「日本のバレエはじまり物語」エリアナ・パヴロバとオリガ・サファイア その十 エリアナ・パヴロバと服部智恵子
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コラム/その他
関口 紘一 Text by Koichi Sekiguchi
服部智恵子は1908年12月25日、帝政ロシア治下のウラジオストックに生まれた。父は滋賀県出身の貿易商で、彼女は長女だった。 ウラジオストックでは日本人小学校に学んだが、ロシア人の友人も多く、社交ダンスを学びやがてバレエに魅了される。 サンクトペテルブルクのバレエ・アカデミーでアンナ・パヴロワと同期だったルジンスキーに師事して、クラシック・バレエをならった。
ルジンスキーは宝塚少女歌劇のために、1923年に来日し、バレエを教えた。また、その年には『コスモポリタン』、24年には『リーラ號の難破』『ジプシーライフ』を宝塚に演出・振付けている。 しかし、日本に来てわずか一年ほどで亡くなっている。
ロシア革命により服部家はウラジオストックの全財産を失い帰国。さらに父親も病に倒れた。
エリアナ・パヴロバの一座は、当時、新宿にあったテーマパークのような広大な施設、新宿園の劇場「白鳥座」(他にも劇場が二つあった)の専属として公演することになった。 1925年エリアナは、ロシア語が話せる服部智恵子を助手として雇った。月給は2円80銭だったそうだが、父が倒れて困窮していた服部にはたいへんにありがたかった、と後年述懐している。
ところ地方公演中に父の訃報が届き、一時、バレエから身をひく。
1929年服部智恵子は、エリアナの鎌倉七里が浜のバレエ・スクールに助手として復帰した。
エリアナは終生日本語に馴染めず、教室でもうまくできない生徒に「テイノウジ!」などと言って叱咤激励していた。 ロシア人からバレエを学び、ロシア語を解する服部智恵子はエリアナにとって異郷の日本では、まことに得難い友であっただろう。 服部は、生活が苦しい時に給与を保証されたことを恩に感じていた。また、性格的にもおおらかで大陸的な服部とエリアナは、端から見ても本当の親友に見えたそうである。
1941年、エリアナ・パヴロバが軍隊の慰問先の南京で破傷風に感染して死亡した、という電報が届く。 エリアナの母ナタリアは、近所に住んでいた弟子の大滝愛子を呼び出して、電文の内容を確認すると、ただちに服部智恵子に連絡をとったという。
そして服部は、エリアナの死後も七里が浜のパヴロバ・バレエ・スクールを支えた。
実際、服部智恵子はエリアナ・パヴロバの舞踊をどのようにみていたのだろうか。「日本のバレエ 60年史座談会」の中の発言によると
「ローシーは教師だったの、でもパブロバさんはダンサーですよ。ほんとに私たちの頭のなかから消え去らない。 あんなに美しい人というのは、この年まで生きてきて、あの舞台の美というのは、他にないの。たいへんなダンサーだったのよ。 もう、「村にて」「狂人」「ジプシー」「調教師」、そういうものの一つ一つの先生のあの異なった表現力というのはねこれはすごい力でしたよ、 もう、踊って楽屋へ帰るとボーンと倒れちゃうくらいに、エネルギーを喪失しちゃうの。そういう人だったの。ですから私は、それの虜になって、 虜になった人たちが、現在、こうしてバレエ界に残っていると想うんです」
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