新国立劇場での最後のシーズンを迎えるデヴィッド・ビントレー、ロング・インタビュー
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インタビュー&コラム/インタビュー
- [インタビュー]
- 関口紘一
──『E=mc²』ですが、ダンサーのリハーサルの様子はいかがでしょうか。
デヴィッド・ビントレー(以下D.B.) ノーテイターのパトリシア・ティアニーが前乗りで入ってきていて、かなりうまく教え込んでくれていました。ステップも完全に入っていました。音楽はかなりややこしいのですが、その辺も完全にわかっていたので、あと私はスピリットを吹き込むだけでした。
──小野絢子さんなども事前にテクニック以外のことも勉強しなければ、と言っていました。動きで直接感情を表すような表現とは違うと思うのですが、その点はいかがでしたか。
D.B. 彼女は3つの楽章の2楽章のリーディングの役なのですが、特にその楽章というのは非常にゆっくりなんです。ピアノで演奏すると、ピアノは音を維持できません。本番の舞台はオーケストラになるので、その音が弱いながらもずっと維持されていく。その中から音が聞こえてくるのですが、ピアノというのは打ったらすぐ音が消えてしまうので、その辺のパターンが難しいです。さらに9人のダンサーが3人3組、トリオが3組になり、それがあたかも一つの塊に感じるように完全に合わなければいけないのです。ですから互いによく聞き合い、よく見て、互いを感じるまでに、息遣いも一緒になるくらいに感じ合えるまでもっていかなくてはならない。そこがたいへん難しいですね。
2013年4月「E=mc²」撮影:鹿摩隆司
──『ペンギン・カフェ』はお馴染みのヒット作なので、ダンサーたちも喜んで踊っているのではないですか。
D.B. I don't know !(笑)。
バレエスタッフはよく仕上げてくれたと思っています。彼らはとても謙遜していましたが、単に正確なポジションなどを思い出し、リハーサルをしただけでなく、初演から2年半程経っていましたが、この作品の持つスタイルもしっかりと憶えてくれていたので、とても良い仕事をしてくれたと思いました。だから今日はリハーサルを見ていて「いい日だな」と思いました。
──被り物で踊ることは、たまにであれば楽しいのかもしれませんね。
D.B. いろいろと制限されてしまいますので、そういう意味では難しいです。マスクが、あたかも話しているかのような──頭にただマスクを乗せているのじゃなくて──頭の動かし方、被り物が話している、話しかけてくるように動きで示唆します。だから動きとしては、頭の動かし方がとても難しいと思います。
──アーサー・ピタ振付のカフカの『変身』がリンバリー・スタジオで上演されました。
D.B. ええ、見ました。かなりいい作品だと思いました。ただ私が振付けた『変身』とはまったく違っています。
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私が振付けたのは、1985年くらいでしょうか、かなり以前で、視点が違っています。新しい作品は、視点が主人公。つまり、虫に変わってしまう人間、ザムザに光りを当てているのに対し、私の場合は彼の家族に焦点を合わせています。彼が養っていた家族たち、崩壊していた家族が一つになっていくのか、あるいはさらに崩壊するのかそれがどちらにどう作用するのかという風に、家族などの外側の問題に焦点を当てました。そういうところが随分と違います。
2011年5月「アラジン」撮影:瀬戸秀美
──2010年から新国立劇場の舞踊芸術監督を務められてご苦労様でした。
その以前、こういう話がまったくなかった頃には、日本のバレエにどういう印象をお持ちでしたか。
D.B. たいへん難しい質問ですので簡単にはお答えできませんが、初めて日本のバレエ団と関わったのは2005年の『カルミナ・ブラーナ』でした。でもその前から、イギリスに居た日本人のダンサーはたくさん知っていました。吉田都さんは、同時期にサドラーズウェルズ・ロイヤル・バレエ団((現バーミンガム・ロイヤル・バレエ団)のダンサーでしたから。しかし日本のバレエ環境というものに対しては、まったく知識がなかったというのが本当のところです。
そして、最初に日本で上演したのが『カルミナ・ブラーナ』だったわけです。それがクラシック・バレエではなかったので、その時点で正しい認識がもてたかというと、そうではなかったと思います。
もう少し日本のバレエの状況に認識を持つことができたのは、2008年に初演した『アラジン』以降だと思います。他のバレエ・カンパニーやさまざまなダンサーたちを見ることができましたし、外見的にどういうバレエのタイプなのか、そしてどういう風に運営されているのか、とくに、演目の選び方など運営そのものが日本のバレエに大きな影響を与えていることといった、日本のバレエの背景的なものをよく知るようになったのはその後になってからのことです。
つまり、日本には民間のバレエ団がいくつもあり、それを支える規模の小さいバレエ教室がたくさんある。けれども、公演回数はとても少ないというのが、他国と比べると異なった日本のバレエの現状だと思いました。
それともう一つは、環境的なものは、経済だけでなく、芸術形態としてのバレエへの見方。つまり、外国、外から来た芸術という見方というところも、イギリスやその他の国とは大きく違うところですね。非常に難しいことですので、とても一言では言えないです。
──なるほど、いつかじっくりとお話をうかがいたい気持ちです。
私たちからすると、形に現れて一番嬉しかったのは、それまで外国人のゲスト・ダンサーをファースト・キャストにしていたのを、日本人のダンサーに変えて、しかもそれを成功させてくださったことです。それによって日本人のダンサーの考え方もいい方向へ変わったのではないかと思います。
D.B. 実は、今回日本に帰ってきて『シンフォニー・イン・C』を見た時、ほんとうに素晴らしかった。あの作品はスケールの大きい、多くのダンサーで踊る作品ですが、みんな本当にきれいで、美しいだけじゃなくて、上手くて素晴らしいダンサーの顔をしていました。私はすごく誇りに思いました。米沢唯、長田佳世、小野絢子、福岡雄大、菅野英男たち、みんな本当にいい顔でいい踊っていて、本当に私が誇れるダンサーたちです。まさに「帰ってきてよかった!」と思った瞬間です。
──日本はペリー来航の昔から外圧によって蒙を開かれてきた、ともいわれていますが、日本のバレエは、ビントレーさんでなくてはできなかった影響を受けたのかもしれません。
D.B. 外国からもたらされたものについての意見については、私もすごく似たように感じました。何故かというと、日本にはバレエというのは外国人がつくった、外国人による外国人のためのものだから外国人でないとダメというような考えがあるんですね。でも不思議に思うのは、それはアジアの国々すべてではないんです。中国や韓国ではそんな意識はありません。彼らは、二流だなんて思っていません。日本も、同じように二流だと思うべきではないと思います。「決してそうじゃない」と本当に声を大きくして言いたいです。
──外国人のゲスト・ダンサーを呼ぶにしても、ただ一般的な名声ではなく最近の活動をよくみて、的確な招聘をしていることにはとても感心しています。
D.B. そうですね。私は、上演する作品の元となるところがきちっと合う人、適材適所といいますか、そういう人を呼ぶようにしています。何でもいいからロシアの有名ダンサーを呼んできてバランシンやマクミランを踊ってもらえばいいというものではありません。もしバランシンやマクミランをやるのであれば、ニューヨーク・シティ・バレエ団や英国ロイヤル・バレエ団の方がもっと確かに踊れる人はいるわけですからね。
ですが、ゲスト・アーティストというのはだいたい芸術監督の頭痛の種です。他の芸術監督がみんな必ずしも協力的であるとは限らないわけですから、適材適所の人を招くというのは、決して容易なことではありません。
──残念ながら、新国立劇場にだけ専任することはできませんでした。いつもカンパニーと帯同していられなかった、というところでもどかしさがあったのではないですか。
D.B. タイミング的には、半々でしたけれども、うまくバランスはとれたと思います。
なぜならバーミンガム・ロイヤル・バレエ団でも、経済的なこともあって、12か月フルに創作的なことをできるわけではなかったからです。1年の中で創作に重きを置かない時期というものもどうしてもあるわけです。個人的には、逆にそういった期間に日本にくることによって自分を創造的にキープすることが出来ました。『パゴダの王子』もそういう中でできたわけですから、個人的にはそれはいい感じだったと思います。
レパートリーをどんどん提供して、もしフルタイムでここに長くいられたらもっと良い作品が創れたといえば、それは疑問符が付きますね。新国立劇場バレエ団にしても、公演数も使えるキャスト数も決まっています。いろんな意味での制約の中で、一年間ここにいたら私は逆にフラストレーションがたまったでしょう。「あれもやりたい」「これもやりたい」と思いながら、しかしできない。スタジオにいるだけの時間が流れていってします。
日本の現状、どういうふうに物事が運営されるのか。あらゆる状況を把握するにはやはりそれなりの時間がかかりました。
2011年10月「パゴダの王子」撮影:瀬戸秀美
そして当初は、新国立劇場バレエ団を良くしようと、少し動かしていきたいといろいろなアイディアがありましたが、状況を理解するためにもある程度時間がかかりました。
私はここでそれを批判しているのではありませんが、実際、より豊かにより多様でチャレンジできるレパートリーを上演していくためには、公演数が少ないのが現状です。私自身は個人的にはどんどん新しいものもやっていきたいけれども、日本ではどうしても、現状として動かしがたいことなのです。そういった中で堂々巡りになってしまうなら、私が居た期間というのは、やはりこのくらいでいいのだと思います。本音で言えば、クラシックではなく、どんどん新しいものを振付けていきたい。招きたい人もいっぱいいる。しかし簡単に実現できないこともよくわかっています。変えられないこともわかっています。けれども、変えられるものについては、それを見極めた上で変えられたのではないかと思います。
私はその中で、やり遂げたことで自慢に思っていることがあります。
一つは、ダンサーたちの振付のグループ(コレオグラフィック・グループ)を形成することができたこと。
もうひとつは小さいながらもツアー公演を実現できたこと。
最後に、「DANCE to the Future」というバレエ団の団員が、コンテンポラリー・ダンスの振付家の作品に挑む公演で、良い機会を与えられたのではないかと思います。
──ビントレーさん、もし今、中国でバレエ団の監督になってくれと言われたらどうしますか。
D.B. I like Japan !(笑)。
──『パゴダの王子』ですが、震災の影響を受けたこともあるのではないですか。
D.B. 私自身、地震は非常に大きな衝撃的な体験でした。
地震が起きたとき、私は安全な場所にいて、東北などで本当に起きたことを知りませんでした。何が起きていたかは後から少しずつわかってきたわけです。その場では大きな揺れで、一瞬、怖い思いはしたけれども危険な目にはさらされていませんでした。私はそれから一週間くらい日本にとどまったわけです。それは公演をキャンセルしたりとか、ダンサーたちのリハーサルをどうするかとか、今後どうしたらいいかとかいう、事後処理を全部済ませてからイギリスへ発つことになりました。
そうした中で原発をはじめとしたいろいろなことがわかってきました。そして、この震災が過去になるのには、あと数十年の年月が必要だということも明らかになってきました。
その中で、一人の人間としてまた私自身がつくりだしていく芸術に対する影響を考えるときに、『パゴダの王子』は、元々、私が培ってきて出来上がっていたものもあったけれど、そこにこの巨大災害というものが、新たな性格、光りを当ててくれたというところがあると思います。
そして私は、家族をすごく強く意識しました。つまり兄妹です。その兄妹と、国を代表する存在であるエンペラーが、絆によってひとつになっていく。これはバレエの中で──「ポスト・アースクエイク」──震災後の日本の姿を映し出すことになったのだと思います。日本人自身が求めたアイデンティティというものが、本当の危機に国民全員が直面したことを通して、もう一度、悪い意味で内向きになるのでなく、良い意味で自身を見つめ直してひとつの絆を見つめ直そうという形になっていったことが、『パゴダの王子』というバレエにある強さを与えたのだと思います。
2012年10月「シルヴィア」撮影:鹿摩隆司
──『パゴダの王子』は、日本にとっても歴史的な作品となったと思います。
その後の上演された『シルヴィア』は、ビントレーさんらしい作品で、とてもおもしろかったです。もしかするとビントレーさんは、震災の渦中で『パゴダの王子』を創ったことにより、"日本" という呪縛から解放されて、自由に作品を創ることができたのではないか、と思ったくらいです。
D.B. さあ、それは・・・よくわからないです(笑)。
『シルヴィア』は私の大好きな作品なんです。90年代初めに一度振付けたのですが、そのときはもうひとつうまくいっていないような感じがしていて、もう一度やり直したいと思っていました。2009年に上演したとき、「これは日本に向いているんじゃないか」と思ったのです。日本の観客こそがこの作品の真実を理解してくれるのじゃないか、と。ダンサーが上手くできたというだけではなく、私がこの作品を上演して本当に満足したのは、観客のみなさんが、どこよりもこの作品を理解してくれたことです。現代的なものとクラシック・バレエが融合したところを、すごく日本人の観客が理解してくれました。
──吉本泰久さんのエロス、福岡雄大さんのアミンタはすばらしかった。特にバレエの演技に感心しましたし、ダンサーたちが活き活きしていました。
D.B. 今、おっしゃったバレエの演技の部分というのは、『アラジン』以降、新国立劇場のダンサーたちが本当に上達したところだと思います。それまでは、所謂お約束に縛られた演技だったんです。バレエではこの動きはこの演技を意味する、この動きだとこの感情になる、という約束に縛られているのですが、そうではなくて、動きを通して内側から出る感情と動きが一体化するようなバレエ・アクティングができるようになりました。振付がうまく表現されるためには、この動きをどうして動いたのか、このステップはどいう意味なのかを考えてほしいということをダンサーたちに言ってきました。そういった意味でバレエ・アクティングはすごく上手くなったと思います。
──『シルヴィア』では、ダンサーたちが、手応えをつかんで、可能性を感じさせました。すばらしいことだと思ったのですが、その後、ビントレーさんが交代されると聞き、驚き、とても残念でした。
D.B. 観客に話しかけるということが、ダンサーには必要なんじゃないかと思います。実際に、エロスの役もそうなんですが、舞台に出てきて、お客様一人一人に直接、話しかけるように演技する。ダンサーの場合は前にもう一つ壁があって、その向こうで演技、物語が進行しているようなところがあったと思います。
『パゴダの王子』もそうなです。幕が閉まっているところで表に出てきて観客に話しかけたりします。アシュトンもそうです。『シンデレラ』で、道化が直接、話しかけて観客を巻き込んでいくような演出をします。
最後に観客に向かって「ね? こうでしょ?」みたいに目配せするところがありますね。そういうのは日本のダンサーは、なかなか難しかったんです。カーテンコールでお辞儀をするところでも、観客を見ないでお辞儀をしているようなダンサーはよくいたわけです。それをいつも、戻ってきたとき、「じかにお客さんを見つめてお辞儀をしないと」とよく言っていました。
吉本泰久くんにしても、私が具体的に何をしろとか言ったわけじゃなかったんです。『パゴダの王子』で自分で袋から小道具を出したりとか、あの辺は彼が自分で工夫してやった動いたんです。
──ダンサーはそうやって育っていくんですね。
D.B. ダンサー自身に考えさせなくては。
──逆に、日本でディレクターをしたことによって、ビントレーさんが影響されたことは何かありましたか。
D.B. 実は最近、バーミンガム・ロイヤル・バレエ団で『アラジン』を上演したんです。『アラジン』を振付けたときには、日本のダンサーたちは当初、今のようには演技できなかったんです。一つ一つ、全部の動きを引き出すためにすごく時間がかかるような状況でした。バーミンガム・ロイヤル・バレエ団では、ダンサーの方からステップを提案することも多いのですが、ここでは、動きを細かく時間をかけて、振付のほとんど全てのステップを与えていきました。だから、慣れているクラシカルな動きを、すごく意識しながら順応できるように全体を創った作品なんです。
だからこれを今度はバーミンガム・ロイヤル・バレエ団に持っていったら、ダンサーたちはまた日本とは全然違いますから、どうなるのかとすごく心配していました。ところがたいへんに気に入ったそうです。とても良かったと言うのです。すごくウケがよかったです。6週間で37回とか、わからなくなるほど上演しました。日本では6年間で12回しかやっていないのに対し、6週間通して上演したのですが、怪我人が少なかった。ふつうは37公演もやると飽きてくるのです。それで、飽きてくると怪我をします。慣れと飽きは怪我をもたらすのです。ところが、怪我をしたのはたった二人だけ。みんな飽きずにどんどん踊りました。日本で培ったやり方──『パゴダの王子』もそうだったんですが──つまり、私の新たな視点が生み出してくれた方法が、逆に持って帰ったときにとても新鮮だったわけで、これは影響を受けたためだと思います。
──なるほど。バレエは奥が深いですね(笑)。
D.B. 今度『パゴダの王子』を向こうに持っていったとき、日本人だったら歴史的な背景とか、芸術的な観点とかで自然にわかるようなことに対し、イギリス人はどういう反応をするのか非常に興味深いところがあります。
──ちょっとヨーロッパの文化に対しては異端なところがありますから。
D.B. どうなるかお楽しみ、というところですね。バーミンガム・ロイヤル・バレエ団からしかるべき人が来日して観て、気に入って上演したいと言って帰って行きました。本当に日本人のことを深く理解したかはわかりませんけども。
──また、日本人のダンサーをバーミンガムに呼んでもらえるのでしょうか。
D.B. I will.
──日本のバレエがこれから最も気を付け励んで行かなければならないところは、どういったことだと思われますか。
D.B. 日本のバレエの課題は、バレエの知識の上でのギャップだと思います。これは観客にも言えますが、実はダンサー自身にも言えることなんです。つまり、古典の一部のものにだけ知識が偏ってしまっているという現状ですね。
私の新しい、所謂新作の振付というのは、仮に私がクラシック・バレエだけしかやってこなかったらできなかったものです。あらゆるものを見てあらゆるものに対して知識を持つということは、決して古典を否定するものではありません。古典も必要だけれどもそれだけに特化していたら、本当の振付や未来のバレエへの貢献はできません。
ダンサーは与えられた以上の知識を求めなくてはなりません。私自身を振り返ってみると、本当に恵まれていたと思うのは、ディアギレフの時代、そしてポスト・ディアギレフの時代に接することができたということです。
私の周りにはアシュトンやクランコ、ド・ヴァロワがいて、アメリカの方にはチューダー、バランシンから、ロビンズがいました。綺羅星のような振付家たちの作品を次々と見てきました。そういった振付家たちは、『白鳥の湖』などの19世紀の作品のみならず、その時代に生まれてきた音楽にも積極的に振付けていました。私はそのあり様を目の当たりにできました。それがあったからこそ、『カルミナ・ブラーナ』も『ペンギン・カフェ』も可能だったのです。
これは、ダンサー自身にも同じことが言えると思います。つまり、『ドン・キホーテ』しか知らなかったら『パゴダの王子』は踊れないと思います。今のバレエ団のダンサーたちは『火の鳥』も『シンフォニー・イン・C』も『カルミナ・ブラーナ』も踊ります。だからそういった意味では『シルヴィア』だって創ることができたのです。
私はいつも言うのですが、バレエ・アクティングでワインを飲むときに、古典のダンサーがいつもやる決まりきった動きがありますね。お約束の。あれが染みついてしまったり、あれしか知らない人であっては、バレエを発展させることは難しいのではないでしょうか。
──ありがとうございました。
最後にビントレーさんが、震災に際して、率先して日本のためにさまざまな活動をして応援してくださったことに感謝したいと思います。
D.B. ありがとうございます。
私は、あの震災時に、日本に居てよかったというと語弊があって誤解されたくないのですが、この震災という大きな災害は、このバレエ団の歴史の中で大きな、欠くことのできない事象だったと思います。その中に、私が傍観者として外にいてそれを見たのではなく、そこに居たということ、居させていただいた。その時を一緒に分かち合った、そのことに対してとても良かったと思っています。私自身がその経験によってとても大きなものを得ることができました。
──そしてビントレーさんの新国立劇場の芸術監督としての最後のシーズンが始まります。「バレエ・リュス、ストラヴィンスキー・イブニング」やビントレーさんが始められた「DANCE to the Future」、ジェシカ・ラングの新作、日本初演の『ファスター』、初の試み「ダンス・アーカイヴ in JAPAN」そしてさよなら公演となる『パゴダの王子』の再演。ビントレー色の良く出た素敵なプログラムだと思います。おおいに期待しております。
最後にもうひとつ、未だ私たちが観ることができていないビントレー作品が多くあります。せっかく、日本のカンパニーを指導してくださる縁に恵まれたわけですから,今後もチャンスがあればぜひとも、上演していただきたいと思います。
D.B. Yes I do.
──本日は、リハーサルでお疲れのところを長時間にわたってお話しいただき、ほんとにありがとうございました。
(このインタビューは4月24日新国立劇場で行われました)