「日本のダンスはじまり物語」イトウミチオという舞踊家 Vol.3

伊藤道郎は、1914年、第1次世界大戦の勃発の混乱を逃れて、ドレスデンからロンドンに移る。当時は列強の帝国主義華やかなりし頃で、02年には日英同盟が締結され、04~05年は日露戦争、14年には日本はドイツに宣戦を布告している。

  また1851年、ロンドンのクリスタルパレスで第1回の万国博覧会が開催され、オランダ人が日本の屏風を初めて紹介。1862年のロンドン万博では、初代駐日英国公使オールコックが蒐集した日本の美術品が展示され評判となった。1867年のパリ万博には江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩が出品、陶磁器、工芸品、武具、浮世絵などがブームとなりジャポニズムの兆しが見られた。

  その後、ロンドン(71)ウィーン(73)フィラディルフィア(77)パリ(78)などの万国博覧会の開催とともに、ジャポニズムが盛んになり、『ミカド』(1855)『夢』『お菊さん』『ゲイシャ』『マダム・バタフライ』(1904)など日本テーマのオペラも相次いで上演されることになった。こうしたことの影響から、キモノがヨーロッパ社交界のモードとなり、ポール・ポワレのキモノコートが生まれた。そのほかにもジャポニズムは、絵画の印象派はいうまでもなく、アールヌーボー、ティファニーやガレ、脱構築主義の建築に至るまで様々な分野に影響を与えたといわれる。

  1916年、伊藤道郎がイエーツの舞踊劇『鷹の井戸』を踊ってロンドンで名を上げたことはよく知られている。
  ではイエーツが能の手法に基づいた『鷹の井戸』を書いた、当時のロンドンの芸術家たちの背景にはどのようなものだったろうか。前にも述べたように、産業振興を旨として開催された万博で紹介された日本美術がきっかけとなり、ロンドンではいわゆるジャポニズムが盛んになり注目されていた。
  当時、モダニズムの詩人のエズラ・パウンドはロンドンで活動していた。彼はアメリカ生れだが、何回かのヨーロッパ旅行の体験から、詩人を志す。1908年にロンドンに到り、E.B.イエーツ、D.H.ロレンス、ジェームス・ジョイスなど多くの芸術家たちと交友した。中でもイエーツを生存する最も偉大な詩人である、と敬意をいだき彼の秘書となった。さらにパウンドは、ホイッスラーを始めとするジャポニズムの仲間たちとも交流があり、日本の文化への関心も深めていた。

  一方、東京大学で哲学を教え日本の美術を評価研究し、岡倉天心とともに東京美術学校(東京芸術大学の前身)を設立したアーネスト・フェノロサが、1908年、ロンドンで客死していた。フェノロサの未亡人メアリーは、能などに関する彼の未整理のノートを出版するために編纂する人物を探していた。パウンドはこうした時期にメアリー夫人と知り合い、フェノロサのノートの整理を依頼されることになったのである。
  ところで、このエズラ・パウンドが私淑して秘書となったウィリアム・バトラー・イエーツ。映画『ミリオンダラー・ベイビー』でイーストウッド扮するフランキー・ダンが愛読しているのが、イエーツの詩集。アイルランドの詩人劇作家として文芸復興運動を推進し、神秘主義者とも言われる。「日本の高貴な劇」といった論文もあり、1923年にはノーベル文学賞を受賞している。

  パウンドはイエーツとともに「ストン・コテージ」に籠り、彼の創作の補佐をしつつ、フェノロサのノートの編集にとりかかった。当時、新たな創作の境地を求めていたイエーツは、パウンドがまとめたフェノロサの能に関するノートを読み、大いに刺激を受けた。イエーツはかねてからアイルランドの伝説を題材とした劇作を行っていたが、詩、音楽、舞踊が一体化した象徴的演劇が能に実現されていることに触発され、『鷹の井戸』などの4編の舞踊劇を書いたのである。

  伊藤道郎はこうした状況のロンドンに到り、芸術家などの有名人が集う、カフェ・ロワイヤルに足繁く通った。そこでの交友関係をきっかけにして、芸術家のサロンでダンスを踊るチャンスを得、ダルクローズ学院時代に創った作品を披露して、大いに人気を集めた。さらに、フェノロサのノートに触発されて日本の能に関心を深めていたパウンドやイエーツに、実際の能についての説明を久米民十郎、郡虎彦などとともに行なったのである。

  そして、様々の機縁を経て伊藤道郎は、ロンドンの海運王の夫人で芸術家のパトロンとして著名なキューナード家の紳士淑女が居並ぶ客間で、『鷹の井戸』の鷹の女を踊った。
  このようして先見性に富んだ世界的な舞踊家、伊藤道郎は、20世紀初頭のロンドンに誕生したのである。

コラム/その他

[ライター]
関口紘一

ページの先頭へ戻る