藤井公・利子『観覧車』、笠井叡『冬の旅』
藤井公・利子が東京創作舞踊団を結成したのは1961年。その以前の小森舞踊団を後継した時代を含めて、<藤井公・利子の現在>を『観覧車』という作品にまとめた。いわば、<生きるDANCE半世紀>を<老いと青春 移りゆく季節と追想の対話>で綴った舞台だろう。
プロローグと8章に分けた構成で、柳下規夫、五井輝、加藤みや子、本間祥公、小黒美樹子、高野尚美、藤井香ほかの錚々たるメンバーが踊った。「悠遠な時の中に」や「愛しい人々」といった希望の時代から、「破壊への足音」の危機感、「深い青い空」「悔恨」「風魂」「落日」に至る存在のコアに迫る姿、そして「野糞先生」の明るく突き抜けた現実まで、二人の人生の沿革を辿った、独特のスケールの大きさを感じさせるダンスであった。
(6月5日、東京芸術劇場中ホール)
笠井叡の『冬の旅』は、フランツ・シューベルトの有名な歌曲集に寄せる、とただし書きを付し、<ロマンティック・ダンス>という言葉も加えられている。しかしもちろん、「…それは骨の随に横たわっている、石炭のように燃える鉱物ロマンであり、一切の人間的な情念を拒絶している、金属を結晶させるようなエネルギー」という意味で使われている<ロマンティック・ダンス>である。
舞台は薄いベージュの床、同じ色の衣裳を着けた5人の女性ダンサー(全員二世ダンサーだそうだ)が踊る。セットは舞台奥に、剥き出しのバスタブとシャワーが1本立っているだけである。シャワー口からは一筋の水が間断なく落ちていたり、止まったり、かと思うとシャワーから吹き出してバスタブに降り注ぐ。この無機質なオブジェと水流の不規則な間隔が、自然の有り様というか人間の心の外の情景を巧まずして象徴しており、たいへん感心した。
そしてそれはまた、ダンサーの作る人間の身体の動きのリズムと絶妙のコントラストを描いていて感銘を受けた。くどいようだが、この意外なオブジェを使った簡明なセットが、シューベルトの『冬の旅』の世界をこのように見事に象徴すると想像できなかった。望外な歓びを感じた舞台であった。
(6月17日、セッションハウス)
金森穣『sense-datum』、前田清実『きらめく背骨』
金森穣の『sense-datum』を静岡県舞台芸術公園の楕円堂で観ることができた。
この作品では、サルトルの良く知られた小説『嘔吐』の一節をナレーションとして使い、Noism06のダンサーが「ウッ」とか「オッ」「ワアッ」などといった生理的な音声を発しながら踊る。暗い舞台に青いスポットがいくつか当てられ、そこを中心にしてダンスが始まる。動きが交錯し、混沌としたダンスが展開される。楕円堂の背後が開きまばゆい自然光が射し込み、ダンサーの出入りが繰り返される。
プラチナブロンドのかつらを着けたり、取り除けたりする動きがあり、次第に男性と女性の性差が希薄になり、やがて観客にもどちらか不明になる。 |
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金森によると、髪の毛は変化するものでありかつ自分ではコントロールできないし、性差をも表すもの、とのことだった。
『sense-datum』は、言葉や記憶を媒介としない「あるがままの身体」そのものを、ダンスを通して改めて捉え直そうという試みである。スタジオというダンサーの存在を証明する場所を追究していく過程で生れた作品といえるだろう。
(6月24日、楕円堂)
「背骨が見えない世の中になってきた」という想いが、『きらめく背骨』を演出・振付けた前田清実にはあった。そこから、彼女とほぼ同じ年齢の東京タワーに現実の背骨を仮託した作品を発想したのだろうか。
舞台中央に4脚の鉄パイプの塔が設置され、途中には周囲を見晴らす観覧所がある。塔の真下には穴が穿たれている。
まずは、若井田久美子が塔の最上部から白い布を使った、鮮烈なエアリアル・ダンスを披露し、観客を魅了した。そして塔を巡って様々な動きが繰り広げられる。痙攣的な動きや祭りのようなリズムに乗った動き、カップルができたり孤独に踊り続けるものもいる。ヴァイオリンの強烈な演奏とヘリコプターや豪雨などの自然音、時折、甘いメロディーも流れた。こうした混沌が作者が観ている現実、ということなのだろうか。
あるいは自分の感覚に忠実に、その実感的なものを切りとって観客に提供しているかのようにも見えた。不協和な動きや激しい破壊的表現が悪いというわけではないが、ダンスシーンに説得力をもたせることに注意を向けたほうがいいのかもしれない。
(6月16日、新国立劇場小劇場) |
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