バレエの栄光の歴史がきらめく 「薄井憲二バレエ・コレクション」の逸品を訪ねて その1
- インタビュー & コラム
- コラム(その他)
掲載
コラム/バレエの栄光の歴史がきらめく「薄井憲二バレエ・コレクション」の逸品を訪ねて
森 瑠依子
阪急神戸線西宮北口駅から南にすぐの兵庫県立芸術文化センターの一室に、世界のバレエ史を彩ってきた貴重な品々が収蔵されている。この宝の山の名は「薄井憲二バレエ・コレクション」。日本バレエ協会前会長で、ダンサー、指導者、舞踊史研究者として世界に知られ、戦前より長年にわたって活躍しているバレエ界の重鎮、薄井憲二氏が1930年代から収集してきた公演プログラム、台本、書籍、ポスター、写真、リトグラフ、絵はがき、小物類(メダル、陶磁器、マッチ箱他)など、多岐にわたるバレエ資料が寄贈されたもの。個人のコレクションとしては世界有数の規模を誇る。現在総計6,500点を超えるコレクションは、19世紀のロマンティック・バレエ、19〜20世紀のロシア・バレエ、1909〜29年のバレエ・リュス、1931〜1962年のバレエ・リュス・ド・モンテカルロを主なテーマとしており、新たに1930〜60年代のフランス・バレエの貴重な品々もそろいつつある。
芸術文化センターでは2006年10月以来、「常設展」「企画展」という形で、コレクションの一部を公開している。また東京でも2013年の「ロマンティック・バレエの世界〜妖精になったバレリーナ」展(ニューオータニ美術館)など、数回の展示を行ってきた。さらにこの春、芸術文化センターの開館10周年を記念して「薄井憲二バレエ・コレクション目録」(全4巻)が完成し、コレクションの全貌を知ることができるようになった。そこで膨大な収蔵品の中から、バレエ界に大きな影響を与えたと思われる出来事にかかわる興味深いアイテムの一部をご紹介していく。第1回は、バレエ・リュスの重要な時期の公演プログラムとそこで上演された舞台をピックアップしている。
<その1.公演プログラム編 [ バレエ・リュス ]>
薄井コレクション中、資料が最も充実している分野のひとつがセルゲイ・ディアギレフが率いたバレエ・リュスの公演プログラムだ。1909年から29年にわたって西ヨーロッパと北南米で活動した名高いバレエ団の、シーズンごとの公式プログラムが50冊弱、公演当日のキャストなどが記載されたハウス・プログラムが185点ほど集められている。
特に公式プログラムの表紙は、レオン・バクスト、パブロ・ピカソらによる美麗な舞台衣装のデザインが採用されているものが多く、当時の舞台の華やかさを垣間見ることができる。
(註)
セルゲイ・ディアギレフ(1872-1929)
ロシア人の興行主。1898年よりサンクトペテルブルグで画家のレオン・バクスト、アレクサンドル・ブノワらと美術雑誌「芸術世界」を発行し、「帝室劇場年鑑」の編集にも携わる。ロシアの芸術をヨーロッパで紹介する夢をもち、1908年にパリ・オペラ座でロシア・オペラ、翌年にパリ・シャトレ劇場でロシア・バレエ公演を行い、パリをはじめ西ヨーロッパにロシア・ブームを引き起こした。ピカソ、マティス、ローランサン、ユトリロらの画家やラヴェル、ストラヴィンスキー、プロコフィエフらの作曲家とのコラボレーションで新作を発表し続け、バレエを一流の総合芸術として世界に広めた。
バレエ・リュス
ディアギレフがサンクトペテルブルグとモスクワの帝室劇場のダンサーを中心として結成し、1909年より1929年まで世界ツアーを行ったバレエ団。「バレエ・リュス」は「ロシア・バレエ」を意味し、最初はロシア人のみの団体だったが、後にはイギリス人のリディヤ・ソコローワ、アントン・ドーリンなど、外国人のダンサーも参加した。代表作の『ポロヴェツ人の踊り』『レ・シルフィード』『シェエラザード』『薔薇の精』『ペトルーシュカ』(以上ミハイル・フォーキン振付)、『牧神の午後』『春の祭典』(以上ワーツラフ・ニジンスキー振付)、『ミューズを率いるアポロ』『放蕩息子』(以上ジョージ・バランシン振付)などが現在も盛んに上演されている。
1909年の旗揚げ公演にはロシアのスターのアンナ・パヴロワ、タマーラ・カルサーヴィナ、イダ・ルビンシテイン、ワーツラフ・ニジンスキー、アドルフ・ボリムらが参加し、ロシア色豊かでカラフルな舞台でパリに大旋風を巻き起こし、バレエ・ファンのみならず、ファッション界にも影響を与えた。その後は新進気鋭の作曲家、画家たちとの共作で、時代の最先端を行く作品を次々と発表。ミハイル・フォーキン、ニジンスキー、レオニード・マシーン、ブロニスラワ・ニジンスカ、ジョージ・バランシン、セルジュ・リファールという20世紀の偉大な振付家を輩出し、現代の世界各地のバレエ団に大きな影響を残している。
表紙『シェエラザード』スルタンの衣装デザイン
表紙『シェエラザード』スルタンの衣装デザイン
<初のパリ・オペラ座公演の公式プログラム>1910年6月
『クレオパトラ』のイダ・ルビンシテイン
(PRBROF-001)
1910年6月、バレエ・リュスの活動2年目、初のパリ・オペラ座公演の公式プログラム。全48ページ。「コメディア・イリュストレ」誌の特別号という形で出版されている。表紙はレオン・バクストが美術を担当した『シェエラザード』より、スルタンの衣装デザイン。レパートリー、メンバーリスト、上演作品のあらすじ、スターダンサーの写真などの他、レヴィヨンの毛皮、パキャンのドレス、ルノーの自動車、高級レストランといった富裕層向けの広告が多数掲載されており、当時の流行を知ることもできるのが楽しい。
レパートリーは初演の『シェエラザード』『火の鳥』『レ・ゾリアンタル』、前年に続いての『饗宴』『ポロヴェツ人の踊り』『クレオパトラ』など、古い時代のエキゾティックな物語が中心で、前年と同様に高い評価を受けた。1841年にこの劇場で初演された『ジゼル』も上演され、優美なカルサーヴィナと人気抜群のニジンスキーがすばらしい踊りを披露したが、今まで見たことのない斬新な作品を求めていた観客の反応は今ひとつだった。
『シェエラザード』
1910年6月4日パリ・オペラ座で初演、全1幕のドラマ・バレエ。フォーキン振付、リムスキー=コルサコフ作曲、バクスト美術。「千夜一夜物語」を題材にしたもので、ハーレムでスルタンの愛妾ゾベイーダを妖艶に演じたイダ・ルビンシテインと、しなやかな獣のように跳躍する金の奴隷役ニジンスキーの官能的な踊りが大評判となった。
『火の鳥』
1910年6月25日パリ・オペラ座で初演。全1幕の幻想的バレエ。フォーキン振付、ストラヴィンスキー作曲、ゴロヴィーン、バクスト美術。ストラヴィンスキーとバレエ・リュスの初コラボレーション作品。ロシアのおとぎ話を題材として、イワン王子を振付者のフォーキン、火の鳥をカルサーヴィナが演じ、豪華な美術と、舞踊と音楽が調和した舞台で成功を収めた。
表紙『レ・シルフィード』 カルサーヴィナ、ニジンスキー
『レ・ゾリアンタル』より 「シャムの踊り」ニジンスキー
<初のロンドン公演の公式プログラム>1911年6月
『レ・ゾリアンタル』のニジンスキー
(PRBROF-040)
1911年6月ロンドン初登場で、英国ロイヤル・オペラと合同で行われたコヴェントガーデン王立歌劇場での「戴冠シーズン」公式プログラム。全102ページのうちバレエ・リュスのページは全体の3分の1ほど。表紙はカルサーヴィナとニジンスキーの『レ・シルフィード』の写真を彩色して使用している。初演作品はなく、同年4月の新作『薔薇の精』『ナルシス』と旧作の『クレオパトラ』『シェエラザード』『アルミードの館』などを上演した。
シーズン中の6月22日に英国王ジョージ5世(最後のロシア皇帝ニコライ2世のいとこ。姉妹のデンマーク王女を母にもつふたりは、しばしば間違えられるほど外見が似ていた)の戴冠式が行われ、26日に開催された戴冠記念ガラ公演にはバレエ・リュスも出演し、表紙のふたりの主演で『アルミードの館』を上演した。
『レ・シルフィード』
1909年6月4日、パリ・シャトレ劇場で初演、全1幕のロマンティック・バレエ。フォーキン振付、ショパン作曲、ブノワ美術。1907年にペテルブルグのマリインスキー劇場で初演された『ショパニアーナ』を改訂したもの。ストーリーのない抽象バレエで、ショパンのマズルカ、ワルツなどの小品を踊り継いでいく。詩人役をニジンスキー、空気の精(シルフィード)役をパヴロワ、カルサーヴィナら、マリインスキー・バレエの大スターたちがすぐれた技術で軽やかに優美に演じ、人気レパートリーのひとつとなった。
『薔薇の精』
1911年4月19日、モンテカルロ歌劇場で初演、全1部のバレエ。フォーキン振付、ウェーバー作曲、ベルリオーズ編曲、バクスト美術。舞踏会から帰った娘(カルサーヴィナ)が夢の中で薔薇の精(ニジンスキー)に出会い、共に踊るという物語で、カルサーヴィナの可憐さと中性的なニジンスキーの柔らかい動作が役柄にぴったり合い、ふたりの当たり役のひとつとなった。
『アルミードの館』
1907年11月25日、マリインスキー劇場で初演、全3部の幻想的バレエ。フォーキン振付、ニコライ・チェレプニン作曲、ブノワ美術。テオフィル・ゴーティエの小説が原作で、舞台は18世紀のロココ時代のフランス。1909年5月19日、パリ・シャトレ劇場でのバレエ・リュスの旗揚げ公演最初の演目に選ばれた。ヴェラ・カラーリ、カルサーヴィナ、ニジンスキー、ミハイル・モルドキンらが出演し、壮麗な舞台で観客の心をつかんだ。またパ・ド・トロワを踊ったニジンスキーが「宙に浮いて下りてこなかった」とまで言われる軽やかな跳躍でパリの人々を驚かせ、一躍スターとなった。
<アメリカ巡業、フィラデルフィア・メトロポリタン歌劇場のハウス・プログラム>1916年11月
(PRBRHP-017)
1916年11月24日と25日、フィラデルフィアのメトロポリタン歌劇場出演時のハウス・プログラム。全4ページ。第一次世界大戦が勃発してヨーロッパでの活動が難しくなったバレエ・リュスは、1916〜17年にかけて北南米の巡業を行う。看板スターのニジンスキーは1913年の南米公演中に突然結婚したことで、ディアギレフとの関係がこじれて退団させられてしまったが、1916年の2度のアメリカ巡業と1917年の南米公演に興行主の要望で参加した。16年10月から17年3月にわたる2回目のアメリカ公演には、団長を務めたニジンスキーの意向で、ディアギレフと舞台監督のセルゲイ・グリゴリエフが参加しなかった。そのため、10月に初演されたニジンスキーの振付・主演による『ティル・オイレンシュピーゲル』を、ディアギレフは一度も見ることができなかった。
その他の演目は常に人気のあった『レ・シルフィード』、男性的なボリムが金の奴隷を演じた『シェラザード』、コケティッシュな魅力にあふれたリディヤ・ロポコワ(ロプホーワ、後に高名な経済学者ジョン・メイナード・ケインズと結婚する)とニジンスキーによる『薔薇の精』など、定評ある作品ばかりだった。幕間には1913年に『春の祭典』を初演したピエール・モントゥーの指揮で、ラロの『ノルウェー狂詩曲』、リムスキー=コルサコフの『スペイン奇想曲』が演奏されている。 ディアギレフ不在のバレエ団は、ニジンスキーの統率力不足のために大混乱して巡業を終える。ニジンスキーのバレエ・リュスへの出演は17年の9月が最後で、その2年後のソロ・リサイタルの後、精神を病んでいた彼が公の場で踊ることはなかった。
『ティル・オイレンシュピーゲル』
1916年10月23日、ニューヨーク・マンハッタン歌劇場で初演、コミック・ドラマ・バレエ。ニジンスキー振付、リヒャルト・シュトラウス作曲、ジョーンズ美術。ニジンスキーがタイトルロール、ソコローワがりんご売りの娘を演じ、奇抜な衣装、コミカルな演技で好評を博した。その後は上演されずに幻の作品となっていたが、1987年にニジンスキー版『春の祭典』を復元したミリセント・ホドソンとケネス・アーチャーが、1994年にパリ・オペラ座バレエのために再構成している。
表紙『三角帽子』の衣装デザイン
『上機嫌な婦人たち』カルサーヴィナ、マシーン
<パリ・オペラ座公演の公式プログラム>1919年12月〜20年2月
『上機嫌な婦人たち』のカルサーヴィナとマシーン
(PRBROF-016)
1919年12月〜20年2月のパリ・オペラ座での公式プログラムで、表紙はパブロ・ピカソによる『三角帽子』の衣装デザイン。全54ページ。1年前に第一次世界大戦が終結し、バレエ・リュスもヨーロッパでの活動を再開して、マシーンが精力的に新作の制作に取り組んでいた時期にあたる。華やかな舞台衣装姿のダンサー写真のほか、ピカソによるレオニード・マシーンとアンドレ・ドランの肖像、ピカソの『三角帽子』とドランの『不思議な店』の舞台幕デザインなど、新作の興味深い画像が多数掲載されている。
このシーズンのレパートリー14作には、3つめの新作『うぐいすの歌』、および『真夜中の太陽』『上機嫌な婦人たち』といったマシーンの代表作に加え、『シェエラザード』『レ・シルフィード』『ポロヴェツ人の踊り』などフォーキン振付の定番作品が含まれていた。
『三角帽子』
1919年7月22日、ロンドン・アルハンブラ劇場で初演、全1幕のバレエ。マシーン振付、ファリャ作曲、ピカソ美術。スペインを舞台にした喜劇で、主演のマシーンはディアギレフがセビリヤで出会ったスペイン人のフラメンコ・ダンサーから本格的なスペイン舞踊を学んで振付に採り入れ、好演した。ロンドンでの初演は大成功し、同年9月に始まったエンパイア劇場でのシーズンには、バレエ・リュスの後援者であるスペイン国王のアルフォンソ13世がロンドンを訪れ、このバレエを鑑賞した。
『不思議な店』
『不思議な店』 1919年6月5日、ロンドン・アルハンブラ劇場で初演、全1幕のバレエ。マシーン振付、ロッシーニ作曲、レスピーギ編曲、ドラン美術。ロポコワ、ソコローワ、マシーン、エンリコ・チェケッティらの出演で、19世紀のおもちゃ屋で夜の間に人形たちが繰り広げる騒ぎを描いた陽気なバレエ。軽やかでチャーミングなロポコワと顔を白塗りにしてコミカルに演じたマシーンのカンカン踊りが特に好評で、バレエ・リュスの人気レパートリーのひとつとなった。
『うぐいすの歌』
1920年2月2日、パリ・オペラ座で初演、全1幕のバレエ。マシーン振付、ストラヴィンスキー作曲、マティス美術。アンデルセンによる中国の皇帝の童話を原作としたストラヴィンスキーのオペラ『うぐいす』を編曲した交響組曲が使われた。セルゲイ・グリゴリエフが病に冒された皇帝、カルサーヴィナが愛らしいうぐいす、ソコローワが不気味な衣装を身につけて「死」を演じた。1925年6月にバランシンによる新しい振付で再演されている。
『ポロヴェツ人の踊り』
1909年5月19日、パリ・シャトレ劇場で初演。ボロディン作曲のオペラ『イーゴリ公』(1890年初演)のクライマックスの踊りで、バレエ・リュスの旗揚げ公演のためにフォーキンが振付けた。ニコライ・レーリヒの民族色豊かなデザイン、ボリムに率いられた兵士たちの勇壮でダイナミックな踊り、合唱も伴う大迫力の音楽と、それまでのバレエと全く異なる野性的でエネルギッシュな舞台に観客は圧倒され、パリに一大ロシア・バレエ・ブームが巻き起こった。
表紙『眠り姫』従者の衣装デザイン
『眠り姫』王妃と小姓(上)と カラボス(下)の衣装デザイン
<ロンドン・アルハンブラ劇場での『眠り姫』公式プログラム、1921年11月〜22年2月>
バクストによる王妃と小姓(上)、カラボス(下)の衣装デザイン
(PRBROF-037)
1921年11月2日よりロンドンのアルハンブラ劇場で上演された『眠り姫(眠れる森の美女)』の公式プログラム。全30ページ。表紙はバクストの衣装デザイン画で、中のページにも多数の衣装デザイン画が掲載されている。ディアギレフは1890年のマリインスキー劇場での初演時から『眠れる森の美女』に夢中で、この豪華な古典バレエを外国で上演することを夢見ていた。その夢をついにロンドンでかなえ、半年以上のロングランを計画していたが年末には客足が落ち、1922年2月4日にシーズンを終了せざるをえず、多額の借金を負って衣装と装置を差し押さえられてしまった。
しかし上演をあきらめきれなかったディアギレフは『眠れる森の美女』を全1幕の『オーロラの結婚』として改訂し、5月にパリ・オペラ座の舞台に載せる。この短縮版のほうは大成功で、1929年のバレエ団解散の間際まで、200回以上にわたって上演されるほどの人気作品となった。
『眠り姫(眠れる森の美女)』
1921年11月2日、ロンドン・アルハンブラ劇場で初演、ペローの物語に基づく全5場のバレエ。マリウス・プティパ原振付、ニコライ・セルゲーエフ復元、ニジンスカ追加振付(結婚披露宴の場面の「青ひげ」「シェエラザード」「お人好しのイワン」の踊りなど)、チャイコフスキー作曲(ストラヴィンスキーが一部を編曲)、バクスト美術。1890年にペテルブルグで帝室マリインスキー劇場バレエにより初演された豪華な古典バレエを、セルゲーエフが亡命時に持ち出した舞踊譜をもとに復元したもの。初日はマリインスキー劇場出身で初登場のオリガ・スペシーフツェワと、ピエール・ウラジーミロフが主演し、1890年の初演でオーロラ姫を演じた54歳のカルロッタ・ブリアンツァがカラボス役で出演。マリインスキー劇場仕込みのすばらしい舞台を披露した。さらに1922年1月5日には、71歳のエンリコ・チェケッティが舞台デビュー50周年を記念して、32年前の初演時と同じカラボス役で登場し、バレエ・ファンを喜ばせた。またマリインスキー出身のスター・バレリーナのヴェラ・トレフィロワとリュボーフィ・エゴロワもオーロラ姫を演じ、バレエ・ファンの間で3人のうち誰がいちばんすぐれているかを巡って論争になったりもしている。
『オーロラの結婚』
1922年5月18日、パリ・オペラ座で『眠れる森の美女の結婚』のタイトルで、プティパ生誕100周年記念公演として初演された(プティパは実際は1818年生まれだが、当時は1822年生まれとされていた)。『眠り姫』の結婚披露宴の場面を中心にした抜粋で、バクストの衣装、装置を差し押さえられたため、ブノワの旧作『アルミードの館』のセットと衣装を転用し、ナターリヤ・ゴンチャロワによる新しい衣装を加えた。初日の主役は『眠り姫』でも主演したトレフィロワとウラジーミロフ。ニジンスカが新たに小品「シャムの蝶」を振付け、自ら踊った。
<バレエ・リュス最後のシーズン、ロンドン・コヴェントガーデン王立歌劇場のハウス・プログラム>1929年7月25日
(PRBRHP-111)
1929年8月19日、ディアギレフが休暇で滞在していたヴェネツィアで糖尿病のために急死し、リーダーを失ったバレエ・リュスは活動を停止した。彼らの最後のシーズンは7月26日にロンドンのコヴェントガーデン王立歌劇場で終了したが、薄井コレクションにはその前日、7月25日の全4ページのハウス・プログラムが収蔵されている。このときの団名は「ザ・セルジュ・ディアギレフ・ロシアン・バレエ」。彼らは最後までディアギレフなしには存在しえないバレエ団だった。
25日の上演作品には『牧神の午後』、シーズン全体のレパートリーには『レ・シルフィード』『ポロヴェツ人の踊り』が含まれており、時代の先端を走る数々の新作で話題を提供してきたバレエ団とはいえ、初期の代表作が安定した人気を集めていたことがわかる。なおバレエ・リュスの最後の公演はこの10日後の8月4日、フランスの温泉保養地ヴィシーのカジノ劇場で行われたが、ディアギレフはロンドン公演終了後は別行動を取っていたため、立ち会わなかった。
解散後、ダンサーとスタッフたちはバレエ・リュスの後継団体ともいえるバレエ・リュス・ド・モンテカルロなど様々なバレエに入団、または新団体を結成し、世界中に活躍の場を広げていくことになる。
『春の祭典』
1913年5月29日、パリ・シャンゼリゼ劇場で初演、全2場のバレエ。ニジンスキー振付、ストラヴィンスキー作曲、レーリヒ美術。ストラヴィンスキーのプリミティヴで複雑なリズムの曲を舞踊化するのに振付家もダンサーもたいへん苦労し、マリー・ランベールが振付助手として参加してニジンスキーを補佐した。初日に出席したパリの観客は、かつて経験したことのない斬新な作品に激しい衝撃を受け、警官が呼ばれるほどの騒ぎを起こした。1920年12月以降はマシーンの振付による改訂版が上演されている。1987年にホドソンとアーチャーがジョフリー・バレエのためにニジンスキー版を復元した。
『牧神の午後』
1912年5月29日、パリ・シャトレ劇場で初演、全1幕のバレエ。ニジンスキー振付、ドビュッシー作曲、バクスト美術。ニジンスキーの初振付作品で、自ら主役の牧神を踊った。振付は古代ギリシャ美術の影響を受けており、牧神とニンフたちは常に横顔を見せながら、流麗な音楽とは対照的な直線的な動きを続ける。初日には牧神の最後の仕草がわいせつだとして観客が騒ぎ立て、賛否両論がわき起こったが、ディアギレフは彫刻家のロダンに擁護文を書かせるなどしてこの騒ぎをうまく宣伝に利用し、劇場は興味津々で押しかけてきた観客で大いににぎわった。
写真提供:兵庫県立芸術文化センター 薄井憲二バレエ・コレクション