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(インタビュー/関口紘一)
[2009.10.23]

小林十市インタビュー

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ニュ−ヨーク・シティ・バレエ団の来日公演が華やかに行われたが、そのお膝元のスクール・オブ・アメリカン・バレエで修行を積み、ベジャール・バレエ団に入団して大いに活躍するという得難いバレエ体験を過ごした小林十市に、しっかりお話をうかがいました。
ミスター・Bからムッシュ・Bへ、そしてバリシニコフやジョルジュ・ドンについてもたっぷり語ってくれました。

スク−ル・オブ・アメリカン・バレエ時代のこと

ーーバレエはお母様に薦めらて始められたとお聞きしましたが、すぐに熱中されたのですか。

小林 いや、はじめはいやでしたね。最近は男の子もいますけど、当時はほんとにいませんでしたからね。女の子に囲まれて恥ずかしかったし、なかなか慣れませんでした。

ーー目白の小林紀子先生のところで習われたのですか。

小林 ええ。ぼくは最初、母は近所だから選んだのかと思っていましたが、当時から比較的男性の多かった東京バレエ団とどちらにしようか迷ったらしいんです。
でも小林先生はロイヤルバレエ学校の卒業生だし、RAD(ロイヤル・アカデミー・オブ・ダンシング)というシステムでも教えていたので、バレエを始めるには、そのほうがいいだろう、しかも近い、という理由だったらしい。ぼくはもちろん、RADのクラスもうけています。

ーーそれからSAB(スクール・オブ・アメリカン・バレエ)に行かれたわけですね。

小林 それまで、RADの夏期講習でスカラシップをいただいたり、RADのコンクールで金賞いただいたりして、ロイヤル・バレエ・スクールに行く準備ができていたんです。でもプリ・ド・ローザンヌに参加した時に指導していたヤン・ニュイッツにSABのことなど教えてもらいました。当時、ABTの芸術監督をしていたバリシニコフが大好きだったし、SABのことも聞いたものですから、そっちにいっちゃおうかな、と。結果的に行って良かったんです。ロイヤルに行っていたら多分、熊川君と重なっていたと思います。

ーーヤン・ニュイッツはSABを薦めたのですか。

小林 いや、彼が薦めたのはムードラ(当時のベジャールのスクール。「ルードラ」の前身)だったんですけど、その時はムードラには行きたくなかったんです。それもまた、不思議な縁でして、もし彼の薦めたムードラに行っていたら、かえってべジャール・バレエ団に入るのが難しかったかもしれません。
やっぱり、SABに行ってそれなりのフットワークとかつま先の力とかを付けてからでないと。

ーーご自分で選ばれたSABのレッスンを実際に受けられてみていかがでしたか。

小林 じつは実際には、あんまりみてもらえないんです。校長のスタンリー・ウィリアムス先生が亡くなってしまったし、今はどういうふうになっているか知りませんけど、当時はスタンリー先生のクラスを受けるために、NYCBのダンサーも来るわけです。そうすると先生は、バレエ団のダンサーを見てしまうので、手取り足取りは教えてもらえません。だから自分で盗んでいくというか、ある種の貪欲さがないと取り残されてしまう、かなりシビアなシステムでした。
ほかはほとんどがロシア人の先生でしたから、学校としてはスタンリー先生のブルノンヴィル・スタイルと組み合わせてうまくいっていたのかもしれません。スタンリー先生はバーを1時間みっちりやるんですけど、ロシア人の先生は20分くらいですまして、そのあとはもう思いっきりテクニックをやります。スタンリー先生はそんなにテクニックを教えるほうではなかったので、フットワークをしっかりやって、インナーマッスルを使えるようになったところで、ロシアの先生が大技を磨く、そういう組み合わせが機能していたんだと思います。
スタンリー先生はあまり多くを語らないので、彼の言わんとすることを追求していかなければなりません。でも一度、「うん、理解しているな」と思われると大事にしてもらえます。ただそこまでいくためには自分で食いついていかなきゃいけない、そういう意味では厳しかったです。バレエ学校に入ったからといって安心していると、すぐに取り残されてしまいます。

ーー何人くらいのクラスなのでしょうか。

小林 男性のクラスはアドヴァンスメンズというのがあって、そこにはカンパニーのダンサーも受けに来るので、40人くらいですか、多かったですね。
ほかにスタンリー先生が選んだスペシャルメンズという10人くらいのクラスがあって、ぼくは選ばれて入ることが出来たので、そこで密度の濃い、しっかりと見てもらえる指導をうけました。
それから昼間学校に行っている人たちが夜うけるクラスがあって、それも自由に参加できます。あとは週1回パ・ド・ドゥのクラスがあります。ですからスタンリー先生が選んだクラスに入れないと、ほとんど1クラスだけみたいになってしまいます。ぼくは充実した2クラスがあって、時々、夜のクラスを受けたり、結構いい先生がいたのでダンス・センター行ったりしていました。

ーーそうですか、じゃあ、寄宿舎付きのバレエ学校とはまったく違いますね。

小林 違いますね。ある意味自由であり、やる気があるとなんでもできるというか。

ーーでもその10人のクラスに入れないと厳しいですね。

小林 そうですね、最初の1ヶ月が勝負ですね。入学した9月の1ヶ月でアピールして選ばれないと。

ーー入学してみないとわからないのではないかと思いますけど、すぐそのように感じられたのですか。

小林 ぼくは男性だけのクラスをうけるのが初めてだったので、男だけっていうのがうれしかったです。踊ることが大好きでこれでもかこれでもか、みたいに本格的に習っているという感じがして、すごくうれしかった。とにかく、ひたすら踊っていました。

ーー学校公演もありましたか。

小林 ええ、学校は9月から始まるのですが、毎年、学校公演があって、年明け、1月か2月くらいに作品と配役が発表されます。それから6月の公演本番に向けてリハーサルしていきます。

ーーSABではベスト・スチューデント賞を受賞されたとお聞きしました。

小林 そうですね、運よく毎年の学校公演に主役級の役で出させてもらっていたので、そういうことも評価されて、3年目の卒業する時にはベスト・スチューデント賞を受賞しました。

ーーNYCBの公演で踊ることもあるのですか。

小林 イベントとして学校生から選抜されて、この公演だけという限定で出演したことはあります。
そのほかには、ぼくが3年生の時にアムステルダムでキーロフのワガノワ・バレエ学校とSABの合同公演がありました。5日間の公演で、初日はワガノワで次がSAB、ワガノワ、SABというふうに交代で大きな演目を上演しました。ぼくは通常の学校公演の演目に加えて、マーティンスの『レ・ジョンティオム』という男性ばかりの作品で、堀内元さんが踊ったパートと、バランシンの『スクエアダンス』の主役など3演目を踊りました。
その頃ぼくはもうベジャール・バレエ団に就職が決まっていて、合同公演が終わると数ヵ月後にはベジャール・バレエで踊ることになっていたし、賞もいただいた後で舞い上がっていましたね。
結局、ベジャール・バレエに行く前の89年に小林紀子先生の公演で『シンデレラ』の道化を踊りました。それがぼくが最後に踊ったクラシック作品になりました。

バリシニコフとぼくの歴史

ーーSAB時代は、NYCBやABTの公演もごらんになりましたか。

小林 観ました。シティ・バレエは学生は無料。堀内元さんがまだ現役で踊っていましたし、86年の7月4日ですけど、バリシニコフが最後の『ジゼル』をアレッサンドラ・フェリと踊って、ぼくはダフ屋からオーケストラシートを買って、翌日のマリアナ・チェルカスキーとヌレエフの『ジゼル』も観ることができました。

ーーバリシニコフの『ジゼル』は素晴らしかった。

小林 そうですね、強烈でした。マカロワと踊っている映像がありますが、それとまったくほぼ同じでした。凄いなあと感動しました。
バリシニコフはスタンリー先生のクラスもよく受けに来ていたんですよ。ぼくはそこで、『バリシニコフ・アット・ワーク』という本にサインしてもらいました。

ーー私、その本の日本語版編集しました。

小林 ぼくは向こうで買ったんですけど、たまたま同級生にロシア人がいて彼を使ってロシア語で話しかけるという小細工を使って成功しました。
それから『ダンサー』という映画を撮るために、彼はスタンリー先生のクラスを受けて調整していました。それで、金曜日に受けに来た時に、土曜日のクラスの時間を聞かれたんです。なぜかぼくに「明日のクラスの時間は何時?」って。凄いうれしかったですね。それで、明日もバリシニコフは来るのか、と思って本をもっていったんです。このチャンスを絶対に逃がすまいと。サインもらいました。
「バルショイア・スパシーヴァ」ってロシア語でお礼を言ったら、ニャッと笑って。
それがすごい印象に残っています。
それから一回、SABのダンサーをABTにスカウトしに来たことがあるんです。ぼく、めちゃくちゃアピールしましたよ、これでもかこれでもかって。だけど、彼が探していたのは、背の高いコール・ド・バレエでした・・・。
それから10年後くらいに、バリシニコフがベジャールさんと仕事をしに来たんです。その時に、「じつはぼくSABにいて・・・」、という話をしたら「ああ、覚えているよ」って言っていました。そしてベジャールさんの75周年記念公演のパーティの時に、バリシニコフと一緒に写真を撮ってもらいました。その写真をTシャツにして’KOBAYASHINIKOV’って入れて着ていましたね。
ぼくが踊りを始めて、最初に観た番組が『バリシニコフ・オン・ブロードウェイ』でしたから。

ーーミハイル・バリシニコフ&小林十市の歴史ですね。

ミスター・Bからムッシュ・Bへ

ーーそれからベジャール・バレエ団で踊られるようになった。

小林 最初ぼくはNYCBに入りたかったんですけど、ビザの問題とかが難しくて、母の提案もあってベジャール・バレエ団を受けたんです。ニューヨークからローザンヌに直行して4日くらい滞在したんですけど、クラスを受けさせてもらってベジャールさんがそのクラス覗いて、それで即OKだったんです。
ちょうどその時にローザンヌのボーリュー劇場で『ディオニュソス』の抜粋とドンさんが出ていた『マリオネットの生と死』と『火の鳥』を上演していました。ベジャールさんからOKもらった直後に観た舞台だったので、「オレはここに入るのかよー!」って、信じられないくらい感動しました。
ニューヨークに戻ってスタンリー先生に報告をしたら、BBLは86年にニューヨーク公演をやっているのですが、ベジャール・バレエ団のことはあまり知らなくて、「クラシックのレパートリーはあるのか」って。彼はぼくのこと気遣ってくれていましたから、就職できたことにはすごく喜んでくれました。

ーー入団される前はベジャール作品はごらんになっていましたか。

小林 留学前の82年と85年の来日公演は観ていました。『エロスタナトス』とか『ボレロ』『魔笛』、85年は『コンクール』と『わが夢の都ウィーン』と『ディオニュソス』。ぼくは『ディオニュソス』がすごく印象的でした。ニューヨークに行ってからは88年の『パリー東京』をビデオで送ってもらって観ました。
だからまるっきり知らないというわけではないですけど、ローザンヌへ行ってクラス受けたら受かっちゃったんです。

ーーベジャールはクラシック・バレエのきちんとした訓練ができているダンサーが好きなんじゃないかと思うんですが。

小林 そうですね、ロイヤル・スタイルで基礎をやってその後に、バランシンの作品を踊るために、ブルノンヴィルもそうですが、フットワークを中心としたトレーニングを積み重ねていましたから。それでベジャール・バレエに行ってクラスを受けたので、かなり際立ったかもしれません。

ーーベジャールはNYCBに対してどのように思っていたんでしょうか。

小林 ベジャールさんはバランシンを崇拝していましたから。ベジャールさんの家にもバランシンの写真が飾ってあったし。バランシンもベジャールさんも猫好きとか、いろんな共通項がありました。スザンヌ・ファレルとジョルジュ・ドンさんが一時、カンパニーを交代していたこともありました。ファレルにベジャールさんが作品をつくったり、ドンさんが向こうでバランシン作品を踊ったりする、という交流がありました。
ぼくは、ミスター・Bからムッシュ・Bへ、です。この移行は必然的なものがありましたね。
ベジャール・バレエ団入ってからも『春の祭典』などから覚え始めたんですけど、全く違和感なく踊れました。ぼくはもともとそんなに外またで歩くようなバレエダンサーじゃなかったから、『春の祭典』のパラレルな動きとか全然抵抗なくて入りやすかったですね。すぐに8つのレパートリーを3週間で覚えなくてはならなかったんですけども。

ジョルジュ・ドンさんと踊った

ーージョルジュ・ドンも踊っていたんですか。

小林 踊ってましたよ、一緒に。ちょうどドンさん最後のシーズンだったんです。ローザンヌのボーリュー劇場や特設の劇場なんかで一緒に踊りました。『1789・・』とか。ガスカールとかマーク・ウオンもまだいたし。ぼくが入った時、カンパニーはまだ大きかったので『ニーベルングの指輪』とかいろいろな大作の創作活動にも参加しました。92年に、ベジャールさんが「演劇的作品をもっとしっかりやりたい」、という意向を表明してカンパニーは縮小されました。60人から25人へという大リストラで衝撃的な期間でした。

ーードンというダンサーはどんな感じなのですか。

小林 やっぱり、カリスマです。そういう感じがします。ふだんも近寄りがたいところもありましたし、話しかければそんなことないんですけどでも存在感というものが、カンパニーにはそういう人も結構いたのですけど、その中でも一際、際立っていましたね。
ベジャールさんってスター性を出すことを嫌っていましたけれど、でもドンさんはそういう中でスターでした。

ーーリハーサル終わったら、どこかでお茶飲んでいこうか、という感じではないんですね。

小林 あんまりなかったですね。60人もいるとどうしてもグループみたいなのができちゃうでしょう。ドンさんと親しい人たちもいましたし。ぼくも時折、食堂とかで冗談言ったりとかしていましたけどね。
ドンさんは一人の人間として舞台に立った時に、その大きさといいますかそれが出せる人はそうはいません。今、観ると踊りとしてはそんな大技もやっていないのですが、ひとつの動きが大きいというか、伝わるものにすごい意味があって、時代性もあるのかもしれませんけど、その後にはそういう人はいないですね。
ジル・ロマンはテクニック的にもドンと比べると洗練されていますし、存在感はあるし大きいんですけど、ドンさんとはまた別ですね。ジル自身もドンの影響を受けていたし、『アダージェット』を継承して踊るダンサーとしてそういう自覚もあったと思います。

ーーわれわれからみると、ドンと一緒に踊っていた人がいるなんてすごいな、と思います。

小林 ぼくはいつもぎりぎりで、ニューヨークにいた時もバリシニコフがまだバリバリ踊っていたし、ベジャール・バレエ入ってからはまだドンさんがいて一緒に踊りました。1, 2年遅れていたらその場にいられなかったわけだし、経験できなかったことですね。

ーー特にドンは亡くなってしまうわけですし。20世紀の男性ダンサーの最高の人と一緒に踊られたわけです。それも偉大な振付家のBからBへと移られて。世界的にもそういう人はいないんじゃないですか、NYCBからベジャール・バレエに移ってきた人っていますか。

小林 NYCBから黒人の女性ダンサーが一人きましたけど、そのくらいですね。

ーーバレエダンサー自体の存在が変わってきたのでしょうか、ドン、ヌレエフ、バリシニコフはバレエを超えたスターでしたけども。

小林 バレエは生ものですからね。

ーー小林さんのバレエ人生は素晴らしい体験の連続ですね。

小林 最後は腰痛めてやめてしまいましたけど、運は強かったですね。

ーーやっぱり、最高のダンサーというとバリシニコフですか。

小林 そうですね、バリシニコフ。あとは先輩のジル・ロマンですね。

ーー最近は俳優としてご活躍なさっていますが、いかがですか。

小林 そうですね、舞台にでられるということは喜びですが、ぼくはやっぱり基本はダンサーですね。それはかくそうとしてもかくせないというか。出てきちゃうものです。芝居で構築していくやり方ももう5年目に入って大分わかってきました。やっぱり表現するという意味で楽しいです。自分のルーツであるというか、しゃべることにはまったく抵抗はないですし、いろいろと学ばなければならないこともありますが、やっぱり役者としてもダンサーですねぼくは。芝居に出演しても舞台でウォームアップする時はやはりバレエだし。舞台に身体をのせるという意味でやっぱりダンサーの身体が無意識に出てしまいますね。

ーー今後のご予定を教えてください。

小林 ピター・オトゥールとキャサリン・ヘップパーンで映画化されたこともある『冬のライオン』という芝居で平幹二郎さんと共演します。『スイートリトルライズ』という江国香織さんの原作の映画にも出させていただいて、中谷美紀さんの不倫役ということでしたが、来春公開です。
映画は行ったその日が本番だしなかなかたいへんです。さすがに中谷さん見ていると慣れているな、と感心しました。芝居でも踊りでもそうですが、稽古場をへて本番の舞台に行くでしょう。そのプロセスは同じなので、そういう習慣になってしまっているので、そういう意味で演劇は違和感ないんですけど。映画は、監督にこういう形作って、はい、やりましょうですから、ちょっと違いました。

ーーでもバリシニコフは映画にもでてますから。

小林 そういう意味では踊りというつながりで少し近づけます。今後は演劇、映画とダンサーとしての自分をもちながらマルチな仕事をして行こうと思います。

ーー本日はお忙しいところたいへん楽しいお話をありがとうございました。

(インタビュー日/2009年9月28日)
 

小林十市次回出演予定

「冬のライオン」

●2010.1/15 (金)〜24(日)
●東京グローブ座
●S席 8,500円/A席 7,000円/当日学生割引5000円(学生証提示)
●お問い合わせ=東京音協 03-3201-8116 www.t-onkyo.jp

映画『スイート・リトル・ライズ』(2010年公開予定) http://www.cinemacafe.net/official/sweet-little-lies/


Profile:小林十市(こばやしじゅういち)

1969年3月11日生まれ、東京都出身。祖父は落語会初の人間国宝・故五代目柳家小さん、弟は噺家・柳家花緑。
1989年スイスのベジャール・バレエ・ローザンヌ(BBL)へ入団、『春の祭典』、『火の鳥』、『くるみ割り人形』、『シエラザード』等に出演。
2003年同団を退団後、世界各国のバレエ団にベジャール作品の振りうつしを指導。
2004年に『エリザベス・レックス』で本格的に俳優デビュー。
以後、テレビドラマ『プリマダム』、舞台『トスカ』、『夜叉ケ池』、『BURN THIS=焼却処分=』、『セレブの資格』、『戸惑いの日曜日』、『その男』等活躍の場を広げている。
公式ウェブサイト http://www.juichi-kobayashi.com/