佐々木 三重子 text by Mieko Sasaki
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東京バレエ団『ラ・シルフィード』

 東京バレエ団がロマンティック・バレエの傑作、『ラ・シルフィード』(ラコット版)を上演した。ダブルキャストのうち、近年、海外での活躍が目覚ましい吉岡美佳と、ジェイムズは初役という木村和夫のペアを観た。
 シルフィード役の吉岡は、コケティッシュな印象はそう強く押し出さず、しっとりとした輝きを漂わせていた。木村は、意固地で、いかにもストレートに感情をぶつけてしまう青年といった役作りで、ジャンプにも硬質な感触が見てとれた。婚約者エフィー役の西村真由美は、喜びや戸惑いなど、揺れ動く心を自然体で素直に表現していた。
エフィーとジェイムズの間にシルフィードが割って入るパ・ド・トロワは第1幕の見せ場だが、ジェイムズと踊りながら相手の素振りに不自然さを感じるエフィーと、彼女に気付かれないように用心しながらジェイムズの気を引くシルフィードと、二人の間で揺れ動くジェイムズと、それぞれの心の内が微妙なバランスでダンスに織りなされ、実にスリリングだった。ただ、木村のジャンプは、この場面では少々力強すぎたかもしれない。
うっそうとした森の中が舞台の第2幕では、吉岡がふわりとしたジャンプやバランスに一層の安定感を見せ、木村も思い切りのよいジャンプで心の高揚を伝えていた。木村は、もっと踊り込めば、足先の細かな表現も自然に備わるだろう。
 ほかに、高村順子と古川和則が柔らかな足さばきで第1幕のパ・ド・ドゥを踊った。魔法使いのマッジは平野玲が演じたが、第2幕では空気を揺らさんばかりの気迫のこもった動きでジェイムズへの激しい復讐心を表出し、舞台を引き締めた。繰り返し上演してきた作品だけに、手堅く卒のない展開で楽しめた。
吉岡美佳、木村和夫 吉岡美佳、木村和夫、西村真由美
(6月29日、ゆうぽうと簡易保険ホール)

オーストラリア・バレエ団『白鳥の湖』『眠れる森の美女』


 何とも衝撃的な『白鳥の湖』とオリエンタルな美術で迫る『眠れる森の美女』を携えて、オーストラリア・バレエ団が11年振りに来演した。「伝統を重んじ、冒険を恐れず」という芸術監督デヴィッド・マッカリスターのポリシーを端的に伝える演目だった。
『白鳥の湖』は、オデットをダイアナ元妃、ジークフリート王子をチャールズ皇太子、ロットバルト男爵夫人をカミラ夫人にダブらせるという大胆な発想で話題をまいた。何しろ、プロローグを結婚式前夜に設定し、オデットが王子への不信感に悩み、王子が男爵夫人に誘われてベッドに倒れ込むシーンを挿入したのだから。2002年、団の創立40周年記念する作品として、グレアム・マーフィーが振付けたものである。

更に注目すべきは、チャイコフスキーの音楽を1877年の初演時に戻したことで、削られた曲は生かされ、後で追加された「マズルカ」やナポリやスペインの踊りは省かれた。曲順も原曲通りに並べたそうで、"黒鳥のパ・ド・ドゥ"の曲は第1幕でオデットが懐疑心に苛まされていく場面に使われ、「チャルダッシュ」は婚礼の祝賀会で披露する形で踊られ、「ロシアの踊り」は男爵夫人が開いた舞踏会で、夫人が王子を惹きつけようとするソロに用いられた。それにしても、音楽とドラマと踊りは、驚くほど上手く溶け合っていた。

物語の続きだが、婚礼祝賀会で男爵夫人を慕う王子に傷つき我を失ったオデットは、王室の命令でサナトリウムに送られるが、夢の世界で白鳥たちに慰められ、王子と愛し合う。オデットは男爵夫人の舞踏会に侵入して王子の心をつかみ、湖畔で愛を確かめるが、自ら湖底に沈み、彼女を悼む王子の姿で幕が下りた。祝賀会でエリザベス女王に似た女王を登場させて王室とダイアナの冷たい関係を暗示し、男たちに次々にリフトされるオデットの姿にダイアナの人気や華やかな交際を匂わすなど、描写は細かい。サナトリウムの白い装置は純真な心を、舞踏会を覆う黒は妬みや悪意を象徴するようで、興味は尽きない。
カースティン・マーティンは振幅の激しいオデットの感情を全身で伝えていたが、サナトリウムで裸足で踊る姿が痛ましかった。王子役のダミアン・ウェルチは、しなやかな身のこなしで、外向きの顔と情熱的な心を巧みに演じ分ける。幕ごとに趣の異なる二人のパ・ド・ドゥも味わいがあった。ロットバルト男爵夫人のオリヴィア・ベルは構えた動作で威厳を漂わせていたが、舞踏会でのソロは情念の表出が今一つだったようだ。それにしても、古典名作を現代に引き寄せ、現代人の共感を誘う愛の葛藤を描いたマーフィーの手腕に感心させられた。
(7月14日夜、東京文化会館)

『眠れる森の美女』は、2005年にスタントン・ウェルチがプティパ版に基づいて振付けたもの。特色は、カラボスを冬の魔女で悪の象徴、リラの精を春の女王で善の象徴としただけでなく、二人を姉妹にして両者の対比と闘いを強調した点だろう。オーロラの誕生を祝う妖精たちを水や火など自然界の"4大元素"に、求婚する王子を東西南北の方位になぞらえてもいる。女王の出産を王がカーテンの外で見守るシーンを挿入したのは良いとして、原作にはないフロリムント王子の弟、フロレスタン王子を加えたのには疑問が残る。

面白かったのは、16歳の誕生日を迎えたオーロラが、カラボスが持つ黒薔薇に興味を覚え、花束を奪い取って踊り始めるが、棘で指を刺されると、カラボスに平手打ちを食わせるところだ。何とも勝気な王女様である。オーロラ役のルシンダ・ダンが、はじけんばかりの若さを強調するように現れ、ローズ・アダージオをどこか強気に踊ったのも理解できた。ただ、その後の展開は従来通りで、幻影のオーロラはフロリムント王子としとやかに舞い、婚礼の場では自己をわきまえた女性として、王子と息を合わせて踊っていた。
フロリムント王子のマシュー・ローレンスも弟のフロレスタン王子のケヴィン・ジャクソンも、リズムとスピードに乗ったジャンプや回転を披露。リラの精のダニエル・ロウが、全体を包み込むように演じれば、カラボス役のオリヴィア・ベルはシャープな演技で応じた。地の精役の久保田美和子も手堅く踊っていた。

クリスティアン・フレンドリクソンによる衣装と装置も凝っていた。宮殿は東洋的なイメージを演出したそうで、カラボスが支配する冬の森林の世界と、オーロラが目覚めて迎える色彩豊かな春の世界への転換が鮮やかだった。頭飾りや首飾りをつけた妖精たちは総タイツに半透明のスカートという姿で、求婚する王子やお付きの人たちの衣装にも意匠が凝らされており、美術の占める比重は大きかったようだ。
(7月16日、東京文化会館)

デヴィッド・ビントリー、『美女と野獣』を語る

英国バーミンガム・ロイヤル・バレエ団(BYB)の芸術監督、デヴィッド・ビントリーが、来春予定される同団の13年振りの日本ツアーのプロモーションのために来日した。演目は、前芸術監督、ピーター・ライトによるお馴染みの『コッペリア』と、ビントリーが2005年に演出・振付けた『美女と野獣』の2作。自作やバレエ団について聞いた。
子供のころから童話やおとぎ話が好きだったというビントリーは、『美女と野獣』のバレエ化を20年以上も温め続けていたという。
「この物語の闇の世界や心理的な面に惹かれていたが、王子が野獣に変えられてしまう理由が納得できずにいた。そこで、王子だけでなく、宮廷そのものが魔法をかけられて動物の世界になるという形を思いついたのが20年、いや30年前かなあ。だが、状況が整わなければバレエ化に取り掛かれない。作品に合った作曲家やダンサーが必要です。まず、鋭い刃を感じさせる音楽が欲しかった。グレン・ビュアーのCDを見つけたのは偶然で、彼のリズミックな音楽を聞いて、踊りやすい曲を書いてくれると思い、委嘱しました」
子供も楽しめるお話だが、「様々な要素が複層的に積み重ねられており、官能性や性的特質、精神的問題も含み、人間の心の底に潜む闇にも分け入る」と、奥深さを強調。振付では、ベルと野獣の微妙な心の変化を伝えるパ・ド・ドゥや、欲深いベルの姉たちの醜い振り、金持ちコショの滑稽な仕草、動物たちの宮廷舞踊を考えるのを楽しんだようだ。
また、ヨーロッパ文学では森は知ることのできない不可解なもののシンボルであるとも指摘。「森は危険な場所で闇を表すが、自然界そのものでもある。王子を野獣に変えるのは森番だが、私は森の長(おさ)のような神格化した存在として描いたつもりだ。結局、このバレエは、森の長がいかに自然界の秩序とハーモニーを取り戻すかの物語なのです」
 BYBの芸術監督に就いたのは1995年。まず、保守的な作品に偏っていたレパートリーを改めることに着手。お蔭で、古典と、BYBや英国ロイヤル・バレエ団のために創られた"遺産"と、新作とをバランス良く上演できるようになったという。ちなみに芸術監督就任のお披露目は、新国立劇場でも上演された『カルミナ・ブラーナ』初演だった。
 ダンサーに対しては、言われた通りに踊るだけではダメで、創造性を育くむよう指導している。「振付家が探し求めているものを察知し、それを即興で表現できるということは、一種の才能といえるだろう。それができない偉大なダンサーもいるがね」と笑い飛ばした。
最も影響を受けた振付家としてアシュトンとバランシンを挙げ、バランシンはベートーヴェンで、アシュトンはモーツァルトと、作曲家になぞらえた。「一番好きなのはアシュトン。実に素晴らしい職人だと思う。ソロやアンサンブルなどを混ぜて、バレエ団全体を踊らせてしまう。バランシンの振付はアシュトンよりも力強く、創意に富んでいるが、中には間違ったステップもある。だがアシュトンは、どのステップをとっても完璧で、驚くほど洗練されている。また、バランシンの筋のない作品は極めて抽象的で、ヒューマンな所がなく、ダンサーはただ踊るだけだが、アシュトンの作品は、たとえ筋がなくても感情がこめられており、いつもヒューマンだ」と、アシュトン賛美に終始した。
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