那須野圭右インタビュー
6月に来日公演を行うモーリス・ベジャール・バレエ団の日本人ダンサー、那須野圭右さんに来日直前インタビュー。ベジャールの死からバレエ団の近況、日本公演への期待などを聞いた。
----今、ベジャール・バレエ団は何のリハーサル中ですか。
那須野 今は、5月の末から6月初めにかけて行われるローザンヌ、ボーリュー劇場の『愛、それはダンス』日本公演に向けてのリハーサル、それから来シーズンのリハーサルももう始まっています。ぼくは『愛、それはダンス』では、日本公演でジル・ロマンが踊っていたパレスチニアンを踊ります。
-----那須野さんはクラシック・バレエから始められたのですか。
那須野 はい。ぼくは大阪の出身で、あちこちのバレエ・スタジオに行きました。結局、同世代の男の子が多い、牧阿佐美先生のジュニア・バレエに入りました。牧先生のところでは、服部有吉(カナダ、アルバータ・バレエ)、遅沢佑介(K バレエ カンパニー)、大野大輔(スターダンサーズ・バレエ団)と一緒でした。
-----金森穣さんもやはり、ベジャールのバレエ学校のルードラに行かれましたね。
那須野 ええ、穣さんは阿佐美先生のところにいる時からよく知っています。
ぼくはルードラに2年間行ってから、ベジャールのバレエ団に入りたかったのですけど、空きがなかったので入れなかったのです。それでパリのジュンヌ・バレエ・ド・フランスに行って、オーディションというのを初めて受けました。ルードラはビデオ審査だったので、オーディションに初めて受かって嬉しくて、他はもう受けずにすぐに入団しました。
ところが、ジュンヌ・バレエに入ってすぐに腰を傷めてしまって一ヶ月で辞めました。病院に行っても腰は治らなかったのですが、踊っていたかったので日本には帰りたくなくて、ローザンヌの小林十市さんのところにお世話になっていました。
そうしたらベジャールさんが、もう一年学校に行く気があるのなら、ノイマイヤーに手紙書いてやるからハンブルクの学校に行ってこいっていうんです。それですぐ翌日にハンブルクに行きました。ハンブルクにはちょうど服部有吉も遅沢佑介もいたし、日本人が7、8人いて楽しかったんですけどやっぱり腰が治らなくて、いろいろ調べたんですけど分からなくて、結局、日本に帰ったんです。そしたら、椎間板ヘルニアと言われて、もう歩けないくらい痛くて手術しました。
それから十市さんから、今年は男性ダンサーが何人か辞めるから入りたいんだったら来てみたらって言われて、オーディションということでベジャールさんに会いに、すぐに行きました。
それでベジャールさんの前で『海賊』を踊ったんです。ベジャールさんがスタジオの一番前に居て、小林十市さんが音楽係で、3人だけでした。
オーディションですから、普通はヴァリエーションを一回踊ってそれでOKかどうか、ということになるはずなんですが、ぼくが踊り終わるとベジャールさんが踊りを直し始めるんですよ。「『海賊』のヴァリエーションのここはこうだろう」とか言われて注意されて、「圭右もう一回踊れ」って、結局、4、5回踊りました。そして次のシーズンから入団しました。
----クラシックを踊っていた時は、ベジャールさんのダンスには関心がありましたか。
那須野 ええ、はっきり言ってまったく興味がありませんでした。
日本に居た時はクラシック100パーセントでやってきていたんで、モダンとかコンテンポラリーとかは舞台も観たことありませんでした。今は、国際コンクールでもコンテンポラリーの作品をもっていかなければならない、ということもありますが、ぼくたちの時ってクラシックだけで、他のダンスとか習う暇がないっていう感じでした。
----ベジャールさんはルードラにはよく来ていたのですか。
那須野 ぼくがルードラに居た頃は、ベジャールさんは毎日のように教えにきていましたが、体調を崩されたからは回数がすこしづつ減ってきました。
学校の生徒だけを集めて、新しい作品を創ったりしてましたし、学校はベジャールさんにとってカンパニーとはまた違うが大切な物だったと思います。
6月、7月のシーズンの一番最後になるとツアーがあって、ベジャールさんの過去の作品の抜粋で構成した舞台を踊ったりします。学校公演ですから、剣道が入ったり、グラハム・テクニックが入ったり、歌があったり、リズムを入れたりします。ぼくが1年生のときは、『ライト』『ギリシャの踊り』『コンクール』『ボレロ』、2年生のときは、『ディオニソス』などの抜粋を踊りました。校長はミッシェル・ガスカールで、彼自身がいろいろなベジャール・ダンスを踊ってきましたからね。
ぼく学校にいたころには、イタリアを貸し切りバスで回るツアーがありまして、1ヶ月で21都市21公演。みんな若いですし、舞台に立ちたい踊りたいっていう気持ちが強いから疲れがないんです。ぼくの記憶によれば、友だちも一緒に舞台で踊れて、疲れとかまったく感じなくてすごい楽しかったです。ツアーはガスカールが引率して、たまにはベジャールさんも顔をだしたりします。
----那須野さんはベジャールさんが亡くなられた時は、どこにいらしたんですか。
那須野 ぼくたちは、リヨンへのツアーから帰ってきて2日間休みがあって、ベジャールさんが亡くなった日はみんなローザンヌにいました。
もちろん、ベジャールさんに関わってきた人は、たいへんなショックでした。日本では事情が分からなかったかもしれませんが、ぼくたちは、ベジャールさんのお見舞いにも行きましたし、ぼくたちがローザンヌで公演している時にベジャールさんが病院から救急車に乗ってこられたこともあります。いつかはこうなってしまうだろうっていう心構えがあったんですが、みんなの思いは一緒で、ちょっと急すぎるよねって。ほんとうに受け入れ難い事実だったから、ちょっとみんなバラバラになりましたね。カンパニー全体の大黒柱が亡くなったわけですし、ぼくたちのカンパニーのディレクターですが世界的にもすごい人なんで。
ジル・ロマンは、カンパニーの中でベジャールさんと最もつながりが合ったから、一番傷が深かったのもジルだと思います。ベジャールさんの新作を創っている途中でしたし、12月に公演があるわけですから新作を完成しなければならないし、たいへん忙しい時だったし、今は少し落ち着いてきましたけど。
----カンパニーとしてもたいへんな時期でしたね。
那須野 ベジャールさんにはこういう作品を創りたい、というのがありました。こういう流れでこういう作品を創りたいと、ぼくたちは説明を受けていたので理解していました。ベジャールさんのために一致団結して完成しなければしなければならい、という気持ちが大きかったですね。
お別れ会は、ベジャールさんがよく使っていたローザンヌのメトロポールという劇場を2日間貸し切って行われました。
初日はオープンで誰でもがお別れに来られるようにしていました。ローザンヌの市民を始めたくさんのファンがいましたから。
2日目の夕方から関係者だけで、ベジャールさんがプライベートで好んで聴いていた音楽を流したり、ベジャールさんの言葉とか、エピソードとか、ベジャールさんの古い友だちが進行役でナレーションを務めたりしていましたが、ほとんどみんな泣いてました。ベジャールさんの場合は、ダンスの世界だけじゃないですから、すべてのことで偉大な方だったので。
ただ、はっきり言って、まだぼくもみんなものみ込めてないところがあります。受け入れがたい事実であって、まだ意味がよくわかりません。ぼくはベジャールのカンパニーに入っても8年目なんですが、ずーっとずーっとベジャールさんの家の中でお世話になっていた、という感じです。ホームステイしていたみたいです。
カンパニーのダンサーはワールドワイドでいろんな国の人が集まっています。ベジャールさんが大黒柱でいろんな国の人たちが子供たちという感じでが集まっているんです。
ベジャールさん自身も実際、「子供たち子供たち」と言ってました、ぼくたち全員を集める時には「子供たちこっちに来い」って。40歳過ぎのジルであれ、19歳のダンサーであれベジャールさんの子供でした。組織の中のトップが亡くなったというより、もっと近しい関係というか家族の大黒柱が亡くなったという気持ちです。
----ベジャールさんの最後の作品『80分間世界一周』の公演はいかがでしたか。
那須野 はい。ローザンヌとパリ、ベルギーでも公演しましたけど大成功でした。
ベジャールさんの生き様というか、ベジャールさんって旅するのが好きだったじゃないですか、ぼくたちもツアー・カンパニーだし。
ベジャールさんはインドの舞踊をとりいれたり、中国やアフリカの舞踊をとりいれていろんなバレエを創ってきました。そういう創作活動を繋いで、世界一周する旅です。行くところによってダンスを変えて、ベジャールさんが旅をしているという考え方です。ジルがベジャールさんの過去の作品からテーマに合ったものを探してきて、音楽も振付もそのまま使います。ジルが作品と作品の間をどうつなげるか、多少のアレンジはしていますが、振付に関してはまったく手がはいっていません。
----那須野さんがベジャール・バレエで踊って一番印象深い作品はなんですか。
那須野 『火の鳥』です。ぼくは十市さんが踊っていた『火の鳥』などを学校に居るときから観ています。それからバレエ団に入った時は、回りのパルチザンを踊っていました。それから十市さんが引退されて、しばらく主役の火の鳥のキャストがいなくなったんです。それからぼくと当時いた中国人のダンサーの二人が火の鳥にキャスティングされて、ベジャールさんから覚えなさいっていう話がきました。そしてがんばってぼくが選ばれたんです。その後は十市さんやジルにしごかれましたけど。
ジルは、今、存在している人の中でベジャールさんのバレエを一番理解している人なので、振付もそうなんですけれども、どちらかというとアイディアですね、<どういう風に踊っていけばいいか>というアイディア。テクニック的なことはなにも言われたことはないですが、どういう方向に踊っていかなければいけないか、についてはたいへん厳密です。
このところぼくは『火の鳥』を踊ることが多くて、パリやスペイン、ブリュッセル公演でも踊りましたし、日本公演の後にも踊ります。こういう作品の主役をもらうのは初めてだったので、踊る毎に新しい発見があり、充実しています。今までベジャールさんの作品を踊ってきて、一番踊りがいがあるのは『火の鳥』ですね。
----ベジャールさんの『火の鳥』は、フォーキンの振付とはまったく違っていますね。
那須野 ぼくはベジャールさんからどのようにして『火の鳥』を創ったかということを聞いています。
ベジャールさんが一番大切にしていたのは、「one for all. all for one. 」一人はみんなのために、みんなは一人のために、という言葉です。
『火の鳥』は一番最初にみんな同じコスチュームを着た群舞があって、赤いコスチュームで火の鳥が現れます。一応、火の鳥と言うリーダー的存在があるんですけれど、バレエ全体としては、火の鳥が居て回りが居るのではなくて、回りが居て火の鳥がいる、という、火の鳥が居るから回りがいるのではないから、一致団結しなければならない、という発想で創られたバレエです。
だから、最初にミカエル・ドナールに『火の鳥』を振付けた時も、ミカエル・ドナールを火の鳥にするという考えはあったのですけれども、その回りはドナールといつも一緒に話し合ったり行動しているグループがあった、そのグループをそのまま使ったそうです。ドナールが普段つき合っていたオペラ座の仲間たちをそのまま使ったわけです。だから本当にあれはグループのバレエなんです。
十市さんやいろいろな人が火の鳥を踊ってきましたが、ぼくがベジャールさんからいわれて一番気をつけているのは、自分が火の鳥として踊っていても回りへの目線ですね、パルチザンの仲間を意識して踊らなければいけないし、一緒に踊らなければいけない、ということです。
-----今回の日本公演の見所を教えてください。
那須野 ぼく日本公演はいつも緊張しちゃうんですけど、一番みなさんが気になるのはやはり、ベジャールさんがいない、ということで変化があるかどうかということでしょうか。
2006年の日本公演に比べて大分メンバーが変わっています。メンバーが変わるということはキャストも変わってきますし、そういう意味では、例えば『バレエ・フォー・ライフ』なんて日本で何度も上演していますが、まったく違うキャストで違う楽しみ方が出来ると思います。
ぼくも『バレエ・フォー・ライフ』は、日本で2回踊っていますが、毎回、十市さんも踊っていた「ミリオネア・ワルツ」でした。
ジルがこの間、もう日本でミリオネアを2回踊ったし変えてみないかっていう話があって、日本人だし日本にいく度に同じ役を踊っていいてもしょうがないし。そういうキャスト変更があって、ぼくが別の役を踊ることになっています。どの役を踊るかは、当日のみなさんのお楽しみにしておきましょう。
それからお待ちかねの『ボレロ』。これはどこでやっても大好評です。
ベジャール・バレエ団が日本で『ボレロ』踊るのは、26年ぶり。外国では踊っていますが、リズムもメロディも全員ベジャール・バレエ団のダンサーが日本で踊るのは26年ぶりになります。
ミックス・プログラムはベジャールさんの過去の作品でも代表作ともいえる『これが死か』と、ベジャールさんが最後に創った『イ−ゴリと私たち』、『祈りとダンス』、それに26年ぶりの『ボレロ』というふうにひとつのプログラムとしてみるのに、すごく充実しています。ベジャールさんの作品を観るという意味でいろいろな内容が詰まっています。
ベジャールさんは居ませんが、ジルが引き受けた新生ベジャール・バレエ団です。みんなベジャールさんのためにもやらなきゃいけない、と思っているしエネルギーに満ち満ちていて一致団結しています。ベジャールのバレエをベジャールのダンサーが踊っているから、ぜひ観に来てほしいのです。今回の公演は、ほんとうに今までにも増して最高に気持ちが入っていますので。
(インタビュアー/関口紘一)
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