(荒部 好)

『さすらいの舞姫』北の闇に消えた伝説のバレリーナ・崔承喜(さいしょうき)

西木 正明 著

 

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日本のダンスのフロンティアとして知られる石井漠に師事した伝説の舞姫、崔承喜をご存知だろうか。
類い希な才能と完璧なスタイル、そして美しい容貌に恵まれ、川端康成を始めとする知識人たちに高く評価され、日本のみならずアメリカやヨーロッパの各地で公演して大成功を収めた。また、日本統治下にあった朝鮮出身者として、故国に帰って民族舞踊を研究、収集して自身の舞踊に採りいれて大いに成果をあげた。
そして第2次世界大戦に向かって激しく変動する時代、東西冷戦に緊張する世界の中で厳しい運命と闘いながら、舞踊家として波瀾に満ちた生涯を送った。
『さすらいの舞姫』は、その生涯の足跡を丁寧にに追って小説にまとめた900ページを越える大部である。
著者は執筆のきっかけを、雑誌編集者時代にふとしたことから聞いた川端康成の一言だったという。川端は新感覚派と呼ばれた若き日から舞踊には深い関心を持っていて、当時はほとんど知られていなかったヨーロッパの舞踊にも造詣が深かったのである。

崔承喜は日本統治下の朝鮮半島から、石井漠に入門するために日本にやってきて、当時、抗日運動の闘士だった夫と知り合った。そして舞踊家として世界的になを知られるようになるが、戦後、コミュニストだった夫とともに希望を抱いて北朝鮮に渡る。そこでは金日成に寵愛され芸術家として重用される。しかし、やがて粛正の嵐に巻き込まれていく・・・。
崔承喜の人物像は、変転する時代背景を明快に浮かび上がらせ、心情を深く捉えて描かれているので、まるで映画のように脳裡にヴジュアルがみえてくる。
とりわけ、仲睦まじかった夫が政治の深みにはまってしまった頃、彼女に師事するインドの魅力的な青年と熱い語らいを交わす描写は見事。崔承喜という激動の時代を駆け抜けた舞踊家の息遣いが間近に感じられ、じつに感動的だった。
「アジアはひとつ」といったのは岡倉天心だが、朝鮮、日本、中国をめぐって崔承喜が遭遇する事件の数々は、共通の文化的背景を持ちながら一体感を持つことのできないこの地域の未成熟さを、期せずして表しているかのようである。

 

『さすらいの舞姫』
北の闇に消えた伝説のバレリーナ・崔承喜(さいしょうき)

西木正明 著
光文社 刊
定価(本体2,300円+税)