生きることの意味を問うポソホフ版『アンナ・カレーニナ』、3年越しに実現したオーストラリア・バレエ団のシドニー公演

ワールドレポート/オーストラリア

岸 夕夏 Text by Yuka Kishi

AUSTRALIAN BALLET:オーストラリア・バレエ団

"ANNA KARENINA" Choreography : Yuri Possokhov
『アンナ・カレーニナ』ユーリ・ポソホフ:振付

『アンナ・カレーニナ』(ジョフリー・バレエとの共同制作、2019年シカゴ世界初演)は2020年にオーストラリア初演が予定されていたが、新型ウイルス感染防止のため2度延期され、4月5日にようやくシドニー公演の初日を迎えた。先行して行われたメルボルン公演初日の前日、ロシアによるウクライナ侵攻が始まった。これを受け、オーストラリア・バレエ団は「新作『アンナ・カレーニナ』は、ロシアの文豪レオ・トルストイの長年愛読されてきた古典小説「アンナ・カレーニナ」を基に、ウクライナ出身の振付家ユーリ・ポソホフが振付けた。私たちは未来への希望の象徴とします」とホームページ上に声明を出した。
シドニー・オペラハウスのコンコースは、ウクライナ国旗の青と黄でライトアップされていた。オーケストラの演奏が始まる前、緞帳にウクライナへのメッセージがプロジェクションで映し出された。
メルボルン公演は2月25日から13日間に14回行われ、初日のカーテンコールではデヴィッド・ホールバーグ芸術監督就任初のプリンシパルダンサー昇格が発表された。シドニーでは4月5日から19日間に21公演が行われ、その初日公演を観た。

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The Australian Ballet "Anna Karenina" Robyn Hendricks & Callum Linnane photo Jeff Busby

2021年ブノワ賞の振付家賞を受賞したポソホフ版『アンナ・カレーニナ』は、ハリウッド映画並みの大作と宣伝されていた。原作は翻訳した文庫本で2千ページにもなり、舞台は1870年代のロシアである。ポソホフはこの壮大な物語を全2幕、2時間弱にまとめ、アンナとアンナをめぐる二人のアレクセイ、キティ、そしてリョービンの5人の生き方を描いている。
タイトルロールのアンナ役には4人がキャスティングされた。第1キャストはプリンシパルのロビン・ヘンドリックスで、ヴロンスキー役は新たにプリンシパルランクに入ったカラム・リネイン。3月にこの配役の舞台が世界にライブ配信がされた。
プロローグには、プロジェクションを使って巨大セットを組んだかのような霧のかかったサンクトペテルブルク駅が舞台に出現した。貧しい身なりの男が手にランプを掲げ激しく踊るが、駅を行き交う着飾った人々は誰も見向きもしない。列車に飛び込む男を偶然目撃したアンナ・カレーニナはヴロンスキーと出会い、2人はたちまちに惹かれ合った。
第1幕、リョービン(ブレット・チノーウェス)はモスクワの公爵家の幼なじみの娘キティ(ベネディクト・べメイ)にプロポーズしようとするが、彼女は若き伯爵アレクセイ・ヴロンスキーからのプロポーズを密か期待している。舞踏会に現れたアンナと踊るヴロンスキーの姿にキティは絶望する。サンクトペテルブルグに戻ったアンナは、夫のアレクセイ・カレーニン(アダム・ブル)との空虚な生活に気づき、ヴロンスキーのもとへ走る。競馬レースで、騎手の一人だったヴロンスキーは落馬し、瀕死の馬を射殺し安楽死させる。

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TAB "Anna Karenina" Anna Karenina Benedicte Beme
photo Jeff Busby

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TAB "Anna Karenina" Robyn Hendricks
photo Jeff Busby

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TAB "Anna Karenina" Robyn Hendricks & Callum Linnane
photo Jeff Busby

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TAB "Anna Karenina" Robyn Hendricks & Adam Bull
photo Jeff Busby

冒頭の登場シーンから憂いのあるアンナの姿は、生き生きと弾けるばかりキティと対照的。キティを不器用にリフトする田舎暮らしの実直そうなリョービンと、ハンサムな青年将校ヴロンスキーもまた鮮やかに対比されて描かれている。
最新技術を駆使したプロジェクション・デザイン(フィン・ロス)が、19世紀後半ロシアに観客を導いた。装置と衣装(トム・パイ)、照明デザイン(デヴィッド・フィン)の力も大きい。さらにイリヤ・デムツキーのオリジナル楽曲が、作品をより深く重層的にした。ロシア人のデムツキーは祖国の作曲家、チャイコフスキー、プロコフィエフ、ストラヴィンスキー、ラフマニノフ、ショスタコーヴィチに深く影響を受けているという。
これらロシアの作曲家の影が色濃く滲みでたのは舞踏会の場面。オーケストラと舞台下手で歌うメゾソプラノ歌手が、上流階級の人々の心理の陰影を巧みに浮かび上がらせる。20世紀初めのソビエト連邦時代に、重く威圧的な管楽器のメロディを用いたショスタコーヴィチ的な音楽は、黒のドレスの群舞を背景に、淡いピンクのドレスのキティの真実を映し出すかのように想わせる。それはソ連時代の芸術家が仮面を使いながら生きていかざるを得なかった現実を示しているかのようだ。群舞のダンサーの顔と足下に微細な赤のライトを照射し、グロテスクな音楽とダンスが絡み合い登場人物の微妙な心の内を表していた。
アンナ役のヘンドリックスは、移りゆく心情が一人の女性を変貌させていく役柄を丁寧に造形し、作品に味わい深い陰影を与えた。全幕中唯一、アンナが幸福の表情を湛えて息子セリョージャと遊ぶ場面。夫カレーニンから息子を引き離され絶望する姿。ヴロンスキーとの官能的な情事のパ・ド・ドゥと、止める夫を振り切って、公衆の面前で落馬した愛人に駆け寄る一人の女としての表情などが深い印象を残した。

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The Australian Ballet "Anna Karenina" Robyn Hendricks & Callum Linnane photo Jeff Busby

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TBA "Anna Karenina" Robyn Hendricks & Callum Linnane
photo Jeff Busby

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TBA "Anna Karenina" Robyn Hendricks & Callum Linnane
photo Jeff Busby

第2幕は病に倒れたアンナの夢から始まる。カレーニンは議会で法案を提出するが反対される。アンナはヴロンスキーとイタリアを旅行する。やがて二人の関係には亀裂が生じ、ヴロンスキーは去り、絶望したアンナは忍んで息子に会いにいく。しかし、カレーニンはアンナと息子を永遠に引き離す。一方、キティとリョービンは公爵夫人のサロンで婚約を発表する。息子との関係を断たれたアンナは、生きる希望を失い、ついには列車に飛び込む。キティとリョービンは田舎暮らしの平凡な日常の幸福を生きていく。
カレーニンを演じたブルは冷徹とみられながらも、夫として父としていかにも高級官僚らしく、端正な技巧で心の揺れを細やかに演じた。息子を取り合う怒りのシーンでは、アンナを許すことのできない苦悩が滲み、カレーニンに赦しを乞うヴロンスキーへは、微かな動揺が表出させた。

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TAB "Anna Karenina" Robyn Hendricks, Callum Linnane & Adam Bull photo Jeff Busby

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TAB "Anna Karenina" Adam Bull Photo Jeff Busby

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TAB "Anna Karenina" Robyn Hendricks & Adam Bull
photo Jeff Busby

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TAB "Anna Karenina" Robyn Hendricks
photo Jeff Busby

第1幕最後の競馬シーンと第2幕の議会シーンが印象に残る。疾走する馬の足が後方スクリーンに映写され、馬と騎手を兼ねた躍動感ある男性ダンサーの群舞。重傷を負った馬の真っ黒な瞳が大写しになり、銃声が響き幕が閉じる。そして、三方を高い壁に囲まれた権威の象徴らしき部屋で、激しく足を踏み鳴らすロボットのような男性ダンサーの群舞など、優れた表現があった。
ヴロンスキー役のリネインはアンナとキティの2人の女性を魅了。登場した瞬間、リョービンに失意を抱かせるほどのセンシャルな青年将校を魅力的に演じた。アンナの自殺を予感した終盤、彼女の幻影を追い求める狂気が漂うソロに現れたのは、真摯な愛か悔恨か。魂の渦巻く叫びをリネインは濃密に見せた。
アンナの最後のシーンは、朦朧(もうろう)としたダンスが悲しく、美しい足の甲で上体を歪ませて崩し、髪がほどけて狂気の中に沈み込む。列車に身を投げたアンナの白のドレスは視覚効果で粉々に散った。この場面はすぐに展開する次のシーンとの落差の激しさから、衝撃的な残像となった。
一転して豊穣の大地が現れると、農民は手を叩き、歓喜の民族舞踊が繰り広げられる。美しい指先で踊るキティと風のように軽やかなリョービンのダンスは、幸せとは平凡な日々の中にあると謳っていた。

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The Australian Ballet "Anna Karenina" Benedicte Bemet & Brett Chynoweth photo Jeff Busby

壮大な物語の中でポソホフは様々な対立を描いた。近代化の波が押し寄せる時代の転換期を象徴するようなプロローグの鉄(列車)とエピローグの大地の豊穣。上流社会と貧しい人々。幸せな結婚と不貞の烙印をされた末の悲劇。ポソホフはこの作品は生きることの意味を問うているという。難技巧を誇示しない振付は、ソロ、デュエット、トリオ、群舞がしなやかに、時に激しく、豊かな身体言語で物語を紡いだ。アンナ、ヴロンスキー、カレーニン、キティ、リョービンを演じた5人のプリンシパルダンサーは、それぞれの情感を結晶させて役を生き抜いた。

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TAB 2022 Telstra Ballet Dancer Awards winner Rina Nemoto photo Lisa Tomasetti

オーストラリアの大手企業、テルストラは38年間オーストラリア・バレエ団のメインスポンサーとなっている。2003年には、オーストラリア・バレエ団内で将来を嘱望されるダンサーへの「テルストラ・バレエダンサー・アワード」と、一般投票で選ばれる「ピープル・チョイス・アワード」を設立した。『アンナ・カレーニナ』シドニー初日公演のカーテンコールで受賞者が発表され、今年はソリストランクの根本里奈が「テルストラ・バレエダンサー・アワード」を受賞した。
(2022年4月5日 シドニー オペラハウス)

『アンナ・カレーニナ』全2幕バレエ
振付:ユーリ・ポソホフ(Yuri Possokhov)
音楽:イリヤ・デムツキー(Ilya Demutsky)
台本:ヴァレリー・ペチェイキン 原作:レオ・トルストイの小説
(Valeriy Pecheykin based on the novel by Leo Tolstoy)
舞台美術・衣装:トム・パイ(Tom Pye)
照明デザイン:デヴィッド・フィン(David Finn)
プロジェクションデザイン:フィン・ロス(Finn Ross)
ニコレット・フレリオン指揮 オペラオーストラリア交響楽団
(Nicolette Fraillon conducting Opera Australia Orchestra )

配役(2022年4月5日)
アンナ・カレーニナ:ロビン・ヘンドリックス(Robyn Hendricks)
アレクセイ・カレーニン :アダム・ブル(Adam Bull )
アレクセイ・ヴロンスキー:カラム・リネイン(Callum Linnane)
キティ・シチェルバツカヤ:ベネディクト・べメイ(Benedicte Bemet)
コンスタンティン・リョービン:ブレット・チノーウェス(Brett Chynoweth)
ベッツィ・トヴェルスコイ公爵夫人:ニコラ・カリー(Nicola Curry)
トルストイ/医師:マーカス・モレリ(Marcus Morelli)

メゾソプラノ:ディミティ・シェパード (Dimity Shepherd)

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