本文 関口紘一

はじまりのはじまり---その四 オリガ・サファイア

 7月22日(木)から26日(月)まで、チャコット渋谷本店でオリガ・サファイア展が開催(名古屋店は7月29日~8月2日、心斎橋店は8月5日~9日)されるので、今月はオリガ・サファイアについて。

  オリガ・サファイアは1936年(昭和11年)5月14日に、旧ソ連から日本にやってきた。その当時は、この年の2月に二.二六事件が起き、翌37年7月には廬溝橋事件から日中戦争が勃発しており、日本とソ連は満州附近で鋭く軍事的に対立していた。

  オリガは日本人外交官清水威久と結婚し、日本国籍を取得していたが、ソ連ではスターリンの粛清も始まりつつあった時であるから、今から推し測っても容易ならざる空気を感得することができる。無論、彼女の渡日は亡命ではない。しかし、当時ははっきり分からなかったかもしれないが、今考えるとある面では亡命以上の危険が潜在していたかもしれない。清水は外交官だから、バレエ一筋のオリガよりはるかに国際情勢に敏感であり、細心の心配りを怠らなかったはずである。

  ともあれ、オリガが家族を祖国に残し、清水と結婚して日本に暮らすということは、今日のわれわれからは想像できないような重い決断が必要だったと思われる。

  しかし、日本に向かうオリガ・サファイアには希望があった。日本の駐露大使の仲介により、モスクワで宝塚少女歌劇の創設者、小林一三に会い、33年にオープンしたばかりの日本劇場にロシアのクラシック・バレエを移植してほしい、と頼まれていたからである。今はもう跡形もないが、当時の日劇は、3000人の観客を収容でき、映画とショーの二本立て興行であった。

  オリガは幼いころはこれといって熱中できるものがなかったが、バレエと出会って初めて自分の生きて行く道を見つけた、そういう少女だった。ヴォルインスキーのバレエ学校やアカデミー舞踊学校の頃から嘱望され、卒業後はツアー公演などではプリマ・バレリーナとして舞台に立っていた。しかし彼女は身体的に弱いところがあり、プリマとして踊り続ける磐石の自信があったわけではなかった。

  ロシアでは、地方の都市でもオペラ劇場を持っている。モスクワやサンクトペテルブルク、キエフなどでは、オペラ・バレエの大劇場(ボリショイ)と小劇場(マールイ)があり、それぞれの劇場には専属のオペラ、バレエ団、オーケストラがある。これがロシアの文化、舞台芸術のひとつの形といってもいいだろう。

  サンクトペテルブルクに生れ育ち、バレエに生きる道を見つけたオリガが、日本の大劇場にバレエを花開かせようと希望に燃えたのは、きわめて自然の成り行きである。

  私は2001年に、やはりチャコットで開催したエリアナ・パヴロバ展と今回のオリガ・サファイア展にも企画としてかかわったが、オリガ・サファイアの遺品を展示するために見せていただいて、およそ70年後の今、彼女の日本のバレエへの希望あふれる想いを直に肌に感じる想いだった。

  エリアナの遺品とオリガの遺品を見比べるとさまざまなことが推察される。

  エリアナの遺品は、パスポートや羊皮紙に記された貴族証明書、舞台衣裳や装飾品、ポスター、のぼり、トランクなど。エリアナ自身の振付のためのメモや独白、詩、小説などを記したノートあるいは慰問先の兵士の手紙といったバレリーナとして生きた痕跡を感じさせるものが多い。

  オリガの遺品は、ロシア・バレエを日本に移植するために必要なものを周到に用意した、と思わせる品々であった。トルストイの美装本の全集(私は未見)を始め、オリガにとってのバレエの原典ともいうべきヴォルインスキーの『歓喜の書』などの舞踊関係の書籍、当時、使用されていた種々のバレエのための楽譜(丹念に拾集したと思われる)、舞台衣裳などであった。これらは、当時のソ連の舞踊家の指導的立場にある人たちの基本的な備品であろう。一貫性があり、当時のロシア・バレエの知的水準の高さを推測することができる興味深い品々である。

  さて、実際にオリガは、日劇でクラシック・バレエを教え始めた。その結果、さまざまな文化的背景の違いに直面することになるのだが、それはまた次の機会に。