本文 関口紘一

vol.1 --- 日本のバレエのフロンティア、橘秋子について

 チャコットでは、11月3日(金・祝)から「日本のバレエのフロンティア、橘秋子展」を開催する。これは、「エリアナ・パヴロバ展」「オリガ・サファイア展」「ミチオ イトウ展」に続いて、日本の文化がバレエという芸術をどのように受け入れてきたか、を辿る試みである。

エリアナはロシア革命以前にバレエを修得し、日本で踊り、教えた。オリガは革命後にバレエを学び、日本人外交官と結婚したが、小林一三の要請を受け、日本 にバレエを伝える、という意思を持って来日した。イトウは、ロンドンでイエーツの舞踊劇『鷹の井戸』を上演して名を上げ、その後アメリカに渡って活躍し た。太平洋戦争が勃発して帰国するが、ほとんど海外で活動し一家をなした舞踊家である。

今回とりあげる橘秋子は、宇都宮の出身だが、日本人としてバレエに出会い、自身で決意をして舞踊家となった人物である。戦争中に慰問公演で中国に行った が、それ以外は日本で踊り、日本にバレエ学校を設立して教えた。その仕事は、現在、牧阿佐美が受け継いで発展させていることは周知の通りである。

橘秋子が栃木県師範学校(現・国立宇都宮大学)に入学したのは大正10年(1921)。卒業後、国分寺尋常高等小学校に教師として赴任したのは1926年。3年後には退職し、成城学園の小林宗作のリトミックの講習を受けている。
さらに翌年の昭和5年(1930)には、エリアナ・パヴロバに入門し、内弟子(住み込みで教えを受けること)になった。

大正11年にはアンナ・パヴロバが来日して評判となり、一部の人々は観ることができた。しかし、当時はエリアナ・パヴロバ、石井漠、高田せい子などが舞踊公演を行ってはいたが、バレエとモダンダンスは、同じ「洋舞」として括られいたし、現在のようなチャイコフスキーなどのグランド・バレエは、まだ日本では上演すらされたことがなかった。つまり、バレエとはどういうものか、という理念のアウトラインさえまだ判然としなかった時代である。

実際、娘の無謀な行動を心配した母が、鎌倉、七里が浜のエリアナのバレエスクールまで引き取りにやってきた。しかし橘秋子は、自分の選んだバレエの道を守り通した。

教師として働いていた頃の橘秋子は超モダンで、ほとんどの女性が着物を着ていた頃に、華やかな洋装でさっそうとしており、生徒たちの憧れの的だった。また、たいへんダンスが好きで、生徒たちと創作的なことを行っていた、といった内容のいろいろなエピソードが残されている。とはいえ、今日でも一人の女性が舞踊家として生きて行く、という決断を下すのは決してそれほど簡単なことではない。

橘秋子のこうした大胆な決断の背景には、牧幹夫がいたと思われる。
牧幹夫は、橘秋子と結婚したのち、舞踊に魅せられ研究のため昭和13年にインドへ渡ってしまった、新国立劇場の現芸術監督、牧阿佐美の父である。牧のインド行は、当初は半年間の予定だったが、結局、様々な事情、状況により、日本に戻ることが叶わなかった。

そうしたことから、牧幹夫についてはあまり多くのことは知られていない。しかし、今回、橘秋子展を開催するにあたって調べていくうちに、微かにではあるが、
非常に進んだ彼の舞踊研究の一部が見えてきた。
牧幹夫を抜きにして橘秋子を語ることができないのはもちろん、彼は、日本の舞踊史の中の正統な位置を与えられなければならない人物であると、私は確信している。次号で牧幹夫について判明してきたことをお伝えしたい。