森 瑠依子

バレエの栄光の歴史がきらめく
「薄井憲二バレエ・コレクション」の逸品を訪ねて その3

<バレエ・リュスを彩ったダンサーの肖像2>

前回の初期バレエ・リュスのスターたちに続き、今回はニジンスキーの退団後、1914年に入団したレオニード・マシーンが首席振付家として活躍した時期のスターたち、およびマシーンの後に振付家を務めたブロニスラワ・ニジンスカをご紹介する。この時代にはキャラクター・ダンスを得意とする、演技力に恵まれたダンサーが多数活躍した。

レオニード・マシーン
(1896-1979)
バレエ・リュスでは少数派のモスクワ、ボリショイ・バレエ出身のダンサーで、コミカルでエネルギッシュな役柄やキャラクター・ダンスにすぐれ、スター・ダンサー兼振付家として大活躍した。
1914年に『ヨゼフの伝説』の主役を踊ってバレエ・リュスにデビューし、翌年には『真夜中の太陽』で振付家としてもデビューを果たす。1917年にはサティの音楽、ピカソの美術による前衛的な『パラード』を発表して衝撃を与え、『上機嫌な婦人たち』(1917年)、『三角帽子』『不思議な店』(ともに1919年)などの踊りと振付で高い評価と人気を得た。
イダ・ルビンシテインのバレエ団、英米のレビュー作品、バレエ・リュス・ド・モンテカルロ、バレエ・シアター(ABTの前身)などでも振付け、1930年代に交響曲を使ったシンフォニック・バレエの創作に挑んで賛否両論を巻き起こした。ハリウッド映画にも出演・振付で参加し、『パリのよろこび』(1941年、バレエ・リュス・ド・モンテカルロによる自作の舞台の映像化で、ペルー人役を演じる)、『赤い靴』(1948年、リュボフおよび靴屋役)、『ホフマン物語』(1951年、スパランツァーニ役など)、『ナポリの饗宴』(1954年、プルチネッラ役)などで、機敏で表情豊かな踊りと演技を見ることができる。

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『ヨゼフの伝説』(PH-D-169-01ws)
18歳のマシーンが主役ヨゼフを演じたバレエ・リュスのデビュー作。旧約聖書の物語をもとにリヒャルト・シュトラウスの音楽、フォーキンの振付で1914年に初演された。台紙に貼り付けられた別紙には「『不思議な店』ロンドン初演の記念に、レオニード・マシーン 1919」と書かれている。
 

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『三角帽子』(PC-B-098-02ws)
主役の粉屋の衣装に、マシーンのサイン入りの絵はがき。19世紀の小説を原作として、ファリャの音楽、ピカソの美術、マシーンの振付・主演で1919年に初演されたコメディ・バレエ。マシーンはフラメンコ・ダンサーのフェリックス・フェルナンデスから本格的にスペイン舞踊を学び、振付に採り入れて成功を収めた。



リディヤ・ロポコワ(ロプホワ、1891-1981)
コケティッシュでチャーミングなバレリーナで、ドゥミ・キャラクテールの役柄を得意とし、イギリスで高い人気を誇った。振付家のフョードル・ロプホフの妹で、有名な経済学者ジョン・メイナード・ケインズの夫人としても知られる。バレエ・リュスでは『青い鳥のパ・ド・ドゥ』、『カルナヴァル』のコロンビーヌ、『不思議な店』のカンカン・ダンサー、『眠り姫』のオーロラ姫とリラの精などを当たり役とした。2016年にNHKで放映されたドキュメンタリー「新・映像の世紀」で、ロポコワとイジコフスキーによる『カルナヴァル』の一場面が紹介された。
1910年代にはともにペテルブルグの帝室劇場の踊り手だった兄、姉らとアメリカ各地を回って踊っている。バレエ・リュス解散後は1925年の結婚後に住んだイギリスのバレエに貢献して、カマルゴ協会でアシュトン振付『ファサード』、ヴィック=ウェルズ・バレエ(現英国ロイヤル・バレエ)で『コッペリア』を踊ったほか、夫のケンブリッジ芸術劇場設立に協力した。1930年代には女優として舞台劇に出演したが、強いロシアなまりの英語のために成功しなかった。

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ポートレート(PC-B-092-02)
1933年にロンドンのオールド・ヴィック劇場でシェークスピア作『十二夜』のオリヴィアを演じた頃の写真と思われる。
 

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作品不明(PH-D-154-01)
直筆サイン入り。ロポコワは明るく天真爛漫な性格で、多くのバレエ・ファンから愛された。
 



スタニスラス・イジコフスキー(1894-1977)
ワルシャワ出身で、際だったテクニックで人気を博したダンサー。バレエ・リュスでは薔薇の精、ペトルーシュカ、青い鳥といったニジンスキーの当たり役の多くを引き継ぎ、マシーン振付の『上機嫌な婦人たち』『三角帽子』『不思議な店』『プルチネルラ』などのコミカルな役柄で成功した。バレエ・リュス解散後はイギリスでの活動が多く、1933年にロンドンでヴィック=ウェルズ・バレエに客演。現役引退後はサドラーズ・ウェルズ・バレエ(現英国ロイヤル・バレエ)、ロイヤル・アカデミー・オブ・ダンシング、プライベート・レッスンなどで指導にあたり、マーゴ・フォンテインらを教えた。
師であるエンリコ・チェケッティが1918年にロンドンに設立したバレエ学校に協力し、シリル・ボーモントとともにチェケッティ・メソッドの解説書を上梓。手先が器用であり、大聖堂などの精巧なミニチュア木工細工を残している。

 

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『カルナヴァル』(PC-B-058-01)
ロンドンで撮影。小柄でジャンプ力のあるイジコフスキーは、同じポーランド系のニジンスキーの持ち役を得意としており、このアルルカン役も当たり役のひとつだった。
 

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『青い鳥のパ・ド・ドゥ』(PC-B-058-02)
1920年頃、ロンドンで撮影。『眠り姫(眠れる森の美女)』のこのテクニカルなパ・ド・ドゥでも定評があった。
 

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「青い鳥」の衣装(COS-01)
レオン・バクストがデザインした青い鳥の衣装のひとつで、前の舞台写真とは別パターンのもの。内側にロシア語で「スタニスラフ・イジコフスキー」と記名されており、彼が着用したと思われる。
 



リディヤ・ソコローワ
(1896-1974)
本名はヒルダ・マニングスで、ディアギレフの命名でロシア人ダンサーとして活動。特にマシーン作品で人気を得て、イギリス人で最初のスター・ダンサーになった。アンナ・パヴロワやミハイル・モルドキンの指導を受けた後、1913年にバレエ・リュスに入団。マシーン振付『春の祭典』の選ばれた乙女、『不思議な店』と『女の手管』のタランテラ、『三角帽子』の粉屋の妻、ニジンスカ振付『青列車』のペルルーズなどを当たり役とした。
バレエ・リュス解散後は1935年に、一時期公私ともにパートナーだったレオン・ウォイジコフスキーのバレエ団に参加したほか、バレエ・リュス作品のプロデュースや上演指導に協力した。1959年にイギリスBBCによりテレビ用に収録された『ジゼル』で、ジゼルの母を演じる姿を見ることができる。1960年に発表した自伝「ディアギレフのために踊る」には、バレエ・リュスの舞台や公演を巡る様々な出来事、ダンサーの日常が生き生きと描かれている。

 

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『ネプチューンの勝利』(PH-D-239)
1926年、イギリスで撮影。ジョージ・バランシンの振付で、難破した水兵(セルジュ・リファール)たちを救う女神を演じている。
 

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『1840年風に』(PH-CC-048ws)
1937年のサイン入り。この年の3月にロンドンのチャリティー公演で自作自演した踊りのヴィクトリア朝風衣装を着用。ソコローワはコミカルで快活な役柄を得意とするキャラクター・ダンサーとして活躍し、マシーン版の『春の祭典』では選ばれた乙女の役をダイナミックに踊って作曲者のストラヴィンスキーから絶賛されている。
 



レオン・ウォイジコフスキー(1899-1974)
ワルシャワ出身で、主にマシーン作品で大きな成功を収めたポーランド系のキャラクター・ダンサー。『上機嫌な婦人たち』『パラード』、『三角帽子』の領主と粉屋、『不思議な店』のタランテラ、フォーキン振付『ポロヴェツ人の踊り』の戦士長、『ペトルーシュカ』のタイトルロールなどを当たり役とした。踊りを詳細に記憶する特別な才能に恵まれており、バレエ・リュスの活動時期、解散後ともに旧作の上演指導に貢献した。
バレエ・リュス解散後、1930年代には自身やアンナ・パヴロワ、マリー・ランベールのバレエ団、バレエ・リュス・ド・モンテカルロなどで踊った。1945年にワルシャワに戻って国立歌劇場のバレエマスターに就任し、『シェエラザード』『ペトルーシュカ』などを上演している。1958年からはロンドン・フェスティバル・バレエなどでバレエ・リュスのレパートリーのリバイバルに協力した。

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『ポロヴェツ人の踊り』(PH-D-286-02)
オペラ『イーゴリ公』のクライマックスとなる有名な踊りで、ポロヴェツ人の戦士長を演じている。
 

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スタジオにて(PH-D-286-04)
ウォイジコフスキーは引退後、ヨーロッパ各地で指導にあたり、晩年は主にドイツの大学で教えた。
 



リュボフィ・チェルヌィショーワ(1890-1976)
美貌で知られたバレリーナ。ペテルブルグの帝室舞踊学校でフォーキンに学び、バレエ・リュスの舞台監督を務めた夫のセルゲイ・グリゴリエフとともにバレエ・リュスの初期から解散まで在籍し、1926年からはバレエ・ミストレスも務めた。『クレオパトラ』『シェエラザード』『タマール』の主役のような妖艶な役柄から『カルナヴァル』『上機嫌な婦人たち』などのコミカルな役、『レ・シルフィード』『眠り姫』のような古典まで幅広く演じ、演技力やマイムの才能も高く評価された。
バレエ・リュス解散後はバジル大佐のバレエ団でバレエ・ミストレスを務め、1950年代からはサドラーズ・ウェルズ・バレエ学校、英国ロイヤル・バレエ、ロンドン・フェスティバル・バレエなどで指導に携わり、夫とともにバレエ・リュスのレパートリーの再演に協力した。

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『シェエラザード』(PH-C-11-038ws)
1936年のサイン入り。チェルヌィショーワはバレエ・ミストレスを務めていたバジル大佐のバレエ・リュスで前年に舞台復帰をし、コヴェントガーデン王立歌劇場で2年続けて『シェエラザード』のゾベイダを演じて、バレエ・リュス時代と変わらぬ大成功を収めた。
 

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『クレオパトラ』(PH-C-11-022)
1930年代、バジル大佐のバレエ・リュス所属時にシカゴで撮影。1936年にチェルヌィショーワの主演で復活上演された演目。この衣装はバレエ・リュス時代の1918年のソニア・ドローネーによるデザインを用いている。
 



ブロニスラワ・ニジンスカ
(1891-1972)
ワースラフ・ニジンスキーの妹で、20世紀の重要な振付家のひとり。ペテルブルグの帝室舞踊学校でチェケッティ、フォーキンらに学び、兄とともにバレエ・リュスに参加した。『牧神の午後』のニンフ、『ペトルーシュカ』のバレリーナ役などを踊って、キャラクター・ダンサーとしても活躍。1921年に『眠り姫』の一部を振付けた後、『結婚』『牝鹿』『青列車』など、今見ても斬新で、話題性に富んだ新作の数々で高い評価を受けた。
数多くのバレエ団や自らのバレエ団(テアトル・コレオグラフィック、バレエ・ニジンスカなど)で活動しており、1925年にバレエ・リュスを離れた後、パリ・オペラ座、イダ・ルビンシテインのバレエ団(『ボレロ』『ラ・ヴァルス』など)、バレエ・リュス・ド・モンテカルロ、ポーランド・バレエ、バレエ・シアター、クエバス侯爵のグラン・バレエなどで振付家やバレエ・ミストレスを務めている。1940年代からはアメリカに住み、1960年代にフレデリック・アシュトンの依頼で英国ロイヤル・バレエで『牝鹿』『結婚』を上演した。自伝「ブロニスラワ・ニジンスカ 前半生の思い出」に1914年頃までの活動がつづられており、特に兄ワースラフの動向が詳しく記載されている。

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『宗教的習作集』(PH-C-31-02)
1925年にロンドンで撮影。ニジンスカがパリで結成したテアトル・コレオグラフィックのために振付けた作品のひとつ。キエフ出身の若いダンサーたちが参加したこの団体は1年で解散し、その後ニジンスカはバレエ・リュスに復帰した。
 

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『ツアリング(または、スポーツとツアリング・バレエ・レビュー)』(PH-C-31-08)
1925年にロンドンで撮影。これもテアトル・コレオグラフィックのための作品。

写真提供:兵庫県立芸術文化センター 薄井憲二バレエ・コレクション