「日本のバレエはじまり物語」エリアナ・パヴロバとオリガ・サファイア その六 オリガ・サファイアのロシア時代

コラム/その他

関口 紘一 Text by Koichi Sekiguchi

 オリガ・サファイアは、サンクトペテルブルクで三つのバレエ学校に通っている。
  最初は1918年頃に、ミクロス男爵のバレエ学校に入学した。この学校はガガーリン街にあり、ガガーリン御殿とも呼ばれた建物を使っていた。この建物は現在も残っている。ミクロス男爵については不明だが、ニコライ2世の愛人としてマリインスキー劇場で権勢をふるったマチルルダ・クセシンンスカヤの兄のクセシンスキーがキャラクター・ダンスの教師を務めていた、という。
  ミクロス男爵のバレエ学校は革命の余波を受け、閉鎖に追い込まれる。オリガはクラスの教師だったゴールドワの推薦により、ヴォルインスキーのバレエ学校に移った。

  ヴォルインスキーは、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した哲学者、批評家である。とりわけ、ダ・ヴィンチやドストエフスキーの研究で著名だが、晩年のヴォルインスキーは、その該博な知識を傾注してギリシャ芸術を理想とするバレエ教育に没頭している。
  中村喜和監修による『郷愁のロシア--帝政最後の日々』に、20代の女流詩人ジナイーダ・ギッピウスと腕を組んだ若き日のアキム・ヴォルインスキーの一葉の写真が掲載されているが、新しい芸術潮流の旗手として紹介され颯爽としている。

  ヴォルインスキーは友人だったソ連の教育人民委員のルナチャルスキーを説いて、帝室バレエの牙城だったマリインスキー劇場付属バレエ学校とは別に、国立舞踊専門学校を設立した。彼のバレエ学校の卒業者は国立アカデミー劇場の採用試験を受ける資格が与えられた。ヴォルインスキーは、この学校に拠点としてバレエ芸術の理想を実現しようと試みたのである。

  ヴォルインスキーのバレエ学校は、サンクトペテルブルクのネフスキー大通りに面したゲルツェル街にあった。現在は建物はそのまま残り、映画館となっている。内部に入ると、むろん規模ははるかに小さいのだが、ガルニエ宮(パリ・オペラ座)をかすかに思い起させる雰囲気がある。
  ワガノワ・メソッドを確立したアグリッピーナ・ワガノワは、一時はヴォルインスキーと親しく芸術的にも同調していたので、彼女のバレエ教師としての第一歩は、ヴォルインスキーのバレエ学校で記されている。

  しかしこのヴォルインスキーのバレエ学校も、やがて閉鎖の憂き目をみることになる。政治的関係は詳らかではないが、ともかく、ニコライ・レガート、ヴォルインスキー対ワガノワ、フョードロフ・ロプホフという対立が生れた。そしてヴォルインスキーのバレエ学校を存続すべきか、否か、を検討する委員会が創られ、「存続の必要なし」という結論が出る。ヴォルインスキーの落胆ぶりはまことに痛ましく、この衝撃が彼の死期を早めたのではないか、とオリガは回想している。

  こうした対立の中で、クセシンスカヤやスペシフーツェワなどは、終始ヴォルインスキー派であった。また、ヴォルインスキーは、当時、新進振付家だったバランシンのバレエにも批判的だった、とも伝えられる。

  こうした対立の背景には政治的、あるいは民族的(ヴォルインスキーはユダヤ系だった)なものがあったのであろう。しかし今日からみると、音楽とダンスそのものを重視するロプホフやバランシンの考え方と、バレエという舞台芸術の理念こそが重要なのだ、とするヴォルインスキーやレガートの芸術思想の対立が垣間見える気がするのである。

  オリガ・サファイアはヴォルインスキーの薫陶を受けた後、24年にアカデミー舞踊学校(現在のワガノワ・アカデミー)に転入にし、セルゲイエフやチャブキアーニ、ワイノーネンなどの舞踊史に名を残す人々とともに、バレエ芸術の修得に勤めた。

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