「日本のバレエはじまり物語」エリアナ・パヴロバとオリガ・サファイア その十一 エリアナ・パヴロバと貝谷八百子
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コラム/その他
関口 紘一 Text by Koichi Sekiguchi
前回まで書いてきたように、エリアナ・パヴロバは日本のバレエ界を発展させる多くの教え子を育てた。エリアナはその多士済々の教え子の中で貝谷八百子には、華やかなスターの資質を認めていたと思われる。
八百子の父は、九州で財をなした代議士の貝谷真成である。八百子は1921年福岡県に生れ、幼い頃は身体が弱かった。日本舞踊を基本とした児童舞踊を習っていたが、九州に巡演にきたエリアナ・パヴロバのバレエ公演を観た。八百子自身はまだ11歳で幼かった(33年に門司、若松、大牟田などでエリアナは公演している)が、母のほうがメソッドの確立しているバレエに大いに感激した。八百子自身も後年、「クラシックに対する非常なあこがれを感じました。その時、先生は特に基本練習を見せてくれまして、それが子供心に、非常に規則的であり健康的であり、しかも舞踊美という、それはむしろせん望に近い感にうたれたのです」と述懐している。
34年に文化学院に入学するために上京し、母の薦めもあってエリアナに入門する。当時、エリアナの稽古場は有楽町の蚕糸会館にあり、八百子はここに通った。
バレエの稽古は非常に厳しかった。「先生は日本語がうまく話せないので、すぐ行動に出るんです。ハイヒールを履いていてそれでお蹴りになるの、これが痛いんです。私は稽古中に何度も卒倒して倒れました。するとコップの水を掛けるの」
稽古を厳しくするのは、テクニックを覚えさせるためと、バレリーナとして生きていくために厳しく自分を律しなければならないことを身体に浸透させるためであろう。八百子が稽古を休むと、エリアナから呼び出しの電話がかかってきた、という。それだけエリアナは、日本人離れした美しいプロポーションと、バレリーナとして経済的にも環境的にも恵まれている八百子に期待していたのである。
マリインスキー劇場出身で上海のライシャム劇場のバレエマスターだった、ニコライ・ソコルフスキー夫妻が来日した折には、エリアナは八百子と彼女の姪の緒方(近藤)玲子に特別レッスンを受けさせている。国民新聞社の講堂を使った夏一ヶ月だけのレッスンであり、技術の向上はもちろんだが、革命以前のロシア・バレエの正統的な教えに脈打つ伝統を体験させたかったのであろう。
当時、ライシャム劇場はロシア革命のから逃れてきたロシア人芸術家が主体となって、バレエやオペラを上演していた。エリアナは来日する以前に上海でソコルフスキーと知り合っていた。ちなみに、戦争直後、日本で始めて上演されたグランド・バレエ『白鳥の湖』の中心的役割を果たした小牧正英は、ソコルフスキーの下で踊っていた。また、ソコルフスキーの夫人はボリショイ・バレエ出身のバラノワである。
その頃のエリアナは、教え子たちにスクールを卒業させ、舞踊家として独立することを薦めていた。教え子自身の振付作品を発表させ、その舞台をエリアナが認めれば無事卒業となる。八百子は36年に、モーリス・ラベルの曲を兄の和昭が舞踊構成し彼女が振付けた『ツィガーヌ』を踊って卒業している。同時に久世玉枝が『ガボット』、高柳美根が『鳶』を踊って卒業した。
エリアナは卒業に際して、特別に『瀕死の白鳥』を八百子に贈り、彼女が踊ることを許した。良く知られているように『瀕死の白鳥』は、ミハイル・フォーキンがアンナ・パヴロワのためにサン=サーンスの曲に振付けた傑作である。エリアナもこの作品を得意としていたし、実際、彼女の『瀕死の白鳥』は多くの観客に感銘を与えた。日本の伝統芸能ふうにいえば、<秘曲>である。エリアナがどれほど八百子に期待していたか、自ずと分かるであろう。
そして38年、八百子は貝谷八百子バレエ団を結成、歌舞伎座を借りきるという豪勢な「貝谷バレエ劇場第一回公演」を11月28日と29日に開催した。村松道弥の『私の舞踊史』上巻によると
第一部「美しき森」貝谷八百子、東勇作他出演、内田岐三雄作・演出、服部正作曲・指揮、三林亮太郎美術、「ブローニュの森」エリアナ・パヴロバソロ、「瀕死の白鳥」八百子ソロ、デュエット「青い鳥の幻想」緒方玲子他、「少女の夢」八百子ソロ、「びっくり箱」玲子ソロ、「ツィガーヌ」八百子ソロ、第二部「コーカサス・スケッチ」八百子、パブロバデュエット、「アラビアンナイト」八百子ソロ、「ローマの松」八百子ソロ、「杏花村」奥野信太郎作、貝谷和昭作曲、八百子、東勇作デュエット、「白夜」(これはこの会のために台本を懸賞募集した当選作品)河田清史作、河合信雄演出、八百子・勇作デュエット、「ボレロ」白井鐵造作・構成、八百子他、「第五交響曲」。出演は東勇作研究所所員、元S・S・出身者、エノケンダンシングチームから女30名、男5名、スタッフには作曲の橋本国彦と山田和雄も参加し、演奏は中央交響楽団という豪華さであった。
第二回の歌舞伎座公演は、39年6月28日、29日。第一部「湖の唄」平尾貴四男作曲、トリオ「ステファン・ガボット」、クインテット「水車小屋のお話し」貝谷和昭作曲、「解き放たれたプロメシュース」西条八十作、飯田信夫作曲・指揮、第二部「覇王別姫」奥野信太郎作、和昭作曲、「白き部隊」、「ライイーシュ」内田岐三雄作、服部正作曲。二部の演奏はコンセル・ポピレール、第三部「シェヘラザーデ」河合信雄作、リムスキー・コルサコフ作曲、三林亮太郎、斉藤秀雄指揮、交響楽団。この年には、秋に大阪朝日会館で特別公演を行い、「シェヘラザード」「ローマの松」「瀕死の白鳥」などを上演した。
第三回歌舞伎座公演は、40年3月28日、29日、30日。第一部「村にて」イワノフ曲、伊藤道郎振付、「ウインの森の物語」シュトラウス曲、伊藤道郎振付は、3人の平岡斗南夫、玉田麟三ほか男性舞踊手12名出演、「ハンガリー舞曲」緒方玲子、「風」内田岐三雄作・演出、服部正曲、八百子振付、八百子・山中寿出演、「セレナーデ」ドリゴ曲、山中寿出演、「呪縛」八百子作・振付、山田和男作曲・指揮、山崎淳輔装置・衣裳、和昭演出、八百子、山中寿、玲子出演。
となっている。
エリアナのバレエの伝え方は、後年来日したオリガ・サファイアと比較すると、ロシアのクラシック・バレエのアカデミックな伝統に帰依することよりも、実際の舞台でのバレエの創作に重きを置いている。それは二人がバレエを学んだ状況とその後の活動の環境、日本で期待された役割からきている。
また、エリアナは亡命流浪生活では明日の食を得るために踊り、どうしても観客を集めなければならなかった。そのために、とにかく、本番の舞台でアピールすることが死活の勝負であり、理論や格式は二の次だったのではないだろうか。
エリアナに学んだ貝谷八百子の中には、そうした創作バレエを重んじる精神が脈打っているように感じられる。同時に、貝谷八百子が新たな創作バレエを次々と上演することができたのは、兄の和昭と伊福部昭(バレエ・リュスで活躍したニコライ・チェレプニンの息子アレクサンドル・チェレプニンに師事した)の優れた作曲家と仕事することができたからである、と付言しておく。
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