「日本のバレエはじまり物語」エリアナ・パヴロバとオリガ・サファイア その八 エリアナ・パヴロバと橘秋子

コラム/その他

関口 紘一 Text by Koichi Sekiguchi

 よくいわれるように、エリアナ・パブロバの下からからは、多くの日本バレエの先駆者たちが巣立った。東勇作、貝谷八百子、橘秋子、服部智恵子、島田廣などがその代表的な人々である。しかしみな日本のバレエの先達らしく、それぞれ自身の目的をもっていたので、つぎつぎと彼女の下から去っていった。東勇作はエリアナの公演がほとんど小品ばかりだったので本格的な全幕バレエを志向して去り、貝谷、橘は自立して自身のバレエ団を創り、服部はダンサーとして給料をもらっていたが父の死により一時的にバレエから身をひいた。島田がエリアナに教えを受け始めて間もなく、彼女は南京で客死してしまった。

  貝谷は九州の資産家の娘で、発表会を歌舞伎座を借りきって盛大に行ったことは有名である。橘の実家は宇都宮の家格の高い農家だった。当時の師範学校を卒業すると、栃木県の国分寺村で尋常高等小学校の「モダーンな洋装」の先生となった。エリアナ・パヴロバの公演を観る機会があり、感激してバレエの道に進むことを決意。教師を辞めて単身上京し、まずリトミックを習う。すぐにバレエを習いにいかず音楽と身体について確認するあたりに、橘の先進性が顕われているだと思う。そして、1930年にはエリアナ・パヴロバの内弟子となったのである。
  東勇作、間瀬玉子なども内弟子だったが、内弟子は、誰よりも早起きしてふだんの生活の準備をし、エリアナ一家(母のナタリアと妹のナデジタ)の身の回りの世話をし、来客の接待もしなければならない。もちろん、その間にクラスやレッスンがあるのである。(東の場合は、当時バレエを習う珍しい男性だったので、力仕事などに重宝がられたという)

  エリアナの教え方は非常に厳しかったし、その頃の若い日本人の女性は、祖国喪失の悲劇に耐える美貌のロシア貴族の末裔に、威厳と神秘的雰囲気を感じ、稽古場には緊張感が張り詰めていたという。また、エリアナは日本語に馴染むことができなかったため、「テイノウジ」などといったあまり適切とは思えない言葉で叱ったり、失敗すると稽古の時いつも持っていたムチで打ったり(澤鞠子)、足で蹴飛ばしたり(貝谷八百子)してとても痛かったそうだ。
  もっとも帝国劇場で教えたローシーも師匠のチェケッティばりに、生徒の反感をかうくらい杖をもってビシビシ教えたし、日劇で教えたオリガ・サファイアは彼女より支配人の秦が生徒を厳しく叱責したという。それはつまり、バレエについて何も知らないし情報も得られない若い生徒たちに、バレエは一朝一夕にできるようになるものではない、その修得の道は長く厳しいものだ、ということを日々のクラスの中で身をもって教えようとしていたのだと推測される。

  橘秋子はそんな中で、必死にバレエを学んだ。入門3日目にして、浅草松竹座で『バッカナール』『エジプシャン』に出演しデビューを果たした。また、入門翌年には、バレエ団の台湾公園に参加し、帰国後の日比谷公園音楽堂の公演で『生蕃の印象』という作品を発表している。入門したのが23歳の時だったこともあり、バレエ修得のための意識は高く、駈け足で進まなければならなかったのであろう。
  橘が踊りに全身全霊を捧げた様子は、「橘秋子記念財団会報」がそのエピソードを伝えている。「宇都宮市の栃木女子師範の寮で裸電球を背後から当て、壁に動く影で自分の踊りを確かめた」パブロバ館は七里ヶ浜の浜辺近くにあり、「内弟子をしていた間瀬玉子さんの話では、なんとなく夜の静かさをゆさぶる気配に窓から覗いてみると、生き暗闇の中で踊っているのを見た」「台所のテーブルの脚がぐらぐらするほど、さらに澤鞠子さんによると『パブロバ先生が、バルコニーの四本の柱をぐらぐらにしたのは橘さんだ』」(「橘秋子のこと 14」)と。身近にあるものをすべてバーとして利用していたのである。

  エリアナは、ただ稽古に厳しいだけではなかった。ロシア風に建てられた七里ヶ浜のパブロバ館の広い部屋でお茶の時間にくつろぐ時など、エリアナの振る舞いは貴族的で気品にあふれ、文化の香りが漂うたいへん魅力的な雰囲気だったという。エリアナは単にクラシック・バレエのテクニックを日本に伝えただけでなく、バレエの背景にある華麗な貴族文化を現実の日常の生活の中で垣間見せたのである。
  エリアナがロシアでどのようなキャリアを積んでいたのか、あるいはどのようなカリキュラムに基づいてバレエを教えていたのかは、未だ判然としていない。しかし、私は、エリアナがクラシック・バレエの背景にあるロシアの格調ある伝統と文化の香りを生活のレベルで示唆した、ということは非常に重要だと思う。生活のレベルからバレエを理解できるということは、バレエ芸術が一般的に普及する原点となるからである。
  後年、橘はバレエ教育に情熱を傾け、日本の活け花やお茶、小笠原礼法、滝に打たれる修行、座禅などをその教育に採用した。また、橘の作品には、『飛鳥物語』『角兵衛獅子』『戦国時代』などの日本の文化に立脚した大作の創作バレエがある。こうした日本の美とクラシック・バレエを融合しようとする試みは、橘がエリアナの内弟子となって間接的に学んだものが影響しているのではないか、私はそのように考えている。

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