「スタントン振付『蝶々夫人』は音楽も振付も素晴らしく、踊るたびに新しい人物像が私の中から現れてきます」加治屋百合子(ヒューストン・バレエ:プリンシパル)=インタビュー

ヒューストン・バレエのプリンシパルとして活躍する加治屋百合子が、休暇で一時帰国した。加治屋といえば、アメリカン・バレエ・シアター(ABT)のソリストとしての活躍が思い出されるが、2014年にヒューストン・バレエにファーストソリストとして移籍し、移籍直後の11月にプリンシパルに昇格した。日本ではあまり知られていないヒューストン・バレエだが、ABT、ニューヨーク・シティ・バレエ、サンフランシスコ・バレエに次ぐ、アメリカで4番目に規模の大きなカンパニーで、半世紀近い歴史がある。ABT時代の仲間で、一緒にヒューストン・バレエに移籍したジャレッド・マシューズは、彼女の実人生のパートナーである。移籍の経緯やヒューストンに移ってから感じていること聞いた。

スタントン振付『蝶々夫人』は音楽も振付も素晴らしく、踊るたびに新しい人物像が私の中から現れてきます 加治屋百合子(ヒューストン・バレエ:プリンシパル)=インタビュー

――移籍のきっかけになったのは、どのようなことでしたか。

ABTではソリストの役のほか主役も踊らせていただき、役には恵まれていました。ですが、当時は先輩のプリンシパルの方がまだ沢山見えましたので、私はコーチのイリーナ・コルパコワにこの先のバレエ人生について相談していました。百合子にはもっと主役を踊るべきだが今のバレエ団の現状では難しい...ダンサーはチャレンジする事で成長する。ABTから離れる事は一大決心でしたが、その言葉は、私がダンサーとして飛躍する為のきっかけとなり13年間在籍しABTの落ち着いた環境から離れて、新しいものを吸収するためのきっかけとなり、今までとは違う自分を見つける決断をしました。

――なぜヒューストン・バレエに決めたのですか。

いくつかのバレエ団にコンタクトを取ってみて、一番自分に合いそうだと思えたのがヒューストン・バレエでした。芸術監督はスタントン・ウェルチ。実は、私がABTに入団した時の最初のリハーサルが彼の新作でした。バレエ団に入団した初日のリハーサルから、今はヒューストンバレエ団の監督。それも縁かな、と感じています。また、スタントンの振付がすごく自分に合っているとも感じました。レパートリーがすごく幅広く、ABTとは違ったものものが沢山あり、そういう新しい役を踊って見たいと思いました。

――入団して、どのように感じましたか。

ABTより少し小さい規模のバレエ団ですが、ダンサー同士がすごく助け合っていました。新しい役を踊るダンサーや何かチャンスを与えられたダンサーは、まわりがサポートします。ヒューストン・バレエ学校からそのまま上がってくるダンサーが多いので、ヒューストン・バレエを知り尽くしています。ダンサー同士の仲がいいのは、小さい時から一緒に育ってきたということもあるでしょう。また、とても歴史のあるバレエ団で、マーゴ・フォンテインが来たこともあるし、ケネス・マクミランも(アーティスティック・スタッフとして)働いていました。アメリカのバレエ団で、マクミラン作品を一番多くレパートリーに持っているのは、ヒューストン・バレエではないでしょうか。設備も劇場からスタジオにおいてアメリカではトップクラスに充実しており、ダンサーは本当に恵まれた環境の中でバレエに集中する事が出来ています。

――ヒューストンで踊った作品で、最も強く印象に残っているのは何ですか。

昨シーズンに踊ったスタントン振付の『蝶々夫人』(1995年初演)です。プッチーニのオペラを、歌唱なしの音楽でバレエ化したものです。これは後から聞いた話ですが、ABTで私が最初にスタントンの作品を踊った時、私はまだスタジオ・カンパニーにいましたが、スタントンは当時オーストラリア・バレエ団で振付家として活躍していたので、私にABTではなく、オーストラリア・バレエ団に入って『蝶々夫人』を踊って欲しかったそうです。だから、ヒューストンで彼の代表作の『蝶々夫人』がシーズンの演目に入った時、ぜひ踊りたいと思いました。音楽が素晴らしく、スタントンの振付は蝶々夫人そのものを表しています。最初は振りをこなすので精一杯。リハーサルを重ねるうちに、それぞれの仕草が意味するものが分かってきて、公演するたびにリハーサルの時にはなかった蝶々夫人が自分の中から出てきました。明るいストーリーではないし、(日本独特の考え方や行動様式など)向こうの方には理解できないものもあリます。私自身、その時代に生きていたわけではないですし。でも、3年間もアメリカに渡った夫を待つ心や、子どもに対する親の気持ちというのは、昔も今も変わらないと思います。それにしても、蝶々夫人を演じるのは肉体的にも精神的にも大変で、公演の後で現実に戻るのも大変でした。

―ほかの作品はいかがですか。

以前は、ABTで踊った『ドン・キホーテ』のキトリや『コッペリア』のスワニルダのような、元気のいい明るい役を踊るイメージを持たれていましたが、ヒューストンに移ってからは正反対の役が多く自分のレパートリーの幅が広がっていると思います。『蝶々夫人』とかマクミランの『マノン』。スタントンの作品でも、すごくロマンティックなパ・ド・ドゥや、スローなパ・ド・ドゥなど、静かな大人っぽい役を踊る機会が多いです。

――マノンは、踊ってみていかがでしたか?

ダンサーには踊りやすい役と踊りにくい役があります。自分に合ってない役だと、自分の内面と戦ってその役になりきる訳ですが、マノンは結構すんなり入れました。人をだましたり、罪を犯したり、彼女のような人生を歩もうとは思いませんが、マノンを一人の女性として演じることはできます。でも、お客として客観的に舞台を見ている時やリハーサルでは、こんなことできるかしらとか、この役は私には無理、と思いもしますが、いざ自分が舞台に立つと役にのめりこんでしまい、演じにくいと感じたことはありません。

――役作りが難しかった作品はありますか。

昨年、監督のスタントン振り付けでヒューストンバレエが5億円を掛け新制作した『くるみ割り人形』のクララでしょうか。プリンシパルの女性は全員がクララを踊って欲しいというスタントンの希望で、金平糖の精も踊りましたが、クララも踊りました。クララは12、3歳の少女なので、一つ一つの動作を大人が頑張って子どもを演じるのではなく、子どもになりきらないといけませんでした。リハーサルでは100パーセント、いえ150パーセント本気で踊りますが、私は本番で今までリハーサルして来た事とは又違う発見をいつもします。英語で「クリックしない」というのですが、リハーサルの時はまだ完成していません。ゲネプロでもまだ。舞台に立つと、「あっ、自分はこういうことのためにリハーサルをしてきたのだ」と感じる瞬間があるのです。本当に子どもに戻ったようにはしゃいで、本当に疲れました(笑)。「百合子は本当に子どもだった」と、スタッフの方にビックリされました。

――これから踊りたい作品はなんですか。

なんでも挑戦してみたいですが、ダンサーとして経験を積んできたので、自分の得た経験を生かせるような作品を踊りたいですね。ストーリーのある作品のほうが、演じがいがあって、魅力を感じます。まわりの人と一緒にストーリーを作るということをしたいです。

――日本では、よくワークショップを開催されていますね。

日本で公演のオファーはいただくのですが、バレエ団とのスケジュールが合わなくて、なかなか実現しません。でもワークショップは私のスケジュールに合わせていただけますから。私のコーチだったコルパコワは、自分が学んだことを全部、私に教えてくれました。その姿勢を見て、私も次の世代に伝えたいと思います。バレエダンサーというのが私たちのタイトルですが、自分が踊るだけでなく、次の世代に伝えることも使命だと思います。

――日本の子どもたちはいかがですか。

集中力がすごいですね、目が輝いています。それを見て、私の方もパワーをもらっています。ただ、海外の子どもたちに比べると、表現がちょっと欠けているなとは感じます。これには文化の違いがあるのかもしれませんが、日本人にはまた違う素晴らしさがあります。外国人には雑なところがありますから。バレエの衣裳にしても、チャコットさんのは本当に繊細で、一つ一つのディテールが海外のものと違う。私たちのDNAのせいなのかもしれませんね。日本人の良さというより、人それぞれの良さは必ずあるので、それを自分で知ることです。知ることで、表現というものを高めていけます。

――パートナーのジャレッド・マシューズさんは、どんなダンサーですか。

彼は実生活でもいろいろサポートしてくれますが、踊る時は、女性のことを全面的に考えてくれる頼りになるパートナー。彼と踊ると、他のことは気にせずに自分に集中できます。何があってもサポートしてくれるというのが感じられるからです。それでも二人で踊る時は、お互いがパーフェクトを求めていきますので、1ミリでもずれるとかなり言い合いになったりもします。ですが、そんな言い合いの後の完成されたダンスの達成感は素晴らしいです。女性の美しさをより引き出してみせるのが良いパートナーで、私を100パーセント知り女性の美しさを引き出し、成長させてくれるパートナーです。

最後に、「マシューズさんからみて、加治屋さんはどんなダンサーですか?」と、同席していたマシューズさんに聞いてみた。「百合子は単なるダンサーではなく、アーティストです。テクニック的なことはもちろん素晴らしいが、観ている人の心を動かして感動を与えてくれるアーティストだと思う」と彼は言っていますと、加治屋さんは照れながら通訳してくれた。

(2017年7月21日)

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[インタビュー]
佐々木 三重子

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