守屋光嗣 text by Koji Moriya
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ボリショイ・バレエのロンドン公演

マリインスキー・バレエがロンドン公演を終えた翌週、ロイヤル・オペラ・ハウスで3週間にわたりボリショイ・バレエがエキサイティングな舞台を披露した。2年ぶりの公演、更に、ボリショイ・バレエがはじめてイギリスで公演してから50周年の記念の年ということで、上演されたプログラムは、現在のボリショイ・バレエの実力を余すことなく魅せるものばかりだったと思う。観光シーズンということもあってか、特に『白鳥の湖』と『ドン・キホーテ』は早々に完売状態の人気ぶり。古典バレエの根強い人気がうかがえた。

『ファラオの娘』
長らく失われていたプティパのこの振付を、ピエール・ラコットが復元し2000年5月にボリショイ・バレエで上演されたもの。あら筋は、6月号の「アプローズ・ダンス!EAST」佐々木三重子さんの記事をご覧ください。
 2年前のロンドン公演でも上演されたが、まだ古典バレエとしては「新しい」部類だからだろう、筆者が観にいった2日目はかなり空席が目立った。荒唐無稽な筋は仕方ないとしても、2年前にも思ったことだが、小道具や脇役の使い方には首をひねってしまう。特に、アスピシアとタオールを逃がす黒人役には、今回も強い違和感を覚えた。
 ただ、踊って、踊って、もっと踊ってと、ある意味、体力勝負的なこの振付を、絢爛豪華に、スペクタクルな物語絵巻として舞台に再現できるのは、ボリショイ・バレエをおいて他にはないだろう。プリンシパル・ダンサーからコール・ドに至るまで、バレエは極上のエンターテイメントであることを鮮烈にアピールしていた。

『白鳥の湖』
ユーリ・グリゴローヴィチが、自身の振付を改定(2幕構成)し、2001年3月にボリショイ・バレエで上演されたもの。このヴァージョンは、悲劇的な終わり方と括られるようだが、オデットもオディールもすべてジークフリートの想像の中での話、という設定がされている。この状況設定だと、何故オディールは「白鳥」になってしまったのかという物語の根幹部分の説得力と整合性が失われる、との指摘がされるだろう。実際、いくつかのレヴューではその点に疑問を示していた。
 その設定が徹底しているな、と思えるのは、湖の場面になっても舞台上方には王宮のシャンデリアが常にあること。これで観客は、オデット、オディール、悪の天才(通常のロットバルト)、そして白鳥たちすべてが、王宮でまどろんでいるジークフリートの無意識の産物なのだということを常に想起させられる。物語の設定の是非よりも、個人的には、32回転のフェッテの直後、まるで斧で断ち切るかのように音楽をとめる構成は興醒めだった。

『シンデレラ』
サンフランシスコをベースに活躍する、ユーリ・ポソホフ振付による『シンデレラ』。ボリショイ劇場での初演は今年の2月ということだから、カンパニーのレパートリーの中でもとりわけ新鮮なものだろう。音楽はプロコフィエフ。
 ストーリーは、簡単に言ってしまうと、劇中劇のような構成で進む。ある、小惑星と思しき星に住んでいる劇作家が書きかけている新作の展開に悩んでいる。彼を助けようと、アシスタントのPtashkaはシンデレラ役をかって出る、というもの。
 都合でこれだけはいけなかったのだが、予想された反応とはいえ、批評家による振付への評価は、かなり辛口だった。一言、「これは本当にボリショイのダンサーが踊りたいものなのか?」、と。後述のアコスタのインタヴューに呼応する点もあると思うが、新作バレエをレパートリーに加えていくのは老舗バレエ・カンパニーにとってはこちらが思う以上にリスキーなことのように思う。

『明るい小川』
使われている曲は、生誕100周年を迎えているドミトリ・ショスタコーヴィチが、1935年に、3番目にして最後のバレエのために作曲したもの。台本は、アドリアン・プロトロフスキーとフョードル・ロプホフによる。発表当時、成功を収めたものの、レーニンが気に入らずに封印の憂き目に遭い、長らく忘れられていたバレエ。台本はそのままに、ボリショイ・バレエの芸術監督、アレクセイ・ラトマンスキーが新たに振付し、2003年4月にボリショイ劇場で初演された。イギリスでの上演は今回が初めて。
 集団農場『明るい小川』は、収穫を祝うために、モスクワからダンサーを招く。駅に集まる人々の中には、農業を学ぶ学生、ピョートルとその妻ジーナもいた。到着したダンサーを見たジーナは、即座にかつて一緒にバレエを学んだ友の顔を見出す。偶然の再会を喜ぶ二人だが、ピョートルはダンサーに惹かれ、ジーナは嬉しくない。
 落ち込むジーナを励ますために、ダンサーとそのパートナーは一計を案じる。仮面をかぶり、同じ衣装を着た二人のダンサーが現れ驚くピョートル。一人が彼に近づき、仮面を外すと、そこには愛妻、ジーナが。彼はジーナに謝る。そして収穫祭は、成功に終わる。
 2幕構成で、このプロダクションのセット、衣装、振付から一番強く「ロシア」色を感じた。古典バレエのような大仰なパ・ド・ドゥはないものの、全体を通してボリショイのダンサーの技術を活かした振付がされている。特に第2幕では、男性ダンサーがクラシック・チュチュを着て女性の役(シルフィード、もしくはジゼルのよう)を、女性ダンサーは男装して力強い踊りを披露する。筆者が観た日、セルゲイ・フィーリンのあまりのなりきりぶり、且つ美しさと華麗なポワント・ワークに、会場は拍手と笑いの渦。プレスも手放しの誉めようだった。が、少数意見であることは承知の上で、第2幕の構成は、あまりにどたばたの度合いが過ぎてスラップ・スティックのように思われるシーンがかなりあったように思う。

「ミックス・プログラム」
今回の上演期間中、唯一のミックス・プログラムは、『Go For Broke』(ラトマンスキー)、『スペードの女王』(ローラン・プティ)、『シンフォニー・イン・C』(バランシーン)の3作で構成されていた。

『Go For Broke』は、今回がイギリス初演になるラトマンスキーが2005年に振付けた作品。音楽はストラヴィンスキーの『Jeu de cartes』。男女16人のダンサーが、前半は濃い紫の、後半はレモン・イエローの衣装に身を包み、衣装以上に鮮やかな個々人の技術を惜しみなく舞台で披露する小品。中にコール・ドのダンサーも含まれていたが、ボリショイ・バレエのダンサーの技術水準を知るにはうってつけの作品だと思う。ちょっと、構成にフォーサイスの影響を伺えたのはご愛嬌だろう。


「Go for brok」

「スペードの女王」

「シンフォニー・イン・C」

今回上演された『スペードの女王』は、ローラン・プティが以前バリシニコフに振付けた同名のバレエを再構築し、チャイコフスキーの交響曲『悲愴』の音楽を使って、ボリショイのイルゼ・リエパとニコライ・ツィスカリーゼに新たに振付けた作品。物語はプーシキンの『スペードの女王』を元にプティ自身が書いたもの。ボリショイ劇場での初演は2001年10月で、この作品もイギリス初演だった。
 ヘルマンは、究極のカードの謎に取り付かれている。その謎を知ると思われるのは、神秘めいた雰囲気の公爵夫人。彼女の寝室に忍び込んだヘルマンは、彼女に詰め寄るが、夫人は恐怖のために死んでしまう。ヘルマンは、カードで勝負している。勝ち続けるヘルマンに、亡くなった夫人の亡霊が見える。そしてヘルマンが最後に引いたのは、「スペードの女王」。恐怖に打ちのめされたヘルマンは、倒れ臥し、死ぬ。
 ダンサーについては別項でふれるが、ローラン・プティのいわば新作をロンドンで観られるのが嬉しかった。批評家の多くは、群舞のシーンが冗長すぎるとか、音楽と振付が噛み合っていないなど、観る前からネガティヴな姿勢で臨んでいたようにすら感じた。プティの作品が滅多にロンドンで上演されないのは、プレスにも一因があるのではと思えてしまうほど。

『ドン・キホーテ』
2年前のロンドン公演でも上演された、アレクセイ・ファージェチェフ演出のもの。このヴァージョンのボリショイ劇場での初演が1999年だそうだから、今回のプログラムの中では最も古いもの、言い換えればカンパニーにとっては確実に素晴らしい舞台を披露できる演目なのではないだろうか。実際、今回のロンドン公演で、新たなスターが誕生したようだ。初日のキトリを踊ったのは、コール・ド(その後ソリストに昇格したらしい)のナタリヤ・オーシポワ。完璧な技術と、身体能力により、のちに伝説として語られるかもしれないような舞台だったらしい。

ダンサーについて
今回のロンドン公演で、ボリショイ・バレエの「顔」として大活躍したのはスヴェトラーナ・ザハロワ。出演しなかったのは『明るい小川』だけで、後は毎週3回は踊っていたようだ。つまり、3週間、24公演中9回踊っていたことになる。彼女を初めて観たキーロフ・バレエ(当時)のロンドン公演、2年前のボリショイのロンドン公演と比べるとかなりからだの線が細くなった印象があるが、技術や演技の進化が著しい。特に、筆者が観た8月16日の『白鳥の湖』では、第1幕後半(通常だと第2幕)でのオデットの踊りの美しさと言ったら。
 公演直前、テレグラフ紙の特集記事の中で、ザハロワを指導しているリュドミラ・セメニェカはザハロワについてこう語っている。「より一層、スヴェトラーナが私に心を開いてきているのがわかる。彼女は、1公演ごとに、どんどんよくなっているわ」。ザハロワはまだまだ進化しつづけている。
 大輪の向日葵のように、薔薇のように、出てきた瞬間に舞台の温度を一気に引き上げていたのは、マリア・アレクサンドロワ。彼女のイメージを限定するつもりはないが、キトリや『明るい小川』のバレリーナ役での、優美かつ豪快、指先・つま先まで神経の行き届いた丁寧で躍動感がみなぎる動きは、ボリショイ・バレエの堂々たるプリマ・バレリーナのそれだろう。
 スヴェトラーナ・ルンキナは『ファラオの娘』や『白鳥の湖』では、やや精彩を欠いていたようだった。が、『Go For Broke』や『スペードの女王』での少女役、『明るい小川』のジーナ役では見ちがえるほど詩情に溢れたダンサーであることをアピールしていた。
 今回のボリショイ・バレエのロンドン公演で目を見張ったのは、プリンシパル以下、コール・ドに至るまで才能溢れる女性ダンサーの多いこと。『シンデレラ』を踊ったエカテリーナ・シプーリナ、イギリスのバレエファンの前に突如現れた新星、ナタリヤ・オーシポワなどは、数年後にはプリンシパルになっていることだろう。また、ニーナ・カプツォワ、エカテリーナ・クリサノワ、アンナ・ニクーリナなどからはこれから更に注目を集めていくであろう輝きを感じた。
 もう一人忘れてならないのは、『スペードの女王』の公爵夫人を演じたイルゼ・リエパ。バレリーナという枠を超えた表現力、存在感に圧倒された。特に、変幻自在に動く腕の美しさ、妖しさはこれまで観たことがないものだった。

 今回上演された演目のためという理由もあるだろうが、女性コール・ドに比べて若手男性コール・ドの中に、こちらの視線を否が応でも惹き付けるダンサーを見つけることはなかった。が、プリンシパル、リーディング・ソロイストの充実振りは、他のバレエ・カンパニーが羨むほどだろう。
 ロンドンでのパフォーマンスは久しぶりだった、ニコライ・ツィスカリーゼ。タオール(ファラオ)では冒険心を失わない少年のように目を輝かせ、ヘルマン(スペード)はカードの謎に心を囚われた男の狂気と哀れみを。悪の天才(白鳥)では、「この男さえいなければジークフリートとオデットは結ばれただろうに」と思わせるほどの冷酷さ。本当にこれは同じダンサーなのか?
 彼の初日に当る8月12日の『ファラオの娘』の終演後、舞台横のバルコニー席からは、盛大に花が投げ込まれていた。ロンドンのバレエファンもツィスカリーゼの踊りを首を長くして待っていたようだ。カーテン・コールのとき、常にコール・ドのダンサーにも気を配る姿勢に好感が持てた。
 「セルゲイ・フィーリンは、ボリショイ・バレエの女性プリンシパルだっけ?」、という会話がイギリスのバレエファンの間で交わされても不思議ではないほどインパクトがあった、フィーリンのシルフ(ジゼル?)。クラシック・チュチュをあれほど完璧に、洗練された雰囲気で着こなす男性ダンサーはそう多くないだろう。勿論、それだけではない。『ドン・キホーテ』で見せた、軸、立ち位置が全くぶれない回転、キトリ(アレクサンドロワ)を片手リフトしたときにも全くぐらつくことのない安定した技術。現在のボリショイを代表する「男性」プリンシパルだ。
 他に、ノーブルなダンサーのお手本のようなドミトリ・グダーノフも忘れてはならない。彼のつま先と舞台の間から、音が聞こえてきたことがあっただろうか。更に、デニス・メドヴェデェフや岩田守弘の『白鳥の湖』でのフールも忘れがたい。

 怪我人はでなかったようだが、3週間の長丁場、合間にテロ騒ぎがあってダンサーだけでなくオーケストラのメンバーも疲れたことだろう。が、彼らもロンドン公演を、観客と同じくらい楽しんだのではないだろうか。

 

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