本文 関口紘一

はじまりのはじまり---その九 エリアナ・パヴロバと東勇作

 東勇作は、前号でご紹介した橘秋子や貝谷八百子とともに、当時の日本には存在しなかったバレエを非常に熱心に苦労して学び、日本にバレエを確立しようと情熱を傾けた最初の人である。 特に東勇作は、ディアギレフによって世界的な評判となったバレエ・リュスへの関心が強く、海外から取り寄せた資料によってフォーキンやニジンスキーの作品の上演を果たしている。
  中川鋭之助がまとめた「東勇作芸談」によると、「バレエなどというのは当時はほとんど知られていなくて、地方に行けば宿屋の前に<バレー選手御宿>と書かれていても当たり前の時代ですから、バレエの知識欲に燃えていても、洋書を丸善で買って読むくらいしか方法がありませんでした。 ニジンスキーの伝記などにはすっかり感心して、日本のニジンスキーになりたいなどと思っていたものです>と語っている。

  東勇作は、仙台市の出身だが、小学生の頃に横浜に住んでいてアンナ・パヴロワの来日公演を観ている。「アンナ・パヴロワの舞台はなにしろ小学生の時に見たので、あまりよく覚えていません。『瀕死の白鳥』とか『むつの花』などというのが印象に残っています」
『瀕死の白鳥』はいうまでもなく、サン=サーンスの曲にフォーキンが振付けた作品であるが、『六つの花』は「チャイコフスキーの傑作『胡桃割』の一部でクリスチンの振附、ウルバンの背景装置で、クリスマストリイの来歴を語るもので、パヴロオワ夫人とヴオリニン氏が十分にその霊腕を振はれます」と当時の読売新聞が伝えている作品であろう。(アンナ・パヴロワの帝国劇場公演は大正11年9月10日から29日まで行われた。13日に最初のプログラムが終り、『六つの花』は14日から行われたプログラム。東が観たという横浜公演は、9月30日から10月3日まで横浜劇場で行われた)

  パヴロワを観た頃の東は、外国人の踊りを日本人ができるわけがない、と思っていたので、まさか自分がバレエを踊ることになる、とは夢にも思っていなかった。 ところが、仙台に戻って、人気の高かい石井漠や高田雅夫の踊りに感化され舞踊家になろうと決心した。その頃にエリアナ・パヴロバの舞台を観て、まず、バレエのテクニックを観につけよう、と昭和5年にエリアナの内弟子になった。
  その頃のエリアナ・パヴロバは日本全国を旅公演して回っていた。男の弟子は少なく、先生が外国人女性なので、女性の弟子も先生と同等で荷物も持たないので、旅から旅の公演は重労働だった。しかし、エリアナの踊りは「テクニックはともかく、踊るということにかけては非常にうまくて、けいこ場で見ていてもうっとりするような魅力を持って」いたそうである。
  旅公演の演目は『ショピニアナ』『瀕死の白鳥』『調馬』『とんぼ』『アジアーデ』などのほかには民族舞踊も多かった。入場料は1円か2円だったがほとんどの公演が満員だったという。

  日本全国の巡演を終えて、エリアナは鎌倉を拠点として東京にだけけいこ場をもつことになったので、東は内弟子から通い弟子となり、先生の代けいこまで務めるようになった。しかし、常にエリアナを中心とした小公演では満足できず、『白鳥の湖』や『ジゼル』の本格的な全幕物の上演を目指して、昭和10年に独立した。
  そして、ヨーロッパから帰国した舞踊評論家、蘆原英了が創ったチェケッティ協会に参加、結局この組織は、東勇作・アカデミー・ド・ラ・ダンスに引き継がれた。また、高田せい子の下を離れた益田隆、カジノフォーリーで活躍した梅園龍子とともに益田トリオを結成。日劇などに出演し、オリガ・サファイアの相手役としても踊った。オリガはエリアナと違って、ソ連時代のバレエに関する知識を持っていたし、日劇でバレエを教えるために来日しているので、楽譜などが揃っていた。 また、当時日本では知られていなかった『ドン・キホーテ』のパ・ド・ドゥをオリガから学んでいる。

  東の下に、半沢かほる、松尾明美、松山樹子が集まり、昭和16年には東劇で第1回の公演が行われた。演目は『レ・シルフィード』と『牧神の午後』。 第2回目の東劇公演では、アダンの楽譜が入手できずショパンの曲で創ったとして有名な、初演100周年記念『ジゼル幻想』。次は昭和17年の日比谷公会堂の公演で、『セレナーデ』(モーツァルト)、『薔薇の精』『牧神の午後』。昭和18年には歌舞伎座でヴェートーヴェンの『交響曲第7番』を上演した。
「公演としてはかなり成功したのですが、外国のバレエを見てきた人は<体の形がわるくて足の短い日本人はバレエに向かない>とか<カミの毛が黒くてグロテスクだ><東は本場のバレエを知らないから、あんなことができるのだ、本場を見たらがっかりしてやめるだろう>などと言われました。
  だけどロシアにはじめてバレエの入った時もロシア人にはバレエができないと思われたし、英国でもはじめはそんなふうにいわれたのですから、 日本でもがんばって続ければ必ず日本のバレエができると信じていました。」
  現在、これほどの経験に裏付けられた日本人のバレエへの確信と、あくなき研究心と情熱を備えている舞踊家がいったい何人いるだろうか。