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[2007.05.10]

中村恩恵インタビュー

中村恩恵
NDTでは、新しいものが生まれる特別の時間を生きていました

-----2005年にさいたま芸術劇場で上演された、中村恩惠さん振付の『A Play of A Play』は、観客から言葉をもらって即興で踊るという新鮮なアイディアが盛り込まれていて、観客と素晴らしい交流が生れた素敵な舞台でした。
中村  この作品を大阪で上演した時は、観客に何かテーマをくださいというと、わーっという反応があって、「チューリップ」とかいうのが出されて、ダンサーが一生 懸命に踊ったら、「それはなってないねー、もう一回やってみて」とか言われて……。アフタートークはあまり時間もなかったので、「インプロにしますから出 たい人は舞台に出てください」、と言ったら、関東なら10人くらいしか出てこないのに、大阪ではほとんどの人が出てきてしまって舞台がいっぱいになってし まいました。とにかくすごいノリでした。
舞台で上演されているダンスには、いつも特別の時間が流れています。何曜日の何時といった日常を超越した特別の時間の中で行われることで、作品が成立って います。でも、観ている自分とか踊っているダンサーは、今、居る実際の限定された時間に生きていますから、そこには同時に二つの時間が流れています。この 作品では、その特別な時間に現実的な観客との会話を挿入して、二つの時間が平行して流れていることを明らかにしたかったのです。
もうひとつは、舞台があって観客がいることで、舞台が成立していますが、観ている観客をも含めてひとつの芝居と想定すると、それじゃあ、芝居の全体を観て いるのは誰だろう、ということになります。たとえばそれが宇宙舞台みたいな、私たちには見えないもののために、一つの演劇が行れている、そういうことを表 現したいと思って『A Play of A Play』は創りました。
観客からテーマをもらって即興で踊るところは、ぶっつけ本番でしたから毎日違うやり方を試した<生もの>でした。

-----『A Play of A Play』はプロの舞踊家なら考えないようなテーマが客席から直接出されて、それをプロのダンサーが表現しようとして踊る。思いがけない交流が生まれると ころが、たいへんに興味深かった。それで次の新作を楽しみに待っていたのですが。
中村 『A Play of A Play』を上演した後は、オランダに戻って若い人たちのためにダンスを創ったリ、自作自演のソロを創ったりしていました。
『A Play of A Play』


-----中村さんが外国で踊られようになったのは、ローザンヌ国際バレエコンクールでプロフェッショナル賞を受賞されてからですね。最初はどちらに行かれたのですか。
中村 あの頃、ちょうどフランスのユース・バレエが来日していて、一緒のクラスを受けているうちに、怪我人が出て、「踊りませんか」と誘われてそのままカンパニーに入団しました。半年ほど踊ったのですが、足を故障してしまい、一端、日本に帰りました。
『A Play of A Play』
それからリハビリを兼ねて、カンヌのロゼラハイタワーのバレエ学校に行き、モンテカルロ・バレエ団に入団して踊りました。ここのディレクターがキリアンの 下で踊っていたこともあって、ネーデルランド・ダンス・シアター(NDT)のオーディションを受けに行きました。そしたらキリアンの面接があって、「どう してNDTに入ろう思ったの」と聞かれたので、「あなたの振付けた『浄夜』が素敵だったから」というと、「あれは恐竜時代くらい昔に創った作品で、もうあ あいう作品は創らないよ」と言われたのを覚えています。
当時は、まだ20歳だったのでNDT2に入団しました。
2年後くらいにNDT1に移って、キリアンはもちろん、マッツ(・エク)やナチョ(・デュアト)、オハッド(・ナハリン)の作品も踊りました。
キリアンは、師のジョン・クランコに倣って、若い振付家を積極的に育てようとしています。ナチョは団員でしたからキリアンから直接、指導を受けています し、オハッドは、ニューヨークに居たころからキリアンのサポートを受けて振付家として自立しました。
NDTが毎年やっている、一晩がかりのワークショップがあって、カンパニー内でダンサー同士をお互いに使い合って作品を創り、発表するんです。ただ、それ は通常の仕事外の時間に創らなければいけないので、なかなかたいへんですが、キリアンなども観てくれます。そしてその中からレパートリーに入る作品があっ たり、次に作品を創るチャンスを与えられたりすることになります。デュアトとか金森穣、クルベリー・バレエのディレクターになっただヨハン・インガーも、 このワークショップで認められました。

----作品を創ることに非常に積極的なカンパニーなんですね。
中村 ええ、NDTでの仕事はたいへん楽しかったですね。何かものが生まれる瞬間というか、ものが変質していって、あと一時間先とかに、自分のまったく知らない新しいものが生れてくる特別な時間の中に生きている、そんな日々でした。
NDTはどんどん新作を創っています。もちろんキリアンだけでなく、外部の振付家作品も入れていて、すべて外部の振付家だけで構成するプログラムもあります。
キリアンは「ダンサーはなるべくたくさん、多様な美意識に対して寛容であることが大切だ。寛容であるだけでなく表現できる領域も幅広くなければならない」 と言っています。ですからレパートリーにもバラエティがでてくるのでしょう。
キリアンは現在は、ハウス・コレオグラファーでアーティステック・アドバイザーという立場で活動しています。最近はポール・ライトフットが活発に創作していて、彼の作品はたくさんレパートリーに入っています。

----キリアンが実際に振付ける時は、どのように進めるのですか。
中村 キリアンの振付方は独特です。多くの振付家と仕事しましたが、大体、動きのモティーフみたいのをいっぱい創っていって、後からつぎはぎにしたリ、位置を変えたリして創って行くことが多いと思います。
キリアンの場合は、基本的に作品の初めから終りに向かって創って行きます。だから、作品が半分しかできてなくても、その半分は完璧にできています。何年か 後に全体に創り直すことはあるけれど、出来上がった部分にもすぐに手を入れたリしません。
まず、今日から新作を創り始めます、といって、最初に全員で音楽を一緒に聴きます。でもその時は既に、こういう部分とこういう部分がある、というふうに作品全体が彼の頭の中にできているんです。
実際の制作現場では、ダンサーが他の振付家と掛け持ちだったりして、時間の順番通りには創れません。それでも、キリアンの頭の中では作品は完璧にできてい るので、こういう部分があって、それからここを振付けます、とダンサーにも明解に説明することができます。
私が振付ける場合は、直感的に動きのモティーフを創って、後で組み合せたり、構成していくほうですから、キリアンの創り方はとてもおもしろく感じます。
キリアンも動いたらもちろん動けるのですが、振付ける時はそれほどに動きません。しかし、彼が音楽の一節を口ずさんだだけで、ダンサーはイメージを掴んで 動きだすし、それを彼が具体的な動きの中で微調整すると、もうダンスができているのです。ダンサーが彼のイメージや言葉や雰囲気によって、自然にステップ を踏み出していくのです。
何もない真っ白だったところに、5分後には素敵なダンスが生れているので、すごく不思議な感じがします。
彼が若かった頃は、振付の設計図が非常にしっかりできていて、動きのイメージなども自分が積み上げて創り上げたものでした。しかし、最近になればなるほ ど、その設計図がファジーというか自由になっているので、現実に起ったことによって直ぐに変わっていくし、創っている本人もどういう方向に行くかわからな いこともありますから、踊っている人たちはもっとわからないでしょうけど。

----キリアンの創作の密度がそのまま伝わってくるような、たいへんにおもしろいお話ですね。どこかでキリアンが振付けるプロセスをドキュメンタリー番組で撮ってもらいたい、と思いました。

『ブラック・バード』
----『ブラック・バード』はどのようにして創られたのですか。
中村 『ブラック・バード』は、さいたま芸術劇場が、私が踊ったキリアンの『ワン・オブ・ア・カインド』を観て、私のソロをぜひ上演したい、という企画を立案しました。
当時、私はNDTに所属していましたが、このカンパニーはダンサーが夏休みの間に何かやることをすごく嫌がるんです。休みの時はゆっくり休んで、次の仕事のために英気を養ったほしい、と言われていました。
それで、キリアンがまだディレクターでしたから、夏休みにこういう企画があるんですけどもやってもいいですか、と許可をとりに行ったら、女性が一人でフル イブニングを踊るのはよくないと思う、というような話になって、結局、キリアンが私のための作品を、ケン・オソラを使って創ることになったんです。それか ら、ケンも私もNDTを辞めてしまったので、フリーのダンサーとして踊る、という形になったわけです。

----そうでしたか。中村さんの振付はどんなふうになさるのですか。
中村 私は、他人に振付ける場合は、動きなどはダンサーと一緒に創っていきます。
いつも自分の中で考えているモティーフがあって、それが文学作品とかオブジェとか美術など、いろいろなものにインスピレーションを受けて具体化されて作品 のコアができます。それから、音楽を作る人とコラボレーションしながら、実際のダンスを創っていくケースが多いですね。

----これからはどのような舞踊活動をなさっていくのでしょうか。
中村  私は今まではカンパニーに所属していて、カンパニーから与えられる作品を踊りました。それからフリーになって、自分で作品を創ったリ、他の人の作品を踊っ たりしてきましたけれど、その企画自体はやはり別のところが立案していて、プログラムの中でこういう作品を創りませんかと言われたり、そのプログラムの中 の踊りを踊って、ギャラをもらう活動してきて、自分から企画自体を発案してやったことはありませんでした。
今までヨーロッパにいましたが、舞踊が社会に対してどういう位置をもっているかということが既に碓立されていました。例えば劇場が一般的な社会生活の中で、どういう時にどういう役割をもって、 どういうことを提示すべきか、ということが観るほうにも演じるほうにも一応もう定着してしまっている、そういう中で踊ってきました。けれども今は、そいう枠みたいなものをひとまず脇において、踊ること踊りを見せることに関して、自分が 踊ったものを他人が観ること、あるいは他人が観ないとしても自分が踊りたいこととか、そういうことをもう一度、自分の中で考えてみたいと思っています。 日本で活動する私の友人のダンサー達は、お月見の時などに寺院で踊ってほしいと依頼されたりすることがあるようです。
いわゆる劇場の中で、アートのためにお客さんが集ってくるのではなくて、セレモニーがあって人々が集まるとそこにダンスがあって、ということに興味があり ます。 もうひとつは、いつも他の人の企画を踊っていたから、つねに他所のスタジオとか劇場にいって仕事をしていて、家で生活する以外は自分自身の場所みたいなも のがありませんでした。 それで、自分で体を動かしたり、ものを創ったリするような空間が欲しいな、そういうスベース作りみたいなことをしてみたいなと思っていました。そこに参加 してくれる人達が自分にとっての「空っぽ」に戻れる時間、 無心に戻れる時間を提供できる場所創りみたいなことをしていきたい、ということも考えています。「空っぽ」といえばピーター・ブルックの『アン・アンプ ティー・スペース』、「空っぽの空間」という本があります。彼の著作には常に大きなインスピレションを受けます。
キリアンのワークショップで6年前に野間彩さんと出会ったのですが、私、日本に帰ってこようと決めた時に、どういうことをしようって具体的なことは決まってなかったんですけど、「そうだ彩さんに連絡しよう」と思いました。
結局、野間さんのスタジオで初めて教えることになりましたけれども、今までは自分の作品を創る時とか、レパートリーを教えることはあったけど、クラスを教えるのは初めてですので、<先生>っていうのはまだ、これからです。
今後は<表現力豊かな踊りを裏付けるダンサーとしての基礎を学ぶ>テクニカルクラスを教えていきたい、と思っています。 さいたま芸術劇場でワークショップを継続的に行ってきましたが、最初は実践的な技術的なことをメインに行っていても、『A Play of A Play』などを創っていて、だんだん即興的なこと、 イメージトレーニングみたいなこともやりだして、頭でっかちになってしまったことが近年の課題でした。
こういうこと以前に身体のこととかテクニックのこととか、もっと基礎になることに力を入れてやらなくちゃいけないんだなって、ワークショップの最後のほうは実感していました。そういうことは、 三日間で教えられることじゃなくて、ずっと継続的に教えていかなくちゃいけないと思います。もちろん、自分も教えながら新しく理解していくことですけど。 今、キリアン作品が課題なので、ローザンヌ国際バレエ・コンクールのコンテンポラリー・ダンスのコーチをしてます。キリアン作品をいろんなところで教えていますけれど、成熟したダンサーよりも若いダンサー のほうが柔軟に対応できることがよくあります。プロのダンサーなどもすごく謙虚で熱心に修得しようとするし、表現力も非常に優れているのですけれど、なかなかそのダンサーの長年のくせが抜けないとか、 そういうこともあります。今、教えることの大切さ、重要さを実感しているところですね。
それから、今年の秋にはNoismのカンパニーに新作を振付ることが決まっています。

----本日は、お忙しいところ、たいへん興味深いお話をありがとうございました。
(インタビュアー・文/関口紘一)