バレエの栄光の歴史がきらめく 「薄井憲二バレエ・コレクション」の逸品を訪ねて その2

コラム/バレエの栄光の歴史がきらめく「薄井憲二バレエ・コレクション」の逸品を訪ねて

森 瑠依子

<バレエ・リュスを彩ったダンサーの肖像 1>

1909年から20年にわたり、世界を魅了したディアギレフのバレエ・リュス。この団体には常に、当時の最高のスターダンサーが在籍していた。薄井コレクションには舞台衣装をつけてスタジオで撮影された彼らの貴重な写真と絵はがきが多数収蔵されている。今回はその中から、初期バレエ・リュスの代表的なスターたちの肖像をご紹介する。

タマラ・カルサーヴィナ(1885-1978)

バレエ・リュスで最も活躍し、常に高い人気を誇ったバレリーナ。優美で芸術性にすぐれ、知性にも富み、ディアギレフが誰よりも信頼する女性舞踊手だった。ペテルブルグの帝室舞踊学校から帝室マリインスキー劇場バレエに入団して活躍し、バレエ・リュスには1909年の旗揚げ公演で大成功を収めた後、解散の年まで多くの公演に参加した。代表的なレパートリーには『火の鳥』『タマール』のタイトルロール、『カルナヴァル』のコロンビーヌ、『ペトルーシュカ』の踊り子の人形、『薔薇の精』の少女、『三角帽子』の粉屋の妻などがある。
バレエ・リュス解散後は親しかったマリー・ランベールのバレエ団に客演し、1931年に引退。その後はロイヤル・アカデミー・オブ・ダンシングの副総裁を務めたり、英国ロイヤル・バレエでバレエ・リュスのレパートリーの再演に協力したりと、1918年に移り住んだイギリスのバレエの発展に貢献した。

『カルナヴァル』(PC-B-068-02ws)

『カルナヴァル』(PC-B-068-02ws)
シューマンのピアノ曲『謝肉祭』を元に作られたバレエ・リュスの人気レパートリーのひとつ。カルサーヴィナは当たり役のコロンビーヌの衣装でコケティッシュにポーズを取っている。サインは印刷されたもの。

『女の手管』

『女の手管』(PH-D-117-01)
1920年初演のチマローザ原曲のオペラ・バレエで、後にバレエの部分のみ『チマロジアーナ』というタイトルで上演された。カルサーヴィナは終幕のディヴェルティスマンでパ・ド・ドゥを踊っている。ホセ=マリア・セルトがデザインした奇抜な衣装が楽しい。


ワーツラフ・ニジンスキー (1889-1950)

20世紀で最初に男性舞踊手として世界を魅了した伝説のダンサー。ペテルブルグ帝室舞踊学校時代から才能がぬきんでており、マリインスキー劇場バレエに入団するとすぐにクシェシンスカヤ、プレオブラジェンスカヤ、カルサーヴィナらのパートナーに抜擢された。バレエ・リュスの最大のスターで、役柄と一体化した演技、空に浮かぶような跳躍が絶賛され、フォーキン振付の『シェエラザード』の金の奴隷、『薔薇の精』『ペトルーシュカ』のタイトルロール、自作の『牧神の午後』の牧神などは、彼の名と深く結びついている。また振付作品『牧神の午後』『春の祭典』初演時に観客が起こした騒ぎは、バレエ史上に残るスキャンダルとなった。
バレエ・リュスを離れた後に統合失調症の療養生活に入り、舞台復帰はかなわなかった。

『薔薇の精』

『薔薇の精』 (PH-CC-044ws)
人間ではない存在を演じるのがたいへん巧みだったと言われるニジンスキーの、代名詞といえる役柄のひとつ。台紙に別の写真から切り取った身体部分が貼り付けられている。1912年の直筆サイン入り。

ニジンスキーとロモラ・ド・プルスカの結婚式

ニジンスキーとロモラ・ド・プルスカの結婚式 (PH-D-185-09)
1913年、南米巡業中の9月10日にブエノスアイレスで執り行われたニジンスキーの結婚式の様子。ロモラ夫人はニジンスキーのいわゆる「追っかけ」だった。巡業終了後にニジンスキーはバレエ・リュスを解雇され、ディアギレフとの関係が修復されないまま、1916〜17年の北南米とスペイン巡業にのみ復帰する。


ミハイル・フォーキン (1880-1942)

バレエ・リュス初期のほぼすべての代表作を振付けた、20世紀で最も重要な振付家のひとり。マリインスキー劇場バレエのダンサー時代に『ショピニアーナ(後のレ・シルフィード)』『瀕死の白鳥』を振付け、バレエ・リュスで『ポロヴェツ人の踊り』『シェエラザード』『火の鳥』『ペトルーシュカ』『薔薇の精』『カルナヴァル』などを発表した。
1915年にバレエ・リュスと決別した後、ロシアを離れてニューヨークに移り住み、1921年にスタジオを開いて妻と息子とともに指導にあたった。自らのバレエ団を結成して自作を上演したほか、欧米各地で振付家、バレエマスターとして活躍。イーダ・ルビンシテインのバレエ団、ルネ・ブルムおよびド・バジル大佐のバレエ・リュス・ド・モンテカルロ、ミラノ・スカラ座、メトロポリタン歌劇場、バレエ・シアター(現ABT)、ブエノスアイレスのコロン劇場などに協力した。『瀕死の白鳥』『レ・シルフィード』『薔薇の精』は現在も世界中のバレエ団の定番のレパートリーとなっている。

『侯爵夫人の夢』

『侯爵夫人の夢』 (PH-D-084-02ws)

1921年にメトロポリタン歌劇場で初演された、フォーキンの振付・主演作品。台紙に写真とともに直筆サイン入りのカードが貼り付けられている。


アンナ・パヴロワ (1881-1931)

世界中で最も有名なバレリーナといってよいだろう。ペテルブルグ帝室舞踊学校時代から注目され、マリインスキー劇場バレエでも入団するとすぐに華々しい活躍を見せた。1908年より外国で踊り、バレエ・リュスでは1909年にパリで『レ・シルフィード』『クレオパトラ』、1911年にロンドンでニジンスキーと『ジゼル』『アルミードの館』『カルナヴァル』などを踊っている。1910年代に自らのバレエ団で全米巡業を始め、さらに中南米、ヨーロッパ、日本を含む東アジア(1922年)、南アフリカ、エジプト、インド、オセアニアとくまなく回り、1931年にオランダのハーグで肺炎のために亡くなるまで、バレエを世界各地の人々に伝えるために生涯を捧げた。
叙情性、感情表現に優れた比類がないバレリーナで、マリウス・プティパのお気に入りでもあった。代表作には彼女の代名詞と言える『瀕死の白鳥』、『ジゼル』、小品の『とんぼ』『ガヴォット』などがある。

『瀕死の白鳥』

『瀕死の白鳥』 (PH-D-196-06ws)
パヴロワの最も有名な写真のひとつ。1905年にベルリンでシュナイダーにより撮影されたもので、直筆サイン入り。

ポートレート―アイヴィ・ハウスの庭にて

アイヴィ・ハウスはパヴロワが1911年から住んでいたロンドン北部、ゴールダーズグリーンに建てられた館。広い庭の池では白鳥が泳ぐ。パヴロワは翌12年から館内のスタジオに生徒を集めて、バレエを指導した。1920年代、エルンスト・シュナイダー撮影。


アドルフ・ボリム (1884-1951)

バレエ・リュス最初のシーズンに『ポロヴェツ人の踊り』で戦士隊長を演じ、野性的な踊りでパリを魅了した、フォーキン作品に欠かせないダンサー。キャラクター役やマイムを得意とし、バレエ・リュスでは『火の鳥』のイワン王子、『カルナヴァル』のピエロ、『ペトルーシュカ』のムーア人、『金鶏』のドードン王などを演じた。1917年のアメリカ巡業の後にアメリカに定住し、自身のバレエ団やバレエ学校を設立。メトロポリタン歌劇場、シカゴ・シヴィック・オペラ、サンフランシスコ・バレエ、ハリウッド・ボウル、ブエノスアイレスのコロン劇場などで自作を上演したほか、バレエ・リュスのレパートリーを出演、振付、指導を通して各地に広めた。1930年代からはハリウッドに住み、映画作品の振付も行う。1940年のバレエ・シアター旗揚げ公演で『カルナヴァル』のピエロを演じた。その後、このバレエ団の舞台監督を務めている。

『火の鳥』

『火の鳥』 (PC-B-010ws)
ボリムの当たり役のひとつ、石弩をかまえるイワン王子。1920年の直筆サインが入っている。1911年、エミール・オットー・ホッペ撮影。


マチルダ・クシェシンスカヤ (1872-1971)

ロシア人で初めて32回のフェッテに成功した技巧派で、ドラマティックな役柄に秀でたバレリーナ。ロシア皇帝ニコライ2世の皇太子時代の愛人であり、マリインスキー劇場で権勢を振るった。ディアギレフが19世紀の古典の主役には彼女がぴったりと考えたため、1911〜12年にバレエ・リュスでニジンスキーと『白鳥の湖』、『眠れる森の美女』の青い鳥のパ・ド・ドゥ、『カルナヴァル』『薔薇の精』を踊ったが、新しい芸術を求めていたバレエ・リュスのファンには彼女の踊りは時代遅れに感じられ、評判はよくなかった。
1920年に亡命してフランスに定住した後は、生活を支えるためにパリにスタジオを開いてタチアナ・リアブシンスカ、アンドレ・エグレフスキー、イヴェット・ショーヴィレ、マーゴ・フォンテインらを育てた。彼女の自伝ではロシアの帝室とダンサーたちの親密さや、当時の華やかな社交生活、ロシア革命によって訪れた恐怖の日々と亡命の様子を知ることができる。

『エスメラルダ』

『エスメラルダ』 (PC-B-077-02)

<クシェシンスカヤが踊ることを最も熱望し、愛していた作品。情感あふれる演技で大成功を収めた。1915年頃の撮影。

ポートレート―姉ユーリヤ(右)と

ポートレート―姉ユーリヤ(右)と (PH-D-127)

7歳上の姉ユーリヤもマリインスキー劇場で踊っており、父フェリックスと同様にキャラクターダンサーとして成功した。なお、2016年のワガノワ・バレエ・アカデミーの来日公演に参加したエレオノーラ・セヴェナルドは、マチルダの4歳上の兄ヨーシフの子孫。

イーダ・ルビンシテイン (1883-1960)

ダンサーとしての能力は限られていたが、プロデューサー、さらに芸術家たちのミューズとして20世紀の芸術に大きな貢献を果たした、カリスマ性に満ちた資産家。フォーキンに師事し、バレエ・リュスでは1909年に『クレオパトラ』、1910年に『シェエラザード』のタイトルロールを演じて、エキゾティックな抜群の存在感で人気を集めた。様々な舞台をプロデュースし、『聖セバスチャンの殉教』(1911年、ダヌンツィオ、ドビュッシー、フォーキン、バクストによる)、『火刑台上のジャンヌ・ダルク』(1938年、クローデル、オネゲルによる)などを上演。1920年代後半に結成した自身のバレエ団ではニジンスカの振付、ブノワの美術で『妖精の接吻』(ストラヴィンスキー作曲)、『ラ・ヴァルス』『ボレロ』(ともにラヴェル作曲)、クルト・ヨース振付の『ペルセフォネ』(ストラヴィンスキー作曲)などを発表した。

『サロメ』

『サロメ』 (PH-D-218-02)

彼女が最初に注目を浴びることになった代表作の一場面で、振付はフォーキン。七つのヴェールの踊りで彼女は衣装をほとんど脱ぎ捨ててしまい、大騒ぎになったという。モスクワのスタジオ、メビウスで撮影された。

ポートレート

ポートレート (PH-D-218-03)
両性具有的な魅力の持ち主だったと言われるイーダだが、残されている写真などではむしろ女性的な妖艶な魅力が感じられる。これもメビウスで撮影。

写真提供:兵庫県立芸術文化センター 薄井憲二バレエ・コレクション

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