新作『ZAZA〜祈りと欲望の間に』公演直前インタビュー 金森穣

インタビュー&コラム/インタビュー

[インタビュー]
関口 紘一

----新国立劇場で上演した『solo for 2』のリハーサルはいかがでしたか。

金森 (井関)佐和子と(中川)賢が振付補佐として先に東京入りし、振り移しをしてくれていたので、私は本番2週間前に東京に来て、最後のブラシュッアップから公演までの期間を、新国立劇場のダンサーたちと過ごしました。

----新国立劇場のダンサーたちはコンテンポラリー・ダンスを踊る機会はあまり多くないと思うのですが。

金森
 『solo for 2』はアカデミックな手法を使っているので、彼らにとっては取り組み易い方だったと思います。しかし予想していたよりも彼らの技術が高かったこと、そして精神的にも高いレベルでこの作品と向き合ってくれたことは、私にとって嬉しい発見でした。クラシック・バレエを年間通して踊っている彼らにとって、時折来るコンテンポラリー・ダンスを踊るチャンスは、単なるイベントにしか過ぎないのではないか、そしてその意欲はどれほどのものかと心配していたからです。しかし彼らは少しでも高いレベルで踊りたいという姿勢、少しでも新しい感覚を学びたいという情熱をもっていました。

金森穣 撮影:篠山紀信

撮影:篠山紀信

私は10年以上前にも二回ほど新国立劇場バレエ団に振付にきていますが、その当時は、クラシック・バレエしか踊ったことが無いダンサーが多かった気がします。しかし今はバレエダンサーたちも様々な作品を踊り、目にする機会も増えていますから、新しいことに対して意識が開かれています。ただし、取り組んでみることはできても、本質的なところに辿り着くためには、それなりの時間とエネルギーが必要です。

今回の『solo for 2』についていえば、一ヶ月やったとは言え10年の内の一ヶ月と考えたらやはり限度があります。新国立劇場バレエ団として、現代的なものと古典を両輪で、しかも高い質でやっていくことを求めるのであれば、もう少し定期的にやるべきです。振付家を変えたりするのではなく、ある期間ある人のメソッドをコンスタントに修得することによって養われるものを積み重ねていくべきです。すぐ振付家が変わってしまうというのでは、どうしてもイベント的になってしまいます。

----そうですね、Noismは、始終一貫してダンサーにメソッドを叩き込んでいます。

金森 芸術監督がシーズンの半分しか劇場にいない、今の新国立劇場バレエ団の体制はあり得ないと思います。今回も私はビントレー氏から依頼を受けて作品を提供していますが、彼は日本にいないので、舞踊家たちが経験していること、そしてその成果を自らの目で見ていない。これでは芸術監督はプロデューサーみたいなもので、民間のプロジェクト公演みたいな感じになってしまいます。舞踊家たちの技術もプロフェッショナルな意識も、そして何より新しいものに対する感受性も上がって来ているので、劇場の製作体制を充実させれば、新国立劇場バレエ団は世界に発信出来るバレエ団になる。そうでなければならない、我が国の国立バレエ団なんですから。

----やはり、兼任するということで無理が生じる・・・。

金森
 次のシーズンからは、大原永子氏に代わるということですので期待したいです。大原さんの芸術的指針の下に、現代的なものと古典的なものを、両方やることの意義とか、求めるクオリティとかが明確になっていくことを期待しています。その上でコンテンポラリーはやらないならそれも有りだと思います。しかしやるのであれば高い質を求めて欲しいです。

----新国立劇場バレエ団のダンサーは、クラシック・バレエの身体になっていると思いますが、どのように振付を始めたのですか。

金森 今回は新作ではなく振付が既にありましたから、彼らが実際に踊ることになる動きを通して、彼らがいつもやっていることと何が違うのか、身体の使い方がどう違うのかということを、具体的に伝えていきました。クラシック・バレエでは、ベースになるステップ、共有メソッドがはっきりしています。ですから彼らにも、具体的なメソッドとして説明した方が理解し易いだろうと考えました。コンテンポラリー・ダンス界では、明確な技術体系があまりない振付家が多いですね。ですからすごく観念的というか、どういうイメージでという話になりやすいのです。しかしその点、Noismでは作品ごとに課題となる技術体系があり、私のメソッドもあるので、クラシック・バレエのダンサーにも入っていきやすいかもしれません。

Noism1『solo for 2』演出振付:金森穣(2012年) 撮影:篠山紀信

Noism1『solo for 2』演出振付:金森穣(2012年) 撮影:篠山紀信

Noism1『solo for 2』演出振付:金森穣(2012年) 撮影:篠山紀信

----新作『ZAZA』ですが、3部作ということですが。

金森
 3部作というのは2009年の『ZONE~陽炎 稲妻 水の月』以来です。つい最近気が付いたんですが、私は4年に一度3部作を創っているんです。2005年の『black ice』、そして今回の『ZAZA』なんですが、自分が出演しない3部作は初めてですね。

----今回の作品ははっきりと3部に分かれているのですか。

金森 過去2回同様に独立した3つの作品となっています。1作目「A・N・D・A・N・T・E」は時の間。2作目「囚われの女王」は性の間。そして3作目「ZAZA」は欲の間と3作品全てで<間~はざま>がキーワードとなっています。

----第1部はバッハ、第2部はシベリウスとのことですが、第3部『ZAZA』の音楽はなんですか。

金森 第3部『ZAZA』では、「THE THE」という80年代有名になったイギリスのロック・バンドの曲を使っているのですが、「ザ ザ」というタイトルが先にあって、The Time of the Time、The Shadow of the Shadowというテーマに発展し、「The The」という言葉を調べていたら、偶然そのロック・バンドに出会ったんです。そして彼らについて調べたところ、最近はバンドとして曲を出していなくて、『MOONBUG』と『TONY』というドキュメンタリー映画のサウンド・トラックを制作している。
それでその映画を調べると『MOONBUG』はあるカメラマンが宇宙飛行士を追いかけたドキュメンタリー。もう一つの『TONY』は、社会に適応できなくて殺人を繰り返す男の話。月に行きたいといって何兆円も税金を投入する欲望。あるいは社会に適応できないために殺人を犯す人間の欲望は、果たして善悪で語れるものなのか。このようなアイロニカルな欲望に塗れた人間に対する、ある種の哀愁のようなものを彼らの音楽から感じたんですね。

----ドストエフスキー的ですね。

金森 あるいはそうかもしれません。ちょうど,自分が出会うべくして出会った映画と思えましたので、その音楽でいくことに決めました。自分の場合、曲選びとか、コンセプトを確定する時には、ある種の共時性というか、大袈裟に言えば運命みたいなものを大切にするんですね。そういう出会いがある時は、良い作品ができますし、例え評価は高くなくても自分にとって貴重な作品になります。

今回は、音楽的にも新しい試みをしています。第1部の『A・N・D・A・N・T・E』では、正味5分のバッハの曲(ヴァイオリン協奏曲第1番 第2楽章 Andante)を使いますが,それをコンピューターで20分くらいの長さにします。時間を引き延ばすのです。いろんな作曲家の様々な楽曲で試してみたのですが、やはりバッハの曲が良かった。バッハの場合はまず、シンプルな数学的配列があって、教会音楽家だったということもあり、その構造の中にある種の宗教性や、時間に対する精神的距離感というか、そういったものが凄く感じられます。

時間を引き延ばすことを考えていた時に一番感じていたのは、現代社会における速度ということです。日常生活の速度。今はもう何でもかんでも速い、ということが良しとされています。強迫観念的な未来志向であるが故に体感できなくなっている時間の流れ。本来であればもっと体感できていたはずの時間の流れみたいなものが、失われている気がする。アンダンテというのは音楽用語では「歩くような速さ」ということですが、現代では、特に東京なんかだとその速度すら早いですね。そういった現代社会に対して、引き延ばされた時間を表現する、そういう非日常性を考えて創りました。

----楽曲を構造的にいじるのですか。

金森
 単純に引き延ばしたり、縮めたりするだけですが、バッハの楽曲を壊してしまいます。音楽家には怒られそうなことですが,今、コンサートでも行かない限り、生で音楽を聴く機会はほとんどないわけです。我々は音楽、音楽、といってますけど、これは全部PAされてデジタル化されているものを聴いている。だから実際,時間軸はどうにでもできるわけですよね。

バッハの「Andante」を20分に引き延ばす、あるいは1秒に縮めることもできます。そうすると銃声のような「バン」という音になります。身体的な時間を賭けて生きていた生き物の命を、今日では機械によって瞬時に奪えるようになりました。時間を短縮すること自体が暴力的行為であるのではないか。5分の曲が1秒になると銃声に聞こえるということが、その事実を示唆しているかのようです。しかしバッハの崇高性は引き延ばしても消えません。むしろ増しているようにすら感じます。

----延ばすことで却って崇高のものが出てくるというのは、非常におもしろいことですね。

金森 普段の時間軸ではこぼれ落ちているものが見えてくるわけです。その時間の引き延ばし方でいうと、例えば、日本の能であったり、長唄であったり、伝統的なものには、特別な時間の尺度がありますね。長唄は歌詞を読まないと、何を歌っているのか解らないほど1語1語の間が延びていますし、能も意識が遠のくくらいゆっくりと演じます。だから序破急の急に来た時に、実際はそんなに早くないのにシテの動きが驚く程早く感じる。こういった日本の伝統芸能における時間の尺度、芸術性というものが、現代では失われていっているわけです。その辺りのことに向き合いたい、と思っています。

----「ZAZA」という言葉には何か意味があるのですか。

金森 全く意味はありません。純粋なる音ですね。しかし擬音語のようにある種のイメージを喚起してくる。私は「ザ ザ」という濁りのある2つの音の響きに、ある種の暴力性、崩壊した、あるいは未だ解読されていない意味、そしてどこか未来から現代を観ている様なノスタルジーを感じます。

----3部構成にする要素は、時間と欲望と・・・

金森 性です。性の問題に関しては、社会でのとらえられ方もずいぶん変わってきましたよね。テレビを見ても、一昔前ならあり得ないわけでしょう。人間の様々な感受性が受容されるようになりました。そのことを良いとか悪いとか言いたいわけではありません。逆にそういう男だとか女だとかが関係ないところで、表現者として佐和子について考えた時に、ある種の両性具有というか、日常性を越えたエロスというものを内包している。彼女が性別を越えてある神聖なる領域に対して解放されることが、振付家である私の究極の欲望なのかもしれません。

シベリウスの曲も「囚われの女王」というフィンランドの詩に基づいて書かれた曲なんです。城に囚われた女王を解放する物語で、そこにはロシア統制下にあった祖国解放、民族解放という革命的要素が含まれています。そうしたことを踏まえて、性別を越えて解放されるもの、自らを革命する舞踊として佐和子に振付けました。

じつは、今回、最初は全然別の作品を構想して台本も書いていました。音楽も決めていろいろと揃えて、振付を始めようか、となった時にちょっと待てよ、と。これを今、この社会の中に問う必要があるのだろうか、と思ったんですね。これが私にとって最後の作品となった場合、発表したいのはこの作品ではないんじゃないかと思ったんです。もっと今、この現代社会に生きているからこそ感じることを、今までやって来なかった新しい手法で表現したい、と思い至ったわけです。

----見世物小屋シリーズとはまったく違う作品ですね。

金森 違います。一晩物ではなく3つの独立した作品からなる3部構成ですし、大きな違いは、劇場で上演するということですね。「見世物小屋シリーズ」はスタジオ、あるいは小劇場で上演するための作品でしたが、劇場作品となると空間構成も、表現の届け方もまったく変わる訳です。

見世物小屋シリーズ第3弾Noism1『Nameless Voice~水の庭、砂の家』 演出振付:金森穣(2012年) 撮影:篠山紀信

見世物小屋シリーズ第3弾Noism1『Nameless Voice~水の庭、砂の家』 演出振付:金森穣(2012年) 撮影:篠山紀信

見世物小屋シリーズ第3弾Noism1『Nameless Voice〜水の庭、砂の家』
演出振付:金森穣(2012年) 撮影:篠山紀信

----第1部は延ばす身体・・・

金森 伸縮する時間を身体で表現するということですね。延ばすだけでなくて、速いところは凄く速い。人が変化を認識するためには相対性が必要ですから、極めて遅速に、と同時に極めて高速であることが必要な訳ですし、私は古典的時間をそのまま継承したい訳ではなく、現代における時間と拮抗させることで、新たな表現を生み出したいということですね。

----第2部は両性具有自体を追求する身体・・・

金森
 そうですね、しかし両性具有といった時に、それをある演技法として模索するだけではなく、佐和子自身が自らの限界に挑む、そして今までの自分から解放された時に、両性具有あるいは非日常的身体に辿り着けるであろうということです。この作品はほんとうに、現在の佐和子でなければ踊れない作品です。2013年の佐和子の演技力と身体性と、その技術すべてを総動員する。作品がすごくシンプルだからこそ難しいですし,体力的にもハードです。彼女が自身の限界に挑む姿、その勇姿を通して、観客の皆さんの中でも何かが解放されることを願います。

----なんだか、ベジャールがドンを使って作品を創るようです。

金森 あるいはそうかもしれません。

----ドンが「その時」でしか踊ることができない作品を創っているようです。世阿弥のいう「時分の花」ですね。第2部は独立して踊れる作品ですか。

金森 そうですね、世界バレエフェスティバルに呼んでもらいたいですね(笑)

----やっぱり舞踊家自身の問題と振付家の構想とにはタイミングがあるわけですね。


金森 私は演出振付家として現代社会を生きながら様々なことを考え、創作しているわけですけれど、何よりもまず私の前には舞踊家たちがいるわけです。そして私の問題意識、あるいは問いかけは舞踊家たちを通して語られるものなんです。ですから彼らが今どのような環境で、何と向き合い、どこまでの質に達しているか。そして何が課題となっているかということは、私自身の問題でもある訳ですね。ですから今の佐和子なら何をどのように表現するのか、あるいは佐和子なら私の作品をどこまで連れて行ってくれるのか、彼女自身が私の創作テーマとなるわけです。

----そうすると今回限りの井関佐和子が生まれるかも知れないと。

金森 そうかもしれません。

----それは絶対に見逃すことはできませんね。

金森 舞踊作品は舞台上で踊られ消えてなくなるものです。その時代限りのものだし、それを見たか見なかったということに尽きるのです。舞台芸術は、作家が死んだ後も見られるような美術作品とは違います。音楽のようにデジタル化して聴くことができるというものでもないし、演奏者がいれば再現できるというものでもない。だからこそその時代、その日、自ら身体で体験しなければいけなし、そこにこそ価値があるのです。

----本日は公演前のお忙しい時に、たいへん意義あるお話をありがとうございました。

リハーサル 撮影:遠藤龍

リハーサル 撮影:遠藤龍

リハーサル 撮影:遠藤龍

ページの先頭へ戻る