ヨハン・インガーの意欲的な振付による『カルメン』、オーストラリア・バレエ団

ワールドレポート/オーストラリア

岸 夕夏 Text by Yuka Kishi

THE AUSTRALIAN BALLET オーストラリア・バレエ団

『CARMEN』Choreography Johan Inger
『カルメン』 ヨハン・インガー:振付

2016年にブノワ賞・振付家賞を受賞したヨハン・インガーの『カルメン』が、オーストラリア・バレエ団の演目に加わった。デヴィッド・ホールバーグ芸術監督は、インガーの『カルメン』はカンパニーのレパートリーの中でも、最も野心的な現代作品の一つと語る。4月10日から27日まで20回のシドニー公演には3キャストが臨み、その初日公演を観た。

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The Australian Ballet "Carmen" (Inger) Jill Ogai and Callum Linnane © Daniel Boud

インガー版『カルメン』はプロスペル・メリメの小説『カルメン』(1845年)を基にした、104分のプロローグ付き全2幕バレエ。本作を振付けたスウェーデン人のヨハン・インガーは、コンテンポラリー・ダンスで名高いオランダのネザーランド・ダンス・シアター(NDT)で12年間踊り、後にNDTのアソシエイト振付家を務めた。インガーにとって初の全幕物語バレエ『カルメン』は、2015年にスペイン国立ダンス・カンパニーが初演した。
音楽はジョルジュ・ビゼーのオペラ『カルメン』(1875年)とロディオン・シチェドリンが1967年に編曲した『カルメン組曲』に、新たな楽曲を追加している。
物語はスペイン、セビリアのタバコ工場から始まる。上官スニガ(ブレット・チノーウェス)はドン・ホセに、女工間の諍いを起こしたカルメンを捕らえるよう命じる。カルメンに誘惑されたホセはカルメンを逃し、スニガはホセを軍から追放する。町中で抱き合うスニガとカルメンを見て、嫉妬にかられたホセはスニガを射殺後、山中へ失踪。カルメンを探しに山を離れたホセは、カルメンと闘牛士の親密な踊りを目撃してカルメンを刺し殺す。

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"Carmen" (Inger) Jill Ogai and Artists of The Australian Ballet © Daniel Boud

可動式パネルだけの簡素な舞台に、「ハバネラ」のメロディーが弔鐘のように響きわたる。少年(リラ・ハーヴェイ)が無邪気にボールの壁投げをしていると、頭をすっぽり覆った全身黒ずくめの男が、少年からボールを奪う。暗い未来を暗示させる幕開けだった。
初日のタイトルロールを踊ったのは、日本のバックグラウンドを持つジル・オガイ。昨年12月『白鳥の湖』シドニー公演の舞台上で、ホールバーグが昇格させた最新のプリンシパルだ。
インガーの『カルメン』にはスペインの暖かな陽光や豊かな国土を想起させる装置が存在しない。時空のない無機質な美術は舞台がいつ、どこなのか、見る者を戸惑わせる。色違いのドレスをまとった8人の女性ダンサーのアンサンブルがバレエシューズで闊達なステップを踏み、馴染みのあるビゼーのメロディを躍動させる時、観客は今見ているのは『カルメン』なのだと気づかされる。
同夜のドン・ホセ役はプリンシパルのカラム・リネイン。正気から狂気に移りゆく様を圧巻のダンスで現前させた。ソロでは人形のように突然静止したり横臥したり、朴訥で生真面目な衛兵の美しい所作と身体ラインの変化から、カルメンの誘惑に負けて職を剥奪された心の葛藤が滲み出る。スニガを射殺した後の山中でのソロでは、身体を反らし、拳を突出し苦悶が表した。
リネインのダンスは身体のみならず、孤独や恐怖、自我や陶酔などの鬱屈した内面が瞳に宿り、そのさまは見る者の心を揺さぶる。オーストラリア・バレエ団の2016年『ニジンスキー』公演で、ジョン・ノイマイヤーはリネインをニジンスキー役に起用した。まだ入団2年目の群舞ランクだったリネインの、心の闇を表す才能を既に見抜いた。
闘牛場を想起させるオールキャストのアンサンブルは、スペインの大地の鼓動がダンスから生き生きと湧きあがるようだった。呆然と立ち尽くすホセの前で、音楽が喚起してダンサーたちは足で床を這わせ、腰を揺らし、踵を鳴らし、全員が歌い、手拍子をうち、闘牛士のように掛け声をかける。鮮烈な色彩感のある音楽とダンスのアクセントが相まって、肩、腕、トルソーが艶やかな流れを描いた。その舞台袖でカルメンとスニガは体を睦ませ、ホセの嫉妬を煽っていった。
このヴァージョンではカルメンを取り巻く3人の男たちの他に、「少年」というキャラクターが登場する。女性ダンサーが演じる少年を通して、振付家は180年前の小説世界を現代に蘇らせた。インガーは「少年」をミステリーな存在とし、子ども時代のホセ、またはカルメンとホセの胎児、または観客自身でもあるかもしれない、という。
第1幕終盤のホセとカルメンのパ・ド・ドゥは単なる戯れの性愛か、または真の情愛だったのか、定かでない。カルメンは男たちを誘惑する術を熟知して遊戯のごとく振る舞うが、オガイのカルメンは彼女の天性なのか、朗らかな善性が彼女のダンスから立ち上り、淫らなエロスは感じられない。
黒ずくめの影男がオレンジをカルメンに渡すと、カルメンは果汁を絞ってホセの口に流し入れ、自分の口にも果汁を落とす。恍惚とした表情のホセと、豊穣のシンボルとされるオレンジは2人の心身の結合のメタファーとも映る。

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"Carmen" Jill Ogai &Callum Linnane © Daniel Boud

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"Carmen" Brett Chynoweth, Jill Ogai, Artists of TAB & Callum Linnane © Daniel Boud

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"Carmen" (Inger) Callum Linnane © Daniel Boud

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"Carmen" Marcus Morelli & Artists of TAB © Daniel Boud

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TAB "Carmen" Jill Ogai, Lilla Harvey & Callum Linnane © Daniel Boud

インガーは舞踊に演劇的要素を織り交ぜながら、観客の五感へも肉迫し、ホセの心が崩壊していく動機を示した。ドレスの中に忍ばせていた花をカルメンはホセに放り投げ、匂いを嗅ぐホセ。動物のように大きく口を開け、ホセの顔に息を吹きかけるカルメン。仰向けのホセの上を四つん這いで通り抜け、カルメンの体臭に痺れるホセ。影男に連れ去られる女工たちの絶叫。カルメンの名を叫びながら走り回るホセなど、見る者の嗅覚、聴覚、味覚の感性をも刺激した。
透明の糸で塞がれた檻のような空間。スパンコールの服をまとい、鏡の中で踊り、虚構の世界に存在するような闘牛士(マーカス・モレリ)。モノトーンで覆われた色彩に、最後に残されたカルメンの真紅のドレス。幾多の象徴が薄明の舞台に浮かび上がる第2幕は、ホセの心の闇を映し出したダークな心理劇だった。
ホセ・カルメン・少年の3人が「幸福な家族」になって、笑顔で手を繋ぐホセの幻想シーン。愛欲に苛まれる男の妄想なのか、強烈な印象を残す場面だ。

最終場面でホセにナイフで刺されたカルメンは、影男にドレスを抜き取られ、白色パネルの向こう側に去ってゆく。全てはホセが見た愛憎の悪夢だったのか、インガー版『カルメン』には抽象と象徴が混在し、見る者に多様な解釈を残した。
破滅や破壊にテーゼ(主張)がある時、そこに優れた芸術性がなければ、人が心を打たれることはないだろう。初日のダンサー18人は、ダンス・演技ともに高い技量を示して、作品に魂を吹き込んだ。

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The Australian Ballet "Carmen" (Inger) Jill Ogai & Marcus Morelli © Daniel Boud

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he Australian Ballet "Carmen" Callum Linnane © Daniel Boud

同夜の「少年」を演じたコリフェランクのリラ・ハーヴェイは、タイトルロールも7回踊る。昨年末プリンシパルに昇格したマーカス・モレリはハーヴェイとペアを組み、ドン・ホセと闘牛士2役を踊り、2人はそれぞれの役で14回舞台に立つ。オガイというこれまでにないタイプのプリンシパルを加え、ホールバーグは新たな可能性に挑戦し続けているようだ。カーテンコールではインガーも加わり、満員の劇場は熱い喝采に包まれた。

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The Australian Ballet "Carmen" (Inger) Callum Linnane © Daniel Boud

(2024年4月10日 シドニーオペラハウス)

『カルメン』プロローグ付全2幕バレエ CARMEN  
振付:ヨハン・インガー (Johan Inger)
振付助手:ウツィ・アランブール、ハヴィエル・ロドリゲス、トビー・マリット
(Urtzi Aranburu, Javier Rodriguez and Toby Mallitt)
ドラマツルギー:グレガ・アクニャ=フォ (Gregor Acuña-Phol)
音楽:ジョルジュ・ビゼー、ロディオン・シチェドリン版 『カルメン組曲』
( Rodion Schchedrin, after Georges Bizet, "Carmen Suite")
オーケストラ編曲:アルバロ・ドミンゲス・バスケス『序曲』と『ダンス・ボエーム』
(Álvaro Domínguez Vázquez , "Overture" and "Dance Bohème" )
追加楽曲:マーク・アルバレズ (Marc Álvarez)
照明デザイン:トム・ヴィサ (Tom Visser)
衣装:デヴィッド・デルフィン (Daivd Delfin)
美術:カート・アレン、レティシア・ガナン (Curt Allen and Leticia Gañan )
ダニエル・キャップス指揮(ゲスト) オペラ・オーストラリア管弦楽団
(Guest conductor Daniel Capps conducting Opera Australia Orchestra )

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