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唐津 絵理(愛知芸術文化センター・文化情報センター・主任学芸員)
[2010.12.10]

キュレーター・レポート
あいちトリエンナーレ2010 パフォーミング・アーツを終えて

あいちトリエンナーレ2010は、美術と舞台芸術の双方にフォーカスをした複合的な国際芸術祭として、8月21日から10月31日までの10週間にわたる会期を盛況のうちに終えることができた。小ホール公演はすべてチケット完売といった数量的な成果はもちろんのこと、従来の芸術ファンだけではなく、初めて訪れた観客も多く、新しい観客の創造(創客)ができたこと、また全体として中学生以下の入場者がたいへん多かったことは今回の愛知という都市で開催された芸術祭ならではの大きな成果と言ってよいと思う。会場近くにお住まいのご家庭の中には、毎日のように友だちと「遊び」に行っていたという子供たちも少なくなかったようだ。

個別の作品については、Dance Cubeの各月レビューを参照いただくとして、ここでは、パフォーミング・アーツのキュレーターとして、あいちトリエンナーレ2010で意図したことや、終わった現状の雑感など、簡単にレポートしたい。また、個別のレビューで取り上げられなかった作品ついても少し補足しておこうと思う。(個別レビューは下記アドレス参照)

あいちトリエンナーレ2010は、「トリエンナーレ」「ヴィエンナーレ」と称した世界中の国際芸術祭の責務として、最先端の芸術、特に美術の動向を俯瞰的に見せる一方で、近年のジャンルを横断した様々な試みを通して、「今日における舞台芸術とは」、「身体表現とは何か」、といったパフォーミング・アーツの本質を探る試みでもあった。もちろんそれは、劇場やギャラリー、サイトスペシフィックな空間も含めて、演じる、または体験する「場」そのものについても、既存の概念に対して疑問を投げかけるものであろうとした。 
このような意図から、パフォーミング・アーツは大きく3つに分類された。実験的なブラックボックス形式の小劇場で行われた劇場作品。美術とパフォーミング・アーツの境界域に位置するホワイトキューブ型のギャラリーでのパフォーマンス。さらにパフォーマンスを行う従来の「場」そのものから飛び出したまちなかでのパフォーマンス。
これらの公演をほぼ週末ごとに開催し、様々なスタイルのパフォーミング・アーツを都市を回遊しながら眺め、向かい合い、体感する。ひとつの作品をじっくりと眺めるのもいいが、折角これだけのアーティストが集まる国際芸術祭だからこそ、たくさんの公演をハシゴし、シャワーのように浴びて、自分だけの物語を紡いで欲しいと考えた。

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例えば、9月の第1週末のパフォーミング・アーツを振り返ってみたい。
まず、観客は小ホールで行われていたスイスの2人組のデルガド・フッシュの公演に立ち会った後、舞台上で写真撮影を行ったり、ホワイエでパフォーマーたちに振舞われるスパークリングワイン(実は発砲水)を片手におしゃべりしたり、またホワイエに展示された彼らの映像インスタレーションを眺めている。するとすぐ近くのフォーラム(公共スペース)から聴こえてくる音楽。
誘われるままに地下に降りると、まことクラブが公共スペースやエスカレーター、階段などを使ってパフォーマンスを開始。それと同じ頃、ソニア・クーラナは、8階のギャラリーGから観客と一緒に床に倒れるパフォーマンスを開始した。パフォーマンスは愛知芸術文化センターの上部から螺旋を描きながら下降し、長い時間をかけて地下街へと繋がっていく。
促されるままに床に倒れる人や、倒れた人の周りをチョークでふちどりする人など、いつの間にか観客もまた参加者になって床に身を横たえ大地に耳を澄ますのだ。
さらに愛知芸術文化センターの地下2階から出発したまことクラブは、そのまま地下のファッション街を踊りながら通過し、パフォーマンスのメイン会場となる長者町の荷卸場まで向かった。
その前後、長者町から少し北に向かった名城公園では、フランスの振付家ボリス・シャルマッツがイサドラ・ダンカンをテーマにモダンダンスの起源を探りダンスを再構築しようと試みた『Quintette Cercle』を上演。作品後半では、ワークショップでの創作プロセスを経た地元のダンサーも出演した。
ボリスは、このパフォーマンスの元となった体験型インスタレーション『heatre-elevision』(個室でピアノ上に寝そべって1人で体験する)を納屋橋会場にて公開していたし、ヴィジュアル・アーティストでもあるソニアも、会期中愛知芸術文化センターで展示を行っていた。
また小ホールで公演を行った梅田宏明はパフォーマンスと同テーマの体感型映像インスタレーションを展示するなど、もはやパフォーミング・アーツとヴィジュアル・アーツを区別することが無意味に思えてくるほど、アーティストも観客も縦横無尽に作品や空間を行き来することになった。

9月後半の週末には、小ホールにてチェルフィッチュの新作『私たちは無傷な別人である』が世界初演された。
ギャラリーでは、英国のティム・エッチェルスとヴァラトカ・ホルヴァの展示『Over the Table』とパフォーマンス『Quizoola!』が2週に亘って開催され、他にアントニー・ベアも極めて完成度の高い『Laugh』と『Over The Shoulder』の2作品を上演。
さらに名古屋城で開催された池田亮司による『スペクトラ・ナゴヤ』では、強烈な光源で成層圏まで到達する光のインスタレーションが披露された。その威力は電車からその光を目撃した県民が電車を降りるほどで、名古屋城にはわずか2日間で2万5千人を超える観客が訪れるという驚くべき盛り上がりを見せた。

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これらのパフォーマンスに加え、多くの語り合う「場」を設定した。
多くの公演で、作品についてアーティストが自分の言葉で語る「アフタートーク」を開催したほか、参加アーティストどおしの交流の場である「ボーダレスカフェ」、アーティスト自身の創造のプロセスを辿る「トリエンナーレスクール」、そして芸術祭の意義を語る「シンポジウム」と、可能な限りたくさんの語り場を用意したことで、アーティストと観客のいくつもの親密な関係が生まれ、国際芸術祭ならではの濃密なコミュニケーションの場が出現したと感じている。
子供たちに向けた「キッズ・トリエンナーレ」も開催した。
小劇場では、空中ブランコにのって身体で絵を描くアクション・ペインティングや、劇団ままごとの柴幸夫による言葉とリズムによるラップ体験など、ジャンルを超えて身体全体で子供たちの創造性を引き出せるような複合的なワークショップを開催した。ここでは普段入ったこともない劇場を自由に走り回る子供たちの笑顔にいっぱい出会えた。
今回、パフォーミング・アーツ部門における子供向けの取り組みについては、まだわずかに手をつけた程度である。今後、未来のアーティストであり、観客である子供たちに向けた取り組みを強化していきたい。

パフォーミング・アーツの中心会場となった愛知芸術文化センターの小ホールでは、会期中ほぼ週末ごとに計9作品を上演した。
これらは、ヤン・ファーブルや梅田宏明など、ひとりですべてを担うマルチ・アーティスト、またニブロールやローザスなど、ジャンルごとのディレクターによる共同制作など、創作手法は異なるものの、作品そのもののうちに既存のジャンルを超えようとする多様な作品たち。
オープニング公演として開催した平田オリザと石黒浩研究室によるロボット版『森の奥』は、業界内部に留まることなく、芸術と科学による共同という比較的わかりやすいコラボレーションの形式をとることによって、普段、芸術にアクセスしにくい人々にも、瞬時にその意図を理解していただける作品になったと思う。
創作中の平田氏との談話をきっかけとして、急遽ロボット演劇第3弾となる<アンドロイド演劇『さようなら』>を世界初演することになった。
同じロボットとはいえ、車輪で移動する「wakamaru」と人間そっくりの「ジェミノイドF」では、見た印象もその操作方法も大きく異なる。この2つのロボット演劇の試みを通して、科学にとっては、演劇が科学に役立つ状況を創り出す一方で、演劇にとっては目に見える形での現代社会への問題提起と、俳優の役割の懐疑などの新たな思考の場ともなった。今回の公演を観た観客同士が論じたやりとりも含め、あいちトリエンナーレ2010が、人間の本質を考え、社会における芸術や科学の役割にまで問題を拡張し、議論を起こす場となったことは、芸術祭の役割のひとつとして、たいへん有意義なことだった。
それはチェルフィッチュやニブロールなど、すでに一定の評価をえている日本のカンパニーの新作についても同様だろう。あいちトリエンナーレをアーティストにとっての次なるステップとなる実験の場にして欲しいと話し、それに応えるかたちで、彼らは演劇やダンスの媒体そのものを問い直そうとする作品を発表した。すべての公演でのアフタートークを行い、観客と共に語り合う場を作った。初めて舞台を観賞した観客からは素朴な質問も多く、皆さんとても丁寧に答えてくれた。
岡田利規のアーティストトークでは、過去の作品との対比で新作を説明し、一般の人々と舞台芸術について深く思考する場をつくってくれたが、2時間のトークを越えてもなお、質問の途切れることのなかったこの対話の意義は、東海地域の舞台芸術界にとって、ことのほか大きいと思う。

もうひとつ今回のパフォーミング・アーツのプログラムで強く意識したことは、歴史を参照するということ。
現代芸術を語るために最先端のものだけを並べても、それは評判のよい新商品を選んでくるようなものだ。(とはいいつつ、作品は人間であって実は簡単に運んで来れないので、招聘するだけでもプロデユーサーは皆たいへんな労力を使っているわけであるが)ここではリアルな現実に向き合うためにこそ、過去の偉作を投入し、現代の作品と対比することを試みた。
パフォーミング・アーツ、コンテンポラリー・ダンスという言葉すら明確ではなかった日本の舞台芸術界の胎動期、80年代の舞台芸術の最前線を自ら体験している人は多くはないだろう。そこで、一人の振付家の過去(多くの人には伝説となっている)と現在にフォーカスすることでその見えない線を浮き上がらせることが出来ればと考えた。
そこで日本でもファンの多いローザスの振付家、アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルの新旧2つの作品をトリエンナーレのフィナーレに選んだ。
文字通りの最後の公演となったのが、ケースマイケルとコンセプチュアルな作品で定評のあるジェローム・ベルの新作かつ共同制作『ドライ・アップシート』。マーラーの「大地の歌」の最終章「告別」を3回繰り返すことで、観客に3つの「告別」の提案を行うこの作品は、常にダンスと音楽の関係を見つめてきたケースマイケルの新たな音楽への挑戦でもあり、また自身や観客への挑戦状でもあるだろう。そしてこの作品を、極めて保守的と言われる愛知で、そのフィナーレを飾る作品として選んだことも、私たちにとっては大きな挑戦であった。
一方、小ホールでは『ローザス・ダンス・ローザス』を上演した。1983年に初演されたローザスのデビュー作は、昨年、ケースマイケルと池田扶美代の初期メンバーに加え、若手のダンサーが共同で踊る2ヴァージョンがリ・クリエーションされた。愛知ではケースマイケルが踊るヴァージョンも含めて、両ヴァージョンの上演を依頼した。
最終的に、3公演中2回をケースマイケルが踊り、最終公演だけが新しいダンサーだけの上演となった。ケースマイケル自身による上演は近年久しぶりだったということで、これを上演できたことはトリエンナーレとしてもたいへんな幸運だった。

2つの作品と2ヴァージョンの『ローザス・ダンス・ローザス』の同時上演には3つの視点があった。過去の作品が現在どのような意味をもつのか。ダンサーが変わることで作品はどう変化するのか、しないのか。最新作と比較したときに見えてくるものとは何か。
ケースマイケルは、『ローザス・ダンス・ローザス』の前作品『ファーズ』で、スティーヴ・ライヒのミニマル・ミュージックを使用していたように、彼女の初期作品は、繰り返される動きの反復や回転のような動きが多く、70年代のアメリカのポスト・モダンダンスの振付家たちを連想させるものが多い。しかし彼女自身がアフタートークで語っていたように、身体や動きといったダンスの媒体を純化させていくことでダンスは先細っていき、つまらないものになってしまった。芸術のモダニズムの往く先を見つめた彼女がしたことは、極めて人間らしい自然な感情を取り戻すこと。そこには先に亡くなったピナ・バウシュの影響も見て取れるだろう。反復の中から生じる感情のほとばしり、シンプルな動きゆえに、そこにはダンサーの個性が湧き出てくる。
今回の3回の上演を比較することにより、新旧のダンサーの違いによる作品の印象の相違は想像以上であった。ケースマイケルが舞台に居ることによる求心力は、彼女のダンサーとしての今も変わらぬ力量を見せつけたし、若手ダンサーだけのヴァージョンでは、ダンサー個人の、また彼女たちの女性としての魅力を引き出す普遍的な作品として、旧作が今の時代に全くの新作のごとく生まれ変わる瞬間も目撃した。
その一方で、今もなお、新しい試みを続けるケースマイケルの現在の挑戦として『ドライ・アップシート』の存在がある。イクトゥスの音楽家たちは、ケースマイケルの音楽的探求に敬意を払い、音楽家としては異例なほどの彼女の大胆な提案を受け入れている。ジェローム・ベルもまた、『ローザス・ダンス・ローザス』の初演を観たときから、彼女の才能に注目しており、それが今回の共同制作に繋がった。
私はこの2つの作品とその軌跡の中に、コンテンポラリー・ダンスの歴史的変遷をみる。いやむしろ、『ローザス・ダンス・ローザス』の発表された83年の時点ですでにコンテンポラリー・ダンスの主要な特徴がそこに凝縮されていることに驚きを新たにした。そして今またそこから大きく飛躍するために、新たな共同制作に果敢に挑むケースマイケルの姿勢に、今回パフォーミング・アーツ部門に参加してくれたアーティストたちの挑戦が重なってみえた。

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あいちトリエンナーレ2010を通して、アーティストたちの数々の果敢な挑戦を目のあたりにした。個性的な彼らだが、皆一様に現状に満足することなく、さらに未来を見つめているという点で一致している。ジャンルを超えることが目的なのではなく、既存の表現に満足できない彼らが選んだ手法こそが、ジャンルの横断であり、既存のスタイルからの越境なのだろう。
「都市の祝祭」というお祭りの雰囲気に誘われて、わけもわからず、でも参加してくれたたくさんの人たちが、作品鑑賞とアーティストや友人との語らいを通して、自己の内面と向き合いながら、新たな発想への萌芽や未来に向かうための勇気を得ることができたとしたら、何よりも嬉しいことである。
さらに、このたびメイン会場のひとつとなった長者町では、トリエンナーレの成果の継承と発展を願って、「長者町界隈アート宣言」が提出された。こうした県民の自発的な試みこそが次のトリエンナーレのエネルギーとなるだろう。関わってくれた沢山の人たちに感謝し、今回の出来事が次回に繋がっていくように、愛知芸術文化センターでの活動と継続させながら、また新たな一歩となる対話を積み重ねていきたい。

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<あいちトリエンナーレ2010パフォーミング・アーツ 個別の公演レビュー>
ロボット演劇
http://www.chacott-jp.com/magazine/world-report/from-osaka/post-67.html
デルガド・フッシュ
http://www.chacott-jp.com/magazine/world-report/from-osaka/nagoya1010b.html
まことクラブ
http://www.chacott-jp.com/magazine/world-report/from-osaka/nagoya1011e.html
梅田宏明
http://www.chacott-jp.com/magazine/world-report/from-osaka/nagoya1010c.html
コンタクト・ゴンゾ
http://www.chacott-jp.com/magazine/world-report/from-osaka/nagoya1011d.html
ヤン・ファーブル
http://www.chacott-jp.com/magazine/world-report/from-osaka/nagoya1010a.html
平山素子
http://www.chacott-jp.com/magazine/world-report/from-osaka/nagoya1011c.html
ニブロール
http://www.chacott-jp.com/magazine/world-report/from-osaka/nagoya1012d.html
『ローザス・ダンス・ローザス』(昨年度上演時)
http://www.chacott-jp.com/magazine/world-report/from-others/others0910a.html
『ドライ・アップシート』
http://www.chacott-jp.com/magazine/world-report/from-tokyo/tokyo1012f.html

*なお、まことクラブとコンタクト・ゴンゾのレビューについては、あいちトリエンナーレ2010期間中に開催した、アートを文章で伝えることを体験する「アートマネージメント実践講座~広報コース」に在籍していたメンバーによって執筆された原稿を元に、加筆・訂正されたもの。