プリマ・バレリーナ、スペシフツェワを題材としたエイフマンの『赤いジゼル』

Eifman Ballet of St. Petersburg, サンクトペテルブルグ・エイフマン・バレエ

"Red Giselle" by Boris Eifman「赤いジゼル」ボリス・エイフマン;振付

ロシアのバレエ団、エイフマン・バレエがニューヨーク公演を行った。今回は二つのフルナイト・バレエを上演した。そのうちの一つ、ボリス・エイフマン(Boris Eifman)振付の『赤いジゼル』は実存したプリマバレリーナ、オルガ・スペシフツェワ(Olga Spessivtseva)をモデルにしたバレエである。スペシフツェワ(西欧ではスペシワとも呼ばれた)はワガノワ・バレエ・アカデミーの前身であるインペアリアル・バレエ・アカデミーでアグリッピーナ・ワガノワを含む優れた教師たちからトレーニングを受け、20世紀の偉大なバレリーナの一人と言われた。マリンスキー劇場で主な古典バレエを踊る傍ら、セルゲイ・ディアギレフのバレエ・リュスにも参加、ワスラフ・ニジンスキーと『薔薇の精』や『ブルーバード』などを踊った。ロシアの国情の変化から祖国を離れることを余儀なくされ、パリ・オペラ座バレエやロイヤル・バレエなど西側の著名なバレエ団で踊ったあとうつ病などに苦しみ、最終的にはアメリカで1991年に不幸な生涯を閉じたと言われる。

Photo by Evgeny Matveev

Photo by Evgeny Matveev

まだペトログラードと呼ばれた頃の、ロシアのサンクトペテルブルグにあるマリインスキー劇場の稽古場。厳しいバレエの教師がクラスの後、一人のバレリーナを呼び止め個人的に訓練する。そして彼女はマリインスキー劇場の舞台で主役を踊るようになる。やがて、彼女はファンの一人のソ連共産党の統制委員に、そのパワーに恐怖を感じながら身を任せる。恐怖政治下にある統制委員との生活は快楽と混沌と不安に満ちていた。
暴力が横行し、多くの人々がソ連を後にする中、自分を取り戻そうと、バレリーナは稽古場に戻ってくる。しかし、新しい時代の波は稽古場にも押し寄せ、教師はその力の前に屈さざるを得なかった。統制員との生活に耐えられなくなったバレリーナは、国を後にする。バレリーナはフランスのパリ・オペラ座バレエに行き、若い振付家の相手役として踊って成功を収める。しかし、同性愛者の振付家への恋は実らず、彼女は孤独感から精神に破たんを来すようになる。そして彼女の代表的な作品『ジゼル』の、恋人の裏切りと狂気という物語そのものを彼女自身が辿るようになる。

Photo by Evgeny Matveev

Photo by Evgeny Matveev

最初のバレエスタジオの風景では、白いチュチュを着た女性たちが集まってきて、バレエのバーワークからセンターワークへと、レッスン風景が展開するが、ワガノワ・テクニックによる歩き方、ポアントの使い方が非常に美しい。杖を持って教える教師役のオレグ・マルコフ(Oreg Markov)も歩き方が美しく、レッスンそのものが美しい光景だ。そして時々腰を後ろに突き出して立つロシア・スタイルも見られる。バレリーナを演じたダリア・レズニク(Daria Reznik)は小柄な美しいダンサーで、完璧なテクニックを持っている。まさに、スペシフツェワその人を体現しているようだ。共産党の統制委員を踊ったセルゲイ・ヴォロブエフ(Sergey Volobuev)は圧力的で、レズニクは恐怖を見せると同時に嫌がる様子を示すが、女性の意志はまるで意に介さないかのようなデュエットが続き、バレリーナが手折られる様子が描かれる。演技を交えながら正確なテクニックで、美しいが危険なリフトも多く含むデュエットに会場から拍手が起こった。
次の場面での町民の楽し気な踊りの最中に急に口笛がなり、みんな慌てて一列に並ぶ様子は、共産党の勢力に置かれた社会を象徴している様だ。統制委員のヴォロブエフが現れ、人々の先頭に立って踊る。そして美しい贅沢なドレスで出てくるレズニクは統制委員の権力に保護されている存在になったことが分かる。ロシア風の振りを活き活きと踊る人々の前にバレエ教師のマルコフが現れて、端正なテクニックで町民と一緒に踊ると、統制委員は怒り狂う。一方、バレリーナが統制委員の権力の元、酒と快楽に溺れる日々などが美しいラインで描かれる。しかし舞台後方に設置された台のセットの上に兵士たちが立ち、灰色の服を着せられた男たちが処刑され、赤い照明の中で人々がもみ合う様子は、共産党政権の恐怖政治を物語っている。恐らく、会場のほとんどを占めていたロシア人観客(在米ロシア人たち)にはよく理解できることなのだろう。

Photo by Yulia Kudryashova

Photo by Yulia Kudryashova

場面がここまで進むと、だんだん振付けたエイフマンの意図が見えてきた。つまり、レズニクが踊るバレリーナはアーテスト(特にバレエダンサー)たち、統制委員は共産党勢力、そしてバレエ教師は純粋な芸術の在り方を象徴していると思われた。このバレエはスペシフツェワが生きた時代のロシアを語っているのだ。
バレリーナがマリインスキー劇場の稽古場に帰ってくる場面では、バーからセンターワークへの美しいレッスン風景が流れる中でバレエ教師は悩む様子を見せ、レズニクとマルコフが美しいデュエットを踊る。しかし、そこに統制委員が現れ、教師はバレリーナを隠そうとするが見つかって、彼は暴力に遭って幽閉され、彼女は連れ戻される。逃げ惑うバレリーナたちも兵士に捕まる。それまでの芸術の在り方は完全に拒否され、アーテストたちは新しい政権に服従を強いられることになったということだろう。そして、全員が赤い照明の中で敬礼をする。後ろの坂を旅行鞄を持った人々が逃げていく様子が描かれ、最後にバレリーナ自身もそれに続く。多くのアーティストがソ連を去って行ったことが語られている。
第二幕は新しい世界を描いており、後ろ向きに座ったパリ・オペラ座の振付家(オレグ・ガビシェフOreg Gabyshev)のソロで始まる。完全な古典ではなく、所々デフォルメされた振りを入れてあるが、コンテンポラリー・バレエではない。スーツケースを持ったバレリーナが入ってくると、振付家は彼女を労わり、自分のスタイルを踊らせる。白いチュチュのまま全く違う振付家のスタイルを踊って見せる姿は古典バレエが近代バレエと融合する様を描いている様だ。ガビシェフとレズニクのデュエットの過程で、彼に恋心を抱いてしまうバレリーナの心理が描かれる。しかし、振付家はゲイで、彼と愛人(ドミトリー・フィッシャー Dmitry Fisher)の固い絆を見て一度はオペラ座を去ろうとしたバレリーナを、振付家は引き留め、この三角関係は何年にもわたって続く。これはモデルのスペシフツェワの人生にテーマを戻したものとも思われるが、オペラ座時代にも関わり続けたバレエ・リュスのニジンスキーとの関係を指しているのかもしれない。
最後の場面では『ジゼル』の第一幕のセットが現れ、バレリーナがジゼルを踊り、アルブレヒトはオペラ座の振付家だ。音楽は全く違うものを使い、振りは『ジゼル』のものをつぎはぎに使っている。音楽のところどころに不協和音を入れて、主人公の狂気の状態を示している。突然狂乱のシーンになり、ジゼルの主なソロの一部を見せる。

Photo by Yulia Kudryashova

Photo by Yulia Kudryashova

リハーサルの休憩中に振付家と愛人のラブシーンを見てバレリーナは錯乱する。また舞台に戻り、皇太子の娘のバチルダとアルブレヒトの場面となり、ジゼルがアルブレヒトの裏切りを知る場面が、自身の恋に繋がる様を描いている。そして狂乱のシーンに移るが、これはバレリーナ本人の狂乱を示している。白い服を着た男性のナース二人に連れられれてバレリーナは去る。彼女を狂気に導いた後悔と苦しみに悩む振付家を、彼の愛人は慰めるが、その愛人との間もだめになる。後ろの幕が開くと、プラスチックのドームの様なセットの中に入ったバレリーナの影が見える。明らかに精神病棟だ。ドームが上がると、ウィリーの衣裳のバレリーナがヴェールを被ってはかなげな様子で出てくる。ゾンビのように呆然としたままリフトされるレズニクは怖いほどに美しい。振付家が彼女のヴェールを取ると、後ろの坂をウィリーのコール・ドの列が降りてくる。これは『ラ・バヤデール』のヴィジョンを連想させた。
バレリーナは振付家と踊っているように見えるが、ウィリーの衣裳は袖が両方繋がっていて、精神病院で縛られていることを意味している。その袖に羽交い絞めにされ、殺されかかった時に夜明けの鐘の音がする。ここでも音楽のあちこちに不協和音を入れて、現実とバレエが錯綜している様をみせた。鏡のパネルが後ろで動き、カーテンコールのお辞儀をすると、バレリーナは鏡の向こうに入り込んで消える。それは、彼女の精神が完全に破たんして、幻想の世界に生きることになったことを物語っていた。
非常に良く計算され、垢抜けした演出で、エイフマンの素晴らしい製作だ。男性ダンサーは女性顔負けの美しいラインで踊るが、アメリカのダンサーのようにアスレチックではなく、ジャンプも回転もほどほど。しかし、一つのしっかりした物語を見たという、重みと満足感が後に残った。
(2017年6月4日午後 New York City Center)

Photo by Yulia Kudryashova

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ワールドレポート/ニューヨーク

[ライター]
三崎恵里

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