーが昨年リバイバルされ、日本人俳優、渡辺謙が準主役の王様に抜擢されたことで、日本でもニューヨークでも大きな話題になった。その渡辺がこの春、再びブロードウェイの舞台に立っている。
ショーが行われているヴィヴィアン・ビューモント・シアターはリンカーンセンターが運営するブロードウェイショー用の劇場で、比較的新しい。ステージは劇場の一番低い所にあるブラックボックススタイルで、ステージの周りを客席が扇方に放射状に囲むように設置されている。いろいろと独創的な使い方ができる劇場だが、今回の『王様と私』では、出演者が多く客席アイルを使用して出入りしたのが印象的だった。

オーケストラによる前奏が終わって幕が開く瞬間、劇場の舞台の上からオーケストラピットを覆うように吊り上げられていた大きな白い布がふわりと落ちて、一瞬ステージを覆う。観客が驚く次の瞬間にその布はさっと袖に引き降ろされ、観客の目に飛び込むのは大きな船。余計なものを見せずに、一瞬にして観客を全く違う世界に引き込む演出だ。船が動くステージによってオーケストラピットの上をほぼ覆うところまでせり出してくると、シャム(タイの旧名)の王宮での王族の家庭教師として派遣されたイギリス人女性アンナ(ケリー・オハラKelly O'Hara)と息子のルイス(Nicky Torchia)が船長と共に乗っている。巨大な船の上で俳優が観客のすぐ目の前で演技をしている。観客アイルを中世タイ庶民の装束のダンサーたちが出て来て、船がシャムに着いたことが分かる。次の瞬間船が引いて、舞台はあっという間にシャムの街に変わる。
異国に戸惑う母子を宮廷からの使いが迎える。雑踏を想像させるかのような民衆の群舞があり、アジア独特の男尊女卑と封建制を印象付ける会話が、アンナと宰相(ポール・ナカウチ)の間で交わされ、一行は宮殿へ向かう。

(C) Paul Kolnik

(C) Paul Kolnik

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宮殿の場では、王(渡辺謙 Ken Watanabe)が従僕を伴って現れる。客席アイルから出るが、ステージに上がる時に渡辺は振り向いて一瞬観客を凝視し、そしてステージに上がった。これは非常に優れた演出で、東洋系の出演者が多く、しかも客席アイルから背中を見せて舞台に入ることから、アメリカ人観客には誰が誰なのか見分けがつかない中、王の存在を明確に浮き上がらせた。従僕との会話が始まると、渡辺の英語の台詞回しも巧みで声量も良い。豊かな体格が舞台映えして、威風堂々としている。そこへ隣国から献上されたタプティム王女(Ashly Park)が登場。美しく、非常に歌唱力に富んでいる。随行してきた従者のルン・タ(Conrad Ricamora)は実は彼女の恋人。外交関係を維持するために女性を献上するという中世のアジア外交と、政略結婚の犠牲になる若い恋人たちを描くサブストーリーの主人公たちだ。渡辺は威厳ある演技で、このショーの背景である強引で封建的な王国の在り方を印象付けた。

アンナは王に挨拶するや否や、出発前に条件として希望した自宅の支給を正面から主張して王をてこずらせる。初めて女性に逆らわれた王は、西洋の女は扱い辛いことを知る。オハラは派手な容姿ではないが、理知的でカリスマ性を持ち、優れた歌唱力と凛とした演技は説得力がある。家を支給してもらえないまま、仕方なく与えられた宮殿の部屋に落ち着くアンナのもとに王の第一夫人のティアン夫人(Ann Sanders)が訪れ、さりげなく王との付き合い方をアンナに話す。この場面は男性に対して積極的に発言する西洋の女性と、従う振りをしていつの間にか男を操る東洋の女性の在り方を端的に見せていて面白い。
宮殿の広間でアンナは王一族に紹介される。多くの妻妾とその子供達が次々とアンナに挨拶する。王は子供が67人いるとアンナに言う。一番年上のチュラロンコーン王子(Jon Viktor Corpuz)は十代で難しい年ごろ。双子の皇子が居たり、中にはアンナの西洋の大きなスカートをめくって王を慌てさせるやんちゃ坊主も。東洋系の子供達を多く起用しているに加え、白人の子役たちも東洋系に見えるメイクで出演している。

この頃、シャムは進出してくる海外勢力の脅威に苦しんでいた。フランスとイギリスが次々とビルマやベトナム、ラオス等、隣国を植民地化していく中、王はシャムの独立を守るために苦悩していた。そこへ持って来て、雇ったばかりのイギリス人家庭教師が無理難題を言い張って譲らないと、「Puzzlement(困惑)」を歌って観客に訴える。これが渡辺の最初のソロ曲で、若干歌へ持って行く呼吸がうまく行かなかったのか、体で歌うまでに達せず、巧みに演技で補って無難にこなした。王の心労は健康も追い詰めているのか、心臓疾患を示唆する様子を見せる。
アンナは王の妻や子供たちに英語を教え、世界地理を教える。ティアン夫人はシャムがいかに大きく、隣国のビルマ(ミャンマー)がどんなに小さいかを描いた地図を子供たちに見せるが、アンナは本当の世界地図を見せ、世界は大きいことを教える。そして他人を尊重することも教える。父に似てへそ曲がりで頑固者の長男のチュラロンコーン王子が、アンナを尊重する態度を見せるようになる。アンナは王一族に溶け込み愛される存在になっていた。

(C) Paul Kolnik

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(C) Paul Kolnik

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王は怒鳴りまくることで威厳を保ち封建的だが、一方で西洋教育を取り入れ、近代化に目を向けようとしていた。しかし、相変わらずアンナとは家の支給で揉め、自分より頭が高いのは許さんと怒鳴る。双方とも腹を立てながら、どこかで相手に耳を傾け、不思議なバランスが成立する様がユーモラスに描かれている。脚本が非常に良く、聖書をモーゼと呼んだり、たまたまこの公演日がキリスト教の復活祭の時期に当たることを取り入れて、「今週はこの話で持ちきりなんだ」と王に喋らせて観客を爆笑させるなど、西洋文化に馴染もうとする王の愛すべき面を随所に盛り込んである。オハラと渡辺はあうんの呼吸で見事に演じ、観客を何度も笑いの渦に巻き込んだ。
ティプタム王女と従者のルン・タは人目を忍びながら密会、ブロードウェイショーにつきものの甘く、美しい歌とラブシーンが織り込まれている。また、王の頑固さと男尊女卑に業を煮やし、自分は自由で自立した女性だと、一度は荷物をまとめるアンナを引き止める、ティアン夫人を演じるサンダースが歌った「Something Wonderful(何か素晴らしい事が)」は説得力に満ち圧巻だった。
王がアンナに一目置かざるを得なくなったのは、突然イギリス政府からの使節を迎え入れることになったため。アンナの力を借りて大慌てで晩さん会の準備をし、アンナは王に理知的にふるまうことをアドバイスする。そして使節をもてなす為に、舞踊が披露された。これが有名な劇中バレエ「アンクル・トーマスの小さな家(アンクル・トムの小屋のパロディー)」である。
この劇中バレエのオリジナルの振付はジェローム・ロビンズ(Jerome Robbins)で、ニューヨーク・シティ・バレエの振付家でもあり、天才とも巨匠とも呼ばれた人だ。当時のブロードウェイやバレエとは全く違うこのショーの振付ために、ロビンズ自ら東南アジアの宮廷舞踊を習い、インドのバーラタ・ナチャムやカンボジア舞踊なども振付に取り入れたという。そのため、この振付けは動きも音楽も、形式も非常にエキゾチックに作られている。今回の舞台では振付家クリストファー・ガッテリー(Christopher Gattelli)によって再現された。主役のイライザはシャオチャン・シー(XiaoChuan Xie)が踊り、相手役の天使及び恋人のジョージ役を鶴原谷圭(Kei Tsuruharatani)が踊った。二人とも非常に安定したテクニックと滑らかな動きで観客を魅了した。そのほかにも多くの日本人ダンサーがこの中に含まれており、尾関由記(ダンスキャプテン)、小高亜梨沙、竹政道子、四宮貴久、由水南が出演していた。
このバレエは非常に特徴のある曲をタプティム王女を演じるパークを中心としたシンガーによって歌われ、シンガーの中には日本人のミサ・イワマも含まれていた。パークの歌唱は素晴らしく、著名なこのバレエをしっかりとサポートした。

(C) Paul Kolnik

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無事、英国使節との接見を済ませた王はアンナの助力に感謝して、彼女に自分の指輪を与える。アンナは王に西洋のダンスを教える。二人の間に僅かにロマンティックなケミストリーが生じる。このショーのテーマソング「シャル・ウィ・ダンス(Shall We Dance?)」がしっとりと始まり、だんだん熱気を帯びる。威張ってばかりいる王がおっかなびっくり踊るとコミカルな味が加わるが、二人が組んでステージいっぱいに踊りだすと、観客席から大きな拍手が起こり、轟々たる歓声で迎えられた。ユル・ブリンナーとガートルード・ローレンス主演で初演されて以来、あまりにも有名な場面でもあるが、東洋と西洋が組むことを象徴する場面とも解釈される。
しかし、結局王とアンナは決裂する。劇中バレエを歌っていたティプタムが屈辱的な自分の立場をバレエの歌に重ねて耐えられなくなり、恋人のルン・タを追って出奔し、捕まってしまう。自由恋愛を支持する西洋思想のアンナは恋人たちを庇い、封建制度と絶対服従を維持する東洋思想の王はタプティムを処罰しようとして、決定的に対立する。アンナはシャムを離れることを決意し、王は病に倒れる。
イギリスへの出発の直前に、心臓病のために死の床にある王からの手紙を読んだアンナは最後に王に会いに行く。死の床に有りながら威張る王だが、後継のチュラロンコーン王子が封建制を廃止し、民主化を取り入れることを語るのを聞きながら、全てはアンナのせいだと言いながら息を引き取る。シャムの近代化を示唆してショーは終わる。

『王様と私』で著名なもう一つの要素は、頻繁に台詞に含まれる、「エトセトラ、エトセトラ、、、」という言葉だ。台詞の流れでうっかり笑い飛ばしやすいこの言葉だが、実話に基づくこのショーの背景に潜む世界情勢、中世思想、奴隷解放、女性の人権問題など、様々な深い意味が、この「エトセトラ」に含まれていると言える。このショーのテーマには19世紀半ばの世界の近代化が強くうたわれており、このショーが初演された20世紀半ばのニューヨークに、地球の裏側の世界を見せるとともに、西洋社会の中でも見受けられる同様の傾向の社会風刺の意味も有れば、社会啓蒙も意味したショーであったと思われる。

さて、王を演じた渡辺謙の演技は素晴らしく、強い押し出しと威厳でショーを引っ張った。コミカルな表現もとても良く、見事な英語のせりふ回しでアメリカ人の観客を何度も爆笑させ、相手役のオハラと共に完全に観客を掌握していた。最初は若干心配だった歌唱も、時間が経つにつれ良くなり、周囲を引き込んだ。ブロードウエイ・ミュージカルの主役ともなると声楽家でもある必要があり、渡辺の様な演技派俳優には大きな負担と思われるが、演技共に素晴らしい出来で、うきうきと劇場を出る観客を見ながら、日本人として誇りに思えた。
尚、舞台の上だけでなく、裏方でも持丸伸孝(出演者休暇時の代役)、幹子・S・ マックアダムス(アシスタント舞台芸術家)、渡邊荘一郎(渡辺謙アシスタント)と多くの日本人がこのショーを支えていることを特筆しておく。
(2016年3月24日夜 Vivian Beaumont Theater)

(C) Paul Kolnik

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