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インタビュアー/関口紘一
[2010.07. 1]

西田佑子ロング・インタビュー『エスメラルダ』でバレエを踊る心を知りました

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----三歳からバレエを始められたとうかがいました。
西田 ええ、母がバレエが好きでしたので、女の子が生まれたら習わせたいと思っていたそうです。三歳になった時に連れていかれました。

----ご出身は大阪のどちらですか。
西田 豊中です。法村友井バレエ団の宮本東代子先生が指導されていた支部が、兄も通っていた幼稚園にあって、私はそこでバレエを始めました。

----そこから法村のスクールに行かれたのですか。
西田 はい。四年生になった時から天王寺にある本部教室にも通うようになりました。週三回習うようになって少し忙しくなりました。

----関西でバレエを習うということは関東とはまた違う意味があるのでしょうか。
西田 わかりませんが、私の頃は豊中だったからかもしれませんが、バレエを習っているというと「ああ、宝塚行かれるの?」って言われました。お稽古ごととしてもバレエはわりと珍しかったのかもしれません。

----宝塚に行かれるつもりはなかったのですか。
西田 同じお教室からは何人か受かっていましたけど、私は興味なかったです。
物心つく前からプリマだった東代子先生について、先生が法村友井バレエ団の古典全幕物の主役を毎回踊るのをいつもみていて、何となく私もこのままこの世界にいるんだろうな、と思っていた気がします。

----お稽古は辛くなかったですか。
西田 始めてすぐの一、二年生の頃は止めたくて、毎回熱計ってましたが、母が「もうちょっとだけ」と言って続けさせました。そのうち私は、子供心にバレエって止められないんだ、と思うようになったみたいです。
私、ローザンヌ・コンクールに行って初めて気が付いたんです。みんなに「落ちたらどうするの、佑子ちゃん」と言われて、「私、帰るけど・・・」と思っていたら、なんかみんなと違うのです。当時私は17歳でしたが、まだ法村バレエ団からローザンヌ・コンクールに参加した人もいなかったし、法村で習ったら法村で踊るのが当たり前だと思ってました。
テレビで放映していたローザンヌ・コンクールに憧れて、先生に出てみたいとお願いして初めて参加したんですが、会場で「終わったらどこにオーディション受けにいくの?」と聞かれて、ああ、みんな進路や行く末を決めるために来ているんだ、と気が付いた時は、わりと衝撃的でした。

----お稽古はいかがでしたか。
西田 東代子先生はお稽古の時にいろんなお喋りしながら教えてくださるんです。レッスンもわりとゆったりとしていましたし、わりと自由を与えてくださって音の取り方に関してもそういう感じでした。最近、私は本当に東代子先生の影響受けてるんだなって思います。

----バレエのお稽古というと、杖で床を突きながら厳しく教えているというふうに思いがちですが。

西田 石川恵己先生にも習いましたが厳しかったですが、すごい愛情のある方でしたから怖くてもおもしろかったです。私は石川先生に「バレエとはこういうものだ」ということを教えていただいたと思っています。

----法村友井バレエ団で最初に主役を踊られたのは『エスメラルダ』ですか。

西田 そうです。『エスメラルダ』が古典全幕物の主役デビューです。それまでは親子劇場で『コッぺリア』を踊ったくらいでした。
ですから、今年4月に来日したモスクワ音楽劇場バレエの『エスメラルダ』は、私が踊ったのと同じヴァージョンでとても懐しかったです。
あの『エスメラルダ』には、1幕と2幕にエスメラルダとフュビュスのパ・ド・ドゥがあるのですが、どちらも愛のパ・ド・ドゥです。けれども出会いと愛を確かめるシーンですから同じ表現ではありません。これをどういうふうに踊ったらいいのだろう、と思ったのが私が全幕を踊る時に初めて出会ったたいへん大きな問題でした。同じ愛のパ・ド・ドゥでも表現されるものを変えないと、3幕まで辿り着けないわけです。それまではみんなと一緒にコンクール目指して漠然と踊っていただけでしたが、そこで初めて踊りながら演じなければならないことに、はっきりと気が付いたのです。
今ではその問題を乗り越えることができたことが、私の古典全幕物が好き、クラシック・バレエが好き、という心につながっているのだと思っています。ですから、主役としてデビューする作品に『エスメラルダ』を踊らせてもえたことは、とても幸せだったと感謝してます。

----それはいつ頃のことでしたか。

西田 2000年でしたか。私がロイヤル・バレエ・スクールから帰ってきてしばらくしてからでした。

----あまりロシア・バレエ指向ではなかったのですか。
西田 そうですね。私はダーシー・バッセルとかアレッサンドラ・フェリとかのロイヤル系のダンサーが好きでした。フェリの『ロミオとジュリエット』はテープが擦りきれるくらい見ました。法村友井バレエ団からは、初めてだったのですけどお願いして、ロイヤル・バレエ・スクールに留学させてもらいました。

----イギリスに行ったら舞台もよくご覧になりましたか。
西田 ちょうどオペラハウスが改装中でクローズしてましたから、あちらこちらの劇場で『ロミオとジュリエット』とか『ジゼル』もみました。それから『シンデレラ』やバーミンガム・ロイヤル・バレエ団の公演にもスクールの生徒として出演しましたし、ツアーでイギリスの南の方などに行きました。
私は、あんまり海外のバレエ団に魅力感じませんでした。舞台自体は素敵なんですけれども、連日ルーティンワークみたいにやっていて、アーティスティックというよりもビジネスライクに舞台を務めているようにみえたんです。バックステージでは「今日舞台なければいいのに」とかおしゃべりしているのを耳にしちゃって。そういう感覚はあまり素敵には思えなかったので、オーディションを受ける考えはなくて帰ってきてしまいました。

----最初の東京公演は何を踊られましたか。
西田 法村友井バレエ団では東京であまり踊っていません。東京で最初に踊ったのはヤングバレエフェスティバルの『卒業舞踏会』の「ラ・シルフィード」だったと思います。

----法村友井バレエ団にはどのくらいいらっしゃったことになるのですか。

西田 今、ちょうど法村友井バレエ団にいた期間とやめてからの期間が、5年3ヶ月くらいで同じになりました。もっと長くいたような感じですけど。
法村友井バレエ団ではデビューしてからずっと、役に育てられてといいますか、あの役をいただいたからそれに追いつかなくちゃいけないと思って頑張りました。短かったですけどもそういう時期があって、初役の『エスメラルド』くらいの時は「初々しいね」で許されてましたけど、なんとかそれを克服して役に追いつく努力を必死でやっていた時期がありました。そしてふと気づいたら、主役を踊るのが当たり前の場所にいました。そのころに、自分で必死にもがくことにだんだんと限界が感じるようになってきました。
法村先生は、わりと自由にさせてくださるのですが、どうも、私にはもっと助言が必要だなと思うようになりました。他力本願ですけど、自分のわからない自分を引き出してほしいな。たとえば、パ・ド・ドゥの愛の表し方も自分の演技に自分で飽きてきてしまって、もっとこうじゃないの、という細かい色々な引き出しがほしいのだけれども、自分で生み出すのにはやはり限界があるのではないか。先生はいい意味で信頼してくださっていて「君はもう大丈夫でしょう」という感じだったんです。そうするとどうしても私は自力で発展できそうもないような気がしてきました。今になってみれば、そこからの這い上がって努力する方法もわかる気がするのですけれど、当時は22、23歳だったから、若かったですね。
どちらかというと私は、すぐにoffにしたくなるのタイプなので、一回やめよう、と思ったのです。やめてからもう一回どうしてもバレエをやりたかったらやるけども、いい出会いとかなければもうバレエやめてもいい、と思いました。

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----本当に思ったんですか?
西田 本当に思いました。先生には「ちょっと疲れてきたのでバレエをやめたいと思います」って言いました。

----言ったんですか?
西田 はい。「やめてどうすんの? OLでもするの?」って言われました。結局「君、ちょっと疲れたみたいだからしばらく休みなさい」ということになりました。それから一週間くらいして「やっぱり、やめます」と結論を出しました。
3歳から教えていただいていた東代子先生にもなにもご相談しなくて、たいへん申し訳なかったと思っています。でも、当時は、何をどうご相談していいのか自分でも分からなくて心が混乱していました。

----私たちも本当に驚きましたけど、今やっと氷解しました。
西田 いろんな原因が重なっているのですけど、私の大きなスタンスとしては、バレエがすべてじゃないんです。自分の生活の中にバレエがいい位置をしめていてくれればベストなんです。バレエばっかりになってしまうと自分が崩れていくのがわかるんです。自分がどこにどういたらいいんだろうと、迷ってしまいます。私にはいつも必ず帰る場所がどうしても必要なのです。バレエと正面から向き合いたいけど、きちんとした自分の生活がほしい、と思っていて、そのバランスが崩れ始めたので「自分の性格も歪んできそう!」と思いました。
私は、わりと一人が好き。あんまり器用なタイプじゃありません。ひとつのことやるとそれに向かっていくのですけど、振り回されて、急にやめたくなったり・・・どうしても自分にふと離れる瞬間が必要になってきます。そうしてバランスが崩れて身体のほうに現れて熱とかが出してしまうこともあります。

----フリーになられてすぐに東京に出てこられたのですか。
西田 いいえ、半年くらいは大阪にいて一年くらいの充電期間のつもりで東京に出てきたんです。好きなところでクラス受けて汗かいて「ああ、しあわせ」と思っていました。東京に出てから最初の仕事は、大和シティ・バレエで大貫真幹君と踊った『くるみ割り人形』ですね。

----コンテンポラリー・ダンスも踊られました。
西田 そうですね。コンテンポラリー・ダンスとかブレイク・ダンスのようにバレエとは違って身体を自由に動かせる人ってすごいな、という興味はありましたから、チャンスがあったら踊りたいな、と思っていました。法村友井バレエ団にいた頃も、時々、講習会とかあると東京で受けたりしていたんです。
キミホ・ハルバートさんとはバレエ協会で知り合って誘っていただきました。コンテを踊ったのは彼女の作品が初めてです。キミホさんの振りはバレエベースだから踊りやすかったのですが、最初は必死でやっていたんですけども、そのうち舞台の中で自分の居場所がわからなくなってしまいました。
コンテの平原慎太郎君とかヒップホップやジャズ系の大貫佑介君と一緒だったから、そう思わされてしまったのかもしれないんですが、一時はどう動いたらいいかわからなくなってしまいました。でもキミホさんは、むしろなにをやってもクラシックが下敷きになっている点をみて使ってくださっていたんですけど、私はなにやってもつま先伸びちゃうなー、みたいに思って、そこは伸ばさなくてもいいのかな、とか悩んでしまいました。特に重要なことではないのですけれど、ヴィジュアルとしてもそういう些細なことがとても気になってしまって・・・。
私はもっとコンテとしての言語を自分のものにしないと表現できないんじゃないか、もっと流暢にしゃべれなきゃいけないんだ、なんだか無理に英語でスピーチさせられているような気になってしまって、居心地がわるくなってしまいました。でも結局、最終的には自分の手持ちの表現で勝負するしかないのですけれども、それまではいつも悩んでしまいます。クラシックだったら毎日やっているから日本語のように使えますけど「コンテで、自由にどうぞ」といわれたら、全然踊れなくなってしまうのです。コンテのダンサーは、枕をポンと渡されて、その枕でほんとにいろんなことして遊んでみせるのですけど、私は全然できなくて・・・。
コンテンポラリー・ダンスは、これからはもっと自分に向き合える時間をつくってじっくりやりたいと思います。

----フリーになってスケジュールとかはしっかりつくれますか。
西田 なかなか難しいですね。ここは休みにしておこうと思っていても、リハーサルが入ってしまったり。月に1日くらいはどこかで休まなければいけないと思っています。ただ漠然と休んでしまうと、また起動させるのに3日くらいかかりますから、身体をある一定の状態に保っていたほうが楽なんです。

----4月に伊丹で踊られたカンパニーでこぼこの『ドン・キホーテ』は、キトリが狂言自殺したりしておもしろかったですね。
西田 そうなんです。リハーサルの時も私には知らされてなくて、ナイフとってバジルに渡すのかと思ったら、そこで自分に刺してっていうんで、「えっ〜」と思いながらやりました。

----ああいうコミカルな役はいかがですか。
西田 好きです。でも、みんなが意外だっていうんですけど、『コッペリア』のスワニルダの第1幕は、自分にとって難しく感じます。キトリの茶目っ気にはうまくフィットするんですけど・・リーズも楽しく踊れます。スワニルダは踊る機会が多いんです。第2幕になると楽に踊れるのですが。

----今年はこれからどういうご予定ですか。
西田 バレエ団ピッコロの『シンデレラ』、『くるみ割り人形』が二つくらいあります。大阪では『白鳥の湖』を奥村康祐君と踊りますが、これもいろいろと工夫を凝らしたヴァージョンらしいです。

----フリーになって活動されたご感想はいかがですか。
西田 コンテンポラリー・ダンスを踊ったり自由にできるということもあって、自分にとっては良かったと思っています。ただ、特別に何かしたわけではなくて「バレエを続けている」という感じですけれども。

----最後になってしまいましたが、松山バレエ団の芸術奨励賞、舞踊批評家協会の新人賞のご受賞おめでとうございます。
西田 ありがとうございます。

----これからのご活躍を大いに期待しております。受賞ラッシュがつづきますように。本日はお忙しいところ長時間お付き合いいただきまして、誠にありがとうございました。