東京バレエ団『ドナウの娘』
第15回神奈川国際芸術フェスティバルの一環として、東京バレエ団が『ドナウの娘』を再演した。伝説の舞姫、マリ・タリオーニのため、父フィリッポ・タリオーニが振付けたロマンティック・バレエの香り高い作品だが、1978年にピエール・ラコットが復元・蘇演するまで長いこと埋もれていた。今回は、2006年の日本初演に続く再演である。
ドナウ川の岸辺で見つけられたフルール・デ・シャン(「野の花」の意味)と男爵の従者ルドルフの愛を、彼女を花嫁に望む男爵をからめて描いた作品。自分たちの仲を告げたルドルフが反逆罪でとらわれると、彼女は絶望して川に身を投げ、ルドルフも後を追う。ルドルフが水の精の中から恋人を見つけ出したことにより、二人はドナウの女王の許しを得て地上に帰る。現実世界と川底の幻想世界の対置や水の精の登場など、いかにもロマンティック・バレエらしい展開だが、『ジゼル』と似通った場面が垣間見られた。作曲者は『ジゼル』と同じアダンだが、音楽の完成度は『ジゼル』に及ばなかったようだ。
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| 『ドナウの娘』 |
『ドナウの娘』 |
フルール・デ・シャン役の斎藤友佳理は、やわらかな足さばき、ゆらめくような腕の動きで、しっとりとした情感を漂わす。男爵の花嫁選びのシーンでは、ヨタヨタ歩き、気がふれた真似をする一方、陰でルドルフと素早く気持ちを確かめ合うといった演技も自然さを増した。ルドルフの木村和夫は軽やかなジャンプで登場し、恋に一本気な青年を好演。二人のパ・ド・ドゥは、冒頭の愛を確かめるような楽しげなやりとり、ルドルフが夢の中で彼女の幻と踊る静かなデュオ、川底での魂を浄化するような踊りと、対比が生きていた。
男爵役の中島周は跳躍などに冴えた技を見せたが、若々しさが先に立ち、重々しさは今一つ。男爵とパ・ド・サンクを踊った4人は粒ぞろいだったが、最初と最後のソロを踊った高村順子と小出領子が際立った。ドナウの女王の井脇幸江は、母のような慈しみで二人を包み込んだ。村やお城での群舞の配置や構成には様々な趣向がうかがえたが、水の精の群舞には、『ジゼル』と比べるわけではないが、物足りなさを覚えた。ただ、再演だけに、踊り手たちは役柄を深め、アンサンブルも練れていた。
(2008年4月29日、神奈川県民ホール)
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マドモアゼル・シネマ『ざわめきの4月』
マドモアゼル・シネマは、1993年、セッションハウスのレジデンス・カンパニーとして伊藤直子を芸術監督に創設された女性ダンサーのみによるカンパニー。伊藤は旺盛な実験精神を発揮して、ダンサーの個性を生かした、舞台と客席の仕切りがない小空間ならではの演出を模索し、世の中や人の心の微妙な側面を独特のユーモアを交えて提示してきた。2002年には初の海外公演を行って活躍の場を広げたが、今年6月にはルーマニアの「シビウ国際演劇祭」に参加するという。そんな意気軒高なカンパニーが、初めて男性ダンサーと共演した。題して『ざわめきの4月』。(マドモアゼル・シネマ)2として、「異」をキーワードに団員が選んだパートナーと“同伴出演”したものだ。6人の団員中、5人が男性を招いたことで、いつもと、ちょっと異なるステージが展開された。
〈男と女の間には、深くて暗い川がある〜〜〉で始まる野坂昭之の「黒の舟歌」が流れる中、13人のダンサーが登場。川の手前と向こう側に分かれたように呼応してみせたり、合流したり分岐したり、全員で環となり渦を巻いたり。留まるところを知らぬ流れのように、絶えず変化し続ける男と女の個性的な関係が、エピソードを脈絡なく連ねるように次々に繰り広げられた。メジャーを口にくわえて引っ張りあう女と男、口にくわえたミカンを落とさないように危うい振りもみせて交感しあう女と男、青いハート型の風船を抱えて踊る男と女、手紙を書く女、水の入ったバケツを両手にさげる男……。様々な光景を旅した後、一群となったダンサーたちの上に桜の花びらが降り注ぎ、波の音が高まって終わった。踊りのスタイルや強度、パートナーとの関係性の濃淡は多様だった。男と女のあり方に対する考察は、深刻すぎることはなく、かといって淡泊すぎもせず、程良い刺激を含んでいた。マドモアゼル・シネマの特質といえるだろう。なお、男性とのコラボレーションは初めてとは思えないほど、彼らはマドモアゼル・シネマに溶け込んでいた。これは、女性優位で創作に取り組んだからだろうか。
(2008年4月12日、セッションハウス)
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| 『ざわめきの4月』 |
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