パワフルな振付、壮大かつ叙情的な音楽、簡明な装置が融合された傑作『スパルタクス』をデニス・ロヂキンの超絶技巧が一際、輝かした

ワールドレポート/オーストラリア

岸 夕夏 Text by Yuka Kishi

BOLSHOI BALLET ボリショイ・バレエ

"SPARTACUS" choreographed by Yuri Grigorovichi
『スパルタクス』ユーリー・グリゴローヴィチ:振付

オーストラリア第3の都市ブリスベンにあるクイーンズランド・パフォーミング・アーツセンター、通称QPACが今年招聘したのはボリショイ・バレエだった。QPACは2009年からインターナショナルシリーズを開始し、2013年の第5回目にボリショイ・バレエを招いている。6年ぶりとなる今回の来豪公演の演目に選ばれたのは、ユーリー・グリゴローヴィチ振付の『スパルタクス』と、ジョージ・バランシン振付の『ジュエルズ』。マハール・ワジーエフ芸術監督、ボリショイ劇場管弦楽団の指揮者パーヴェル・ソローキン、8人のプリンシパル・ダンサー、総勢150人以上のボリショイのメンバーが来豪し、6月26日から7月7日までに『スパルタクス』が3キャスティングで8回の上演、『ジュエルズ』は5回上演された。

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Bolshoi Ballet. "Spartacus" Denis Rodkin © Damir Yusupov

ボリショイ・バレエの看板レパートリーのひとつ、グリゴローヴィチ版『スパルタクス』が初演されたのは1968年なので、すでに51年が経つ。紀元前73年に古代ローマで起きた奴隷反乱の史実をもとにしたこの作品は、パワフルな振付と壮大かつ叙情的な音楽が一対の柱になり、そこにシモン・ヴィルサラーゼの簡潔明瞭な美術が確固たる土台を築く。
グリゴローヴィチはアラム・ハチャトゥリアン(1903~1978)の音楽を「古代社会がフレスコ画になって現れた」と記している。
そして、いつの時代もスター男性舞踊手がこの三者の見事な融合を迫力ある超絶技巧で輝かせ続けるがゆえに、初演から半世紀以上を経た公演でも劇場を満席にしてしまうのだろう。
今回の来豪公演では3人がタイトルロールを踊った。オープニングナイト(27日)はリーディング・ソリストのイーゴリ・ツヴィルコ (Igor Tsvirko) 、第1日目(26日)は2017年にブノワ賞を受賞したプリンシパルのデニス・ロヂキン、第3日目(28日)はプリンシパルのミハイル・ロブ―ヒン (Mikhail Lobokhin) がキャスティングされた。第1日目公演を観るために真冬のブリスベンを訪れた。
プリンシパルのアルチョム・オフチェンコは、同夜がクラッスス役のデビューとなる。古代の高貴な出自を漂わせながらも、逞しい大腿はローマ帝国の最高司令官として戦争で兵を率いる武将の証でもある。若き執政官の威厳を誇示するかのようなアルチョムの力強いピルエット、トラキア戦争の凱旋を祝うかのような背中を弓なりにした連続C字ジャンプは自信と歓喜に満ち溢れていた。
薄闇に微かな光が差し込んでくる中、捕虜となり鎖につながれたトラキア王役のデニス・ロヂキンの顔は憂いをたたえている。 哀愁あるメロディにのったスパルタクスのソロでは、スピンやジャンプ、回転から絶望と怒り、苦悩の深さが表出した。

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Bolshoi Ballet. "Spartacus" Alexander Volchkov © Darren Thomas
(注;写真は文中のキャストとは異なります)

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Bolshoi Ballet. "Spartacus" Ekaterina Krysanova © Mikhail Logvinov

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Bolshoi Ballet. "Spartacus" Alexander Volchkov & Olga Sminova © Darren Thomas(注;写真は文中のキャストと異なります)

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Bolshoi Ballet. "Spartacus" Margarita Sherainer © Darren Thomas
(注;写真は文中のキャストと異なります)

同夜のフリーギア役はリーディング・ソリストのマリーヤ・ヴィノグラードワだった。ヴィノグラードワのフリーギアはすべての感情を置き捨ててしまったかのように、最終場面まで感情を封印した端正なダンスが続いた。
同夜の高級娼婦エギナ役はプリンシパルのエカテリーヌ・クリサノワ。なまめかしい視線と口の開け方、脚の角度や背中のカーブ、全身から放射される艶と色香でクラッススを操る。舞台を縦横するシェネターンでも妖しい魅惑を放ちクラッススを欲情させ、ソロでは微細にリズムを歪ませて男たちを惑わせる。特に第3幕では、腰のひねりの激しいダンスでスパルタクスを裏切った仲間たちを誘惑し、性の虜にして男たちを狂わせてからクラッススに引き渡した。エギナは魔女の化身だった。
クラッススとエギナがブレのない一面的な人物を造形するのに対して、スパルタクスの感情は刻々と移り変わる。死の余興で仲間を殺したことを知った時の驚愕、怒り、嘆きのダンス。眼光がはっきりと変わり、ジュテを空中で交差させるアクロバット的な跳躍は復讐の宣言だ。第2幕では、仲間とフリーギアとの再会の喜びが、多様な跳躍、ステップ、空中回転、難技巧のリフトから溢れ、クラッススとの一騎打ちの剣闘では、負けた相手への蔑視しながらも憐れみの情が滲み出た。

グリゴローヴィチ版『スパルタクス』で唯一の優雅な場面は、第2幕のクラッススの宮殿で銀色のかつらをかぶった男女の群舞だろう。身長、体形、容姿、足の甲のカーブまで揃った女性ダンサーの群舞は息を呑むような美しさで、肘を微かに直角にしても典雅極まりない。シンプルなギリシア風のドレスをまとい神話を彷彿させる絵を造型した。
美しい弦楽の調べとともに踊る第3幕夜明けの野営地のフリーギアの長いソロは、巫女が神に捧げる祈りのようだ。すべてを諦観してか、愛する夫が惨い刑にさらされるのを予感していたのか、ヴィノグラードワのダンスは静謐を湛えた。スパルタクスとフリーギアの最後のパ・ド・ドゥでは、片手リフトのまま舞台を一周して、頭上高くリフトされたフリーギアは静止してから片足をくの字に曲げて最後のポーズをとった。あたかも愛と魂は永遠に不滅であると言うかのように。

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Bolshoi Ballet. "Spartacus" © Darren Thomas
(注;写真は文中のキャストと異なります)

最終場面、無数の大槍に突き刺されて、スパルタクスの体はそのまま天に向かい突き上げられる。スパルタクスの亡き骸を前にしたフリーギアは感情の壁が崩れたように苦悶し、嘆きのダンスは劇場を感動の渦の中に包み込んだ。観客は皆立ち上がり、惜しみない拍手を長く送った。
「グリゴローヴィチ版『スパルタクス』には、異教徒とクリスチャンの並置、磔にされたキリストへの聖母マリアの悲しみを想起させる」としたVioleta Mainieceの考察が公演プログラムに載っている。これを公演後に読んで、私の中でぼんやりしていたことがストンと腑に落ちた気がした。
古代ローマ社会は多神教だ。神は (古代ローマには30万もの神々が棲んでいたとされる)人間を護り、人間はその神々に感謝し祈りを捧げる。
クラッススとエギナに見られる権力への欲望と野望そして人間の傲慢さ、スパルタクスの自由への渇望と深遠な心、歴史の記憶を呼び起こすファシズムを連想させる振付け 、グリゴローヴィチは無言の言葉を謎のように物語のなかに散りばめた。
公演後に見たQPACの大きな四角い建物は真っ赤にライトアップされ、ブリスベン川を眼下に煌々とそびえ立っていた。多くのものを内包した『スパルタクス』の残像が消えない私に、テヴェレ川が流れる古代ローマの中枢地フォロ・ロマーノが燃えているような錯覚を一瞬起こさせた。
(2019年6月26日 クイーンズランド・パフォーミング・アーツセンター)

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Bolshoi Ballet. "Spartacus" Igor Tsvirko & Margarita Sherainer © Darren Thomas(注;写真は文中のキャストと異なります)

『スパルタクス』全3幕バレエ
原作:ラファエロ・ジョバニョーリ
シナリオ:ニコライ・ヴォルコフ

振付:ユーリー・グリゴローヴィチ (Yuri Grigorovich)
音楽:アラム・ハチャトゥリアン (Aram Khachaturyan)
衣装・美術:シモン・ヴィルサラーゼ (Simon Virsaladze )
音楽監督:ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー (Gennadi Rozhdestvensky)
照明デザイン:ミハイル・ソコロフ ( Mikhail Sokolov )
パーヴェル・ソローキン指揮 クイーンズランド交響楽団
(Pavel Sorokin conducting Queensland Symphony Orchestra )

配役 (2019年6月26日)
スパルタクス:デニス・ロヂキン(Denis Rodkin)
クラッスス:アルチョム・オフチャレンコ(Artem Ovcharenko)
エギナ:エカテリーヌ・クリサノワ(Ekaterina Krysanova )
フリーギア:マリーヤ・ヴィノクラードワ(Maria Vinogradova)
グラディエーター:ドミトリー・ドロコフ(Dimitry Dorokhov)
Mimes:バティール・アナドゥルディエフ(Batry Annadurdyev)/ アントン・コンドラトフ (Anton Kondratov) /グリゴリー・チャパエフ(Grigory Chapaev)/ アレクセイ・マトラホフ (Alexey Matrakhov)
クセーニヤ・アヴェリナ (Ksenia Averina)/ アナスタシア・デニソワ(Anastasia Denisova)/ ブルーナ・カンテェンヘイデ・ガグリアオーネ (Bruna Cantanhede Gaglianone)/ ダリ-ヤ・ボチコーワ ( Deria Bochkova)/ クセーニア・ジガンシナ(Ksenia Zhiganshina)
3人の羊飼い:アレクセイ・プーチンエフ(Alexey Putintsev)/ セルゲイ・クズミン(Sergey Kuzmin)/ ミハイル・ケメロフ(Mikhail Kemenov)
4人の羊飼い:アレクサンドル・ヴォドペトフ(Alexander Vodopetov)/ エゴール・フロムシン(Egor Khromushin)/ エフゲニー・ゴロヴィン(Evegeny Golovin)/ アントン・サビチェフ(Anton Savichev)
羊飼いの女:エリザベート・クルテレヴァ(Elizaveta Kruteleva)/ ダリーヤ・ホフロヴァ(Daria Khokhlova)/ ユーリヤ・スクヴォルフツォヴァ (Yulia Skvortsova)/ クセーニヤ・カーン (Ksenia Kern)/ ダリーヤ・グレーヴィチ(Daria Gurevich)
娼婦:オクサーナ・シャロ―ヴァ (Oxana Sharova)/ オルガ・マルチェンコワ( Olga Marchenkova)/ アンゲリーナ・ヴラーシネツ(Angelina Vlashinets)/ アンナ・ザカラヤ(Anna Zakaraya)/ エカテリーヌ・ザヴァディーナ(Ekaterina Zavadina)/ アントニーナ・チャプキナ(Antonina Chapkina)/ ヴィクトリア・ヤクシェワ(Victoria Yakusheva)

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