新国立劇場バレエ団の『ジゼル』、素晴らしかった木村優里と米沢唯の踊りに感銘を受けた

新国立劇場バレエ団

『ジゼル』コンスタンチン・セルゲーエフ:改訂振付、ジャン・コラリ、ジュール・ペロー、マリウス・プティパ:振付

新国立劇場バレエ団は、コンスタンチン・セルゲーエフ版『ジゼル』を1998年に初演し、何回か再演している。『眠れる森の美女』や『白鳥の湖』『くるみ割り人形』『ラ・バヤデール』などが、新国立劇場バレエ団のヴァージョンとして上演され、あるいは改訂が決まっていたりする中で、『ジゼル』はオープニング当初のセルゲーエフ版が上演され続けてきている。『ジゼル』は、ヴァージョンによってあまり大きな変化はないからかもしれない。しかし、ボリショイ・バレエはカンパニーを継承発展させていく中で、ボリショイでしか描けない『ジゼル』を創った。スタッフやダンサーが変わってもその伝統を誇りを持って守っている。ボリショイ・バレエでなければ見ることができない『ジゼル』を保持し続けているのである。

今回、6月に上演された『ジゼル』には、米沢唯/井澤駿、小野絢子/福岡雄大、木村優里/渡邊峻郁、という3組のキャストが組まれ、それぞれ2回上演された。
まず、木村優里のジゼルと渡邊峻郁のアルベルトで観た。ミルタは寺田亜沙子、ハンスは中家正博だった。
木村優里のジゼルは素晴らしかった。私は木村は『ドン・キホーテ』のキトリこそ、彼女の適役だと思っていた。はつらつとした伸びやかな踊りが活き活きとして素晴らしかったから。しかし、ジゼルのデビューとなった今回の舞台もまた感心した。このバレエの感情表現はシンプルなものだが、それだけに心のこもらない表現になるとたちまちしらけてしまう。初々しく純粋な気持ちをアダンの曲に乗せて、どこまで深く観客の胸に届けることができるのか。もちろん、テクニック、表現の巧拙は大切だが、ジゼルは真実、純粋に生きた、ということを観客に示すことがでるきか、それこそが重要である。
木村のジゼルは、第1幕では表情がやや単調となりもう少しだけ表現の細やかさが欲しかったかもしれない。しかし初々しい村娘の魅力は十分に表れていた。この初々しさが、アルベルトを魅了し、やがてはその魂を救済する。第2幕では、長い手足の指先まで、豊かな情感が息づいて観客の心の底にある感情の琴線を爪弾く。まるでバレエの国から来たような、精霊そのものを思い起こさせる身体性が『ジゼル』というバレエの精髄を語った、そんな気持ちにさせられたのだった。

ジゼル/木村優里、アルベルト/渡邊峻郁 撮影/瀬戸秀美

新国立劇場バレエ団『ジゼル』ジゼル/木村優里、アルベルト/渡邊峻郁 撮影/瀬戸秀美

渡邉峻郁のアルベルトは木村とも息を合わせてよく踊った。中家正博が扮した森番ハンスの逞しさに比べて、肉体的にはやや弱いが貴族の子息という雰囲気を出していた。しかしまた、貴族の誇りとジゼルを死に追いやってしまった罪の意識の相克を、その人物像の中にもう少しくっきりと際立たせて欲しい、とも感じられた。

ジゼル/木村優里

新国立劇場バレエ団『ジゼル』ジゼル/木村優里 
撮影/瀬戸秀美

ジゼル/木村優里、アルベルト/渡邊峻郁

新国立劇場バレエ団『ジゼル』ジゼル/木村優里、アルベルト/渡邊峻郁 撮影/瀬戸秀美

米沢唯と井澤駿の『ジゼル』も観た。ハンスは中家正博、ミルタは本島美和だった。米沢のジゼルも見事だった。彼女は2013年に1公演だけジゼルを踊っているそうだ。今回の舞台では米沢自身のジゼルを作った、といえばいいのかもしれない。ステップのひとつひとつ、マイムのひとつひとつを彼女の想像の中で組み立て、それをパートナーとともに舞台に解き放つような踊りだった。井澤の安定感のあるサポートと息を合わせた米沢の動きには、クラシック・バレエでありながら「自由」な心を見ることができたようだった。言葉を変えると、クリエイティヴな意欲のある踊り、という感じを受けたのだ。これは最近の米沢の踊りにいつも感じることで、今後、もっとしっかりと見せてもらってきちんと書いていきたい、と思っている。
(2017年6月26日、7月1日 新国立劇場 オペラパレス)

ジゼル/米沢唯、アルベルト/井澤駿 

新国立劇場バレエ団『ジゼル』ジゼル/米沢唯、アルベルト/井澤駿 撮影/瀬戸秀美

ジゼル/米沢唯、アルベルト/井澤駿

ジゼル/米沢唯、アルベルト/井澤駿
撮影/瀬戸秀美

ジゼル/米沢唯、アルベルト/井澤駿

ジゼル/米沢唯、アルベルト/井澤駿
撮影/瀬戸秀美

新国立劇場バレエ団『ジゼル』 撮影/瀬戸秀美

新国立劇場バレエ団『ジゼル』 撮影/瀬戸秀美

ワールドレポート/東京

[ライター]
関口 紘一

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