「日本のバレエはじまり物語」エリアナ・パヴロバとオリガ・サファイア その二

コラム/その他

関口 紘一 Text by Koichi Sekiguchi

 20世紀初頭、モスクワのボリショイ劇場はまだ地方の一劇場に甘んじていたが、サンクトペテルブルクでは、プティパが中心となって高度なクラシック・バレエを構築したマリインスキー劇場で、今日観る舞台とほとんど変らないバレエが盛んに上演されていた。余談だが、全盛時代のプティパのグランド・バレエの振付がどれほど精密細緻なものであったかは、ヴィハレフの舞踊譜に基づく『眠れる森の美女』や『バヤデルカ』などの本格的な復元により、しだいに明らかになってきている。プティパ振付の繊細な複雑さは、旧ソ連時代に少しづつ失われ、今ではその原形を辿ることが非常に難しくなってきているという。閑話休題。

  サンクトペテルブルクでは、1907年、裸足の舞姫イサドラ・ダンカンに影響を受けたといわれる、ミハイル・フォーキンがアンナ・パヴロワに『瀕死の白鳥』を振付けた。09年にはディアギレフ率いるバレエ・リュスが最初のパリ公演を開催。12年にニジンスキーが『牧神の午後』を踊って物議をかもし、翌年には『春の祭典』を初演し、一大スキャンダルを巻き起こした。

  プティパやフォセヴォロジスキーが、ロシア皇帝の栄誉を讃え、豪華絢爛のグランド・バレエを創っていた時代から、『ショパニアーナ』『瀕死の白鳥』『ばらの精』『ペトルーシュカ』などのダンスのモーメントを訴える、一幕が二幕の小品が中心のフォーキンの時代へと時が動いたのである。

  その結果、ツァーを組んで小規模なバレエ公演が地方でも可能となった。アンナ・パヴロワの世界巡演や、ツァー・カンパニーだったディアギレフのバレエ・リュスが、西欧各国で盛んに公演が打てるようになったのである。バレエ・リュスでは、30分作品の三本立てが平均的なプログラムだった。しかし結局、ロシア革命と世界大戦が起り、パヴロワもディアギレフも二度と祖国に帰ることはできなかったのだが。

  西洋音楽のパイオニアである山田耕筰は、留学先のドイツで、ニジンスキーやパヴロワのバレエ、あるいはイサドラ・ダンカンのダンスを観て、鋭い考察を行っている。当時の日本では、クラシック・バレエとモダンダンスを「洋舞」として同一視していたのだが、山田耕筰は、20世紀の芸術的事件ともいうべきバレエ・リュスや自由なダンスを標榜したダンカンの斬新な活動を、リアルタイムで目撃したほとんど唯一の日本人ではないだろうか。

  そして日本には、いわゆる「三人のパヴロワ」(アンナ、エリアナとオリガのこと。オリガ・サファイアは芸名で本名はパヴロワ)がつぎつぎと訪れることになる。

  まず、エリアナ・パヴロバが1919年(来日年についても諸説があるが)に来日し、社交ダンスを教えやがて日本で初めてのバレエ学校を開設する。続いて22年にはアンナ・パヴロワが来日し、各地の10の劇場で計48公演を行った。36年には、オリガ・サファイアが来日し、日劇でバレエを教えロシア・バレエの公演をしばしば開催した。

  この三人のロシア人バレリーナが日本のバレエに与えた影響は、たいへんに大きい。西欧で生れ育ち、発展を遂げたバレエを、果たして日本人はどのように受け入れただろうか。

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