「日本のダンスはじまり物語」イトウミチオという舞踊家 Vol.2

伊藤道郎は声楽家を目指して、1912年11月6日、日本郵船の伊豫丸に乗って横浜港からドイツへと旅だった。貨物船だったので同乗した船客は石橋勝浪と斉藤佳三の二人だけだった。ちなみに石橋はパイロットになるためにパリへ向かうところで、彼は後にフランスの空軍士官として戦闘に参加している。
  斉藤は当初、音楽を志したが岡田三郎助の影響を受けて東京美術学校に転身した。山田耕筰と交遊があり、ベルリンでは共にロシア・バレエ団などの舞踊公演をみている。当地で斉藤は、道郎を山田に引き合わせている。斉藤は後に帰国して、帝劇を辞したローシーが作った、赤坂ローヤル館で行われたオペラの舞台装置の多くを手掛けた。

  道郎は12月23日にマルセイユに着き、28日にベルリンに入った。道郎はこの頃に、パリやエジプトに行って種々の経験をなし、芸術的に感得することがあった、と後年の回想でしばしば述べている。しかし、千田是也の詳細な研究によるとそうした事実はなかったらしい。あるいは道郎は、芸術的な大望を抱いて単身文明国に向かう気概を、想像に託して語ろうとしたのかもしれない。概して新しい文化を求めて海外に雄飛した第一次世代の人々は、困苦勉励の実体を語るよりも、気宇壮大な物語を語りたがる、そういう気もするが。
  道郎は声楽家になるためにベルリンに到ったのだが、当時、彼の地では盛んに舞踊の公演が行われ話題をあつめていた。

  山田耕筰や斉藤佳三が留学していた当時、ディアギレフ率いるロシア・バレエ団はベルリンでどんな公演を行っていたのか。
  言うまでもなくディアギレフは、パリ公演を最も重要視しており、観客の嗜好性を慎重に吟味し上演演目やダンサーを決めていた。しかし、ロシア・バレエ団はもともと本拠地の劇場をもたないツァー・カンパニーだったから、旗揚げ当初からベルリンやロンドン、モンテカルロ、中欧などで公演をうっている。
  ロシア・バレエ団は、1909年5月のパリ・シャトレ劇場の初公演では、『アルミードの館』『ポロヴェッツ人の踊り』『饗宴』、さらに『レ・シルフィード』『クレオパトラ』を上演した。

  翌10年6月にはベルリンでフォーキン振付、音楽シューマン、美術バクストの『カルナヴァル』を初演している。これはコメディア・デ・ラルテ風の登場人物、アルルカン、コロンビーヌ、ピエロ、パンタロンなどが登場する作品だった。ほかには『シェヘラザード』『火の鳥』を上演した。出演者は、マリインスキーのダンサーでバレエ学校を卒業したばかりのリディア・ロプホワ、イダ・ルビンシュテイン、ニジンスキー、ニジンスカ、ヴェラ・フォーキナ他である。公演はベルリン郊外のヴェステンス劇場で行われた。
山田耕筰は『カルナヴァル』についての評言を残しているので、この公演を観た可能性はある。

  この後、ロシア・バレエ団は待望のパリ・オペラ座の舞台に立ち、『シェヘラザード』『火の鳥』などを初演。
モンテカルロ劇場では『薔薇の精』『ナルシス』、パリに戻ってシャトレ劇場で『ペトルーシュカ』、そしてロンドンではクシェシンスカヤとニジンスキーによる『白鳥の湖』を初演している。

  再びロシア・バレエ団がベルリンに現れたのは、1912年1月。ディアギレフの<黒い手帖>を詳細に調査して書かれたリチャード・バックルの『ディアギレフ』(鈴木晶訳)によると、その頃ディアギレフはドイツの興行師と1年間に53回もベルリンで公演するという契約を結んでいた。
しかしこの時期、ディアギレフはロシア公演の準備を進め、故国で衝撃的な公演を計画し、マタ・ハリとオペラ座の名花カルロッタ・ザンベリの出演交渉に成功していた。ところが、ディアギレフがペテルブルクでの公演を予定していた劇場が焼失してしまい、中止せざるを得なくなったのである。そのために二人がロシア・バレエ団に出演するという<事件>は起らなかった。その代わりに、急遽、ドレスデン、ウィーン、ブタペストの公演が決まった。そして、このブタペスト公演でニジンスキーとハンガリー女性のロモラ・ド・ブルスカが出会ったのである。

  また、このドレスデン公演の際に、ディアギレフはニジンスキーを連れてヘレラウのダルクローズ学院を訪れていいる。
  ロシア・バレエ団のドレスデンの公演は1912年2月だから、道郎は未だ日本を出発していない。

コラム/その他

[ライター]
関口紘一

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