本文 関口紘一

Vol.1

 第一時世界大戦が勃発する前の1910年代から、東京オリンピックが開催される直前まで、アメリカやヨーロッパの舞台を巡って活躍した伊藤道郎という日本人舞踊家をご存知だろうか。

 伊藤道郎は、芸術家兄弟として有名な、鉄衛(建築)・祐司(音楽/舞台美術)・熹朔(舞台美術)・圀夫(千田是也・俳優/演出)伊藤兄弟の長兄である。
 道郎は、1893年(明治26年)神田三崎町に生れた。父は明治19年に渡米し、建築家として名を成し、銀座の服部時計店や旧博品館などを設計した。ほかにも種々のアイディアをめぐらし、発明に手を染めるなど、非常に進取の気質に富んだ人物だった。

 道郎は幼い頃から、芝居や楽器(ハーモニカ、ヴァイオリン)に親しんで育ったが、オペラの声楽家として身をたてようと決意し、三浦(柴田)環について勉強を始める。1912年には帝劇の歌劇部に入り『釈迦』に出演した。
 その頃、村田実や岸田辰弥とともに演劇グループ「とりで社」を創設し、試演会を行っている。
 1912年(明治45年、大正元年)11月、道郎は本格的に声楽を学ぶために、ドイツに渡る。この時は道郎はまだ、舞踊家になるとは露思っていない。

 ところで当時の日本には「洋舞」に関わる出来事が何かあったのだろうか、日本芸術文化振興会が編んだ「日本洋舞史年表」から拾ってみよう。

・1909年には、川上音二郎.貞奴夫妻が創設した「帝国女優養成所」を帝劇が譲り受け「帝国劇場付属技芸学校」とし、ミス・ミクスを舞踊教師として雇用した。

・1910年、山田耕作(後の耕筰)ドイツに留学。(日本洋舞史にはない)
 石井忠純(石井獏)、帝劇の管弦楽部員に採用される。

・1911年、帝劇開場記念公演 西洋舞踏「フラワーダンス」他 振付=ミス・ミクス 出演=帝国劇場付属技芸学校専属女優。第三回帝劇興行 洋舞「クラウドバレー」「水兵と歌とダンス」振付=ミス・ミクス。第六回帝劇興行「ケーキ・ウォーク」振付=ミス・ミクス。
 帝劇、歌劇部を新設し、第一期生に石井林郎(石井獏)、小森敏、河合幾代、沢美千代(沢モリノ)等を採用。第八回帝劇興行「ムーンライト・ドリーム」「胡蝶の舞」(作=松居松葉)振付=ミス・ミクス 他。

・1912年、帝劇歌劇部第一回公演 創作歌劇「熊野」を上演 出演=柴田(三浦)環、石井林郎(石井獏)など。帝劇興行「フラワー・ダンス」振付=ミス・ミクス。
 ジョバンニ・ヴィットリオ・ローシー、帝劇歌劇部のバレエ・マスターとなる。一期生に石井林郎(石井獏)、柏木敏(小森敏)、沢美千代(沢モリノ)。二期生に中村晴夫(高田雅夫)、原せい子(=高田せい子は一期生に編入される)
 帝劇興行 無言劇「犠牲」振付=ローシー 演出=松本幸四郎 出演=ローシー、ジュリア・リーべ(ローシー夫人)など。他に「スコッチダンス」
 小山内薫、渡欧。白木屋、少女歌劇を始める。
 帝国劇場は、日本で初めての本格的西洋演劇場建築で1908年に着工され、11年3月に開場式が行われた。明治の欧化政策の一貫として「国賓クラスを招待するのに相応しい大劇場」を必要としていた。
また、当時盛んだった演劇改良運動のためにも洋風大劇場の建設は悲願だった、と言う。要するに、ソフトに先行して箱を作ったわけで、今日と同じというか日本の舞台芸術の状況は、ここに始まったのかもしれない。

 それはともあれ、道郎が声楽家として羽ばたく野望を持ってドイツに向かった頃の日本では、帝国劇場が華々しく開場した。洋舞の興行は、ミス・ミクスの指 導の元、おそらくはショー・ダンス風の演し物が行われていたようである。その後、ローシーの来日によりクラシック・バレエの技法を用いた訓練と興行が行わ れ始めていた。道郎自身が、三浦環に声楽を習っていた関係もあって、『釈迦』にコーラスとして出演している。
 つまり、道郎がドイツに旅だった頃の日本は、そんな状況であった。