「日本のバレエはじまり物語」エリアナ・パヴロバとオリガ・サファイア その五 オリガ・サファイア

コラム/その他

関口 紘一 Text by Koichi Sekiguchi

 オリガ・サファイアは、以前も述べたように1936年に、日本劇場でクラシック・バレエを教える、というひとつのはっきりした目的を持って、政治的な緊張が高まる時節に来日した。
その翌年からは外国人と日本人外交官の結婚は条例によって禁止されたから、今日からみると、日本のクラシック・バレエにとって際どい一年であったともいえる。

  オリガは自分の職を探す必要はなく、旧ソ連を出発する際に準備を整え、はっきりとした目的を持って仕事を始めた。当時の日本劇場の支配人、秦豊吉は非常に熱心に彼女をバックアップしている。稽古に対する態度については、オリガより秦のほうが怖かった、ともいわれている。
  しかし、当時はクラシック・バレエの実際の舞台、特にグランド・バレエのような大掛かりな本格的舞台を国内で観ることは、ほとんど不可能だったといっていいだろう。だから、オリガが『白鳥の湖』の「四羽の白鳥」のシーンを生徒たちの踊らせた時、観客はもうひとつピンとこなかったらしい。このちょっとコミカルな振付が未だ見ぬ<クラシック・バレエの芸術>だとは、正直言って得心がゆきかねる気がしたのかもしれない。「じゃあ、クラシック・バレエはどういう踊りか」といわれれば、もちろん返答に窮するので、しばし沈黙。
  ちょうどその頃、秦豊吉はヨーロッパへ渡る機会を得、グランド・バレエ『白鳥の湖』を本場のオペラハウスで鑑賞することができた。すると日本劇場で上演された「四羽の白鳥」とまったく同じ振付が、西欧の舞台でも舞っていた。
  帰国した秦が、オリガ・サファイアこそ「本物のクラシック・バレエの芸術家である」と声を大にして力説したのは言うまでもない。
  今から考えると、およそ70年前のまるで夢のような逸話である。

  オリガは、日本にクラシック・バレエはほとんどない、と聞かされていたから、ある程度の覚悟はして来日しただろう。たしかにクラシック・バレエがまったくなかったばかりでなく、劇場のシステム、舞台の興行の事情もロシアとまったく異なっていた。というより、一から十まですべてオリガによらなければ、バレエの上演はできなかったのである。生徒を教えながらプリマとして踊り、作品の振付を考え、音楽の演奏の手筈を整えれるくらいまでは自分でやらなければならないだろう、おそらくそんな予想をしていたオリガは、バレエを上演するためにたいへん苦労をした。
  舞台装置から衣装や照明、トウシューズ、メイクアップ、相手役の選定、そのほか諸々の雑用から、上演作品の企画・構成まであらゆることがオリガの華奢な背中に寄りかかってきたのである。ロシア国内をツァーして回った経験がある、といってもそれはロシアのバレエ団のプリマ・バレリーナとしてであって、プロデューサーとしてではなかった。

  当時29歳だったオリガ・サファイアは、自著の中でそうした心境の一部を吐露している。大袈裟にいえば、信長の国に信仰を広めにきたスペインの宣教師の心境にも似たものがあったかもしれない。
  ともあれ、こうしたクラシック・バレエにとって過酷な世界で苦闘したオリガは、その闘争の歴史を、3冊の著書にまとめている。内容は今月号の「ダンス・ブックス」の欄でも紹介されているので、ご興味のある方はぜひご覧いただきたい。
  もちろん、オリガは日本語には堪能でなかったので、夫君の清水威久(この人は、ロシアの建国史から筆を起こし、ロマノフ朝の崩壊や日露戦争、下田条約、ヤルタ協定、北方領土の四島返還などに論及した著書がある)が、監修としてで参加し、不明点は調べて明らかにしてまとめ上梓している。
  オリガはそうした著書の中で、日本人あるいは日本文化とクラシック・バレエを結婚させようと努力した20年以上(日本劇場に21年間在籍しその後も少数の生徒に教えている)の経験に基づいた、意見あるいはアドヴァイスを具体的に述べている。それが、とても70年も以前に書かれたものとは思われないほど、今日の日本のバレエにとって適切であり、正鵠を射ている、と私には思われたのである。

  そして私は、おおまかではあるがオリガの日本での活動を辿った時、やはり、私たちは一度、オリガ・サファイアの苦闘の軌跡を歩いてみる必要があるのではないか。そういう想いが沸々と沸いてきた。今回、チャコットに主催していただいた「オリガ・サファイア展」は、そういう経緯を経て企画されたのものである。

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