●伊藤キム『禁色』
舞踏を原点とする伊藤キムが、後輩の白井剛と組んで三島由紀夫の長編『禁色』を舞踊化、精神と肉体が乖離・和解する濃密な舞台を創り上げた。
三島の『禁色』は、女たちに裏切られ続けた老作家が、女を愛せない美青年と契約を結び、女たちに復讐しようとする物語で、当時はまだタブー視されていた男色を扱って論議を呼んだ。
また、これを1959年に土方巽が大野慶人と舞踊化し、舞台で雄鶏を絞め殺して衝撃を与えた公演は、舞踏の起源とされている。伊藤は、そんな歴史的重圧をはねのけ、独自の世界を築き上げた。
耳をつんざく大音量のロックと共に、素裸の伊藤と白井が現れ、舞台後方から前方へ、手前から奥へと何度も走って往復する。股間を誇示し、もてあそびもする。
ゲイ・パーティーの描写だろうが、のっけから淫靡さを打ち砕いてくれた。狂宴の後、二人はシャツやズボン、靴を身につけ、日常の姿に戻って踊る。
ギターの調べで伊藤が踊るソロは、つま先や膝、腰、上体などの各部をバラバラの方向に曲げたポーズが、老作家の屈折した精神の表れのように見える。
伊藤の並でない力量をうかがわせた。続く白井のソロは、操られる美青年か、腰を上向けに倒れては起き上がる動作を、快楽のように繰り返す。
雪のような白い粉が降り注がれる中、白井が目を見開き、大口をあけて佇み続ける様は異様だった。
再びロックが鳴り響くと、二人のデュオが始まる。
白井はすがりつく伊藤を蹴り倒し、伊藤はおぶさる白井を床に落とし、また共に転がると言ったように、引き合い、はじき合う。
大の字に寝ころぶ伊藤の頭や腕、胴、脚の間を縫うように、白井が床を踏み付けるシーンは、伊藤の支配を断ち切ろうとする白井と、恍惚として身を委ねる伊藤の親和を物語るようだ。
小説最終章のチェス・ゲームの読み替えだろうか。マーラーの「アダージェット」の甘美な旋律にのせて、
立ち上がっては転び続けた二人が背を丸め、 並んで床に座る姿は、互いに補完しあう共生を象徴するようで、静かな余韻を残した。
白い壁や床を赤や黄のライトで照らし、ダンサーの奇怪なシルエットを壁に投影するなど、足立恒の照明が効果的だったことも、付け加えておきたい。
(6月9日、世田谷パブリックシアター) |
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●〈第44回新鋭・中堅舞踊家による現代舞踊公演〉
新鋭と中堅の作品を一挙に紹介する、現代舞踊協会恒例の行事。第44回を迎えた今年は、二十二作品が二夜に分けて上演された。その二日目を観た。
小林容子の『BOX―khaosへの祈り』は、白い箱を開けたことでもたらされた混乱と悲劇を描いたようだが、箱が象徴するものが今一つ鮮明に伝わらない。
花の冠を乗せた白い衣装の娘と、後半をリードする黒い衣装の女の扱いに、もう一工夫あればと思った。『乾いた地』は小田みさえと中村信夫の共同制作。
掌を広げ、腕や脚を振り上げ、回転し、引き合い、ダイナミックに踊るが、どこか隙間を埋め切れない男女の姿が感じられた。
ニシムラヤスコの『時間はすべてに舞い降りる』は、四人のダンサーが降り注がれる音に反応するように様々な動きを見せたが、「きよしこの夜」や英語ニュース、
振り子やサイレンの音など、雑多すぎる音のため求心力が弱まってしまい、作者の意図がつかみきれなかった。
渡辺麻子の『ありふれた日常―私の部屋』は、白いランタンを上手く生かした佳作。照明が点滅するたびに、三人の“私”がランタンのそばで座ったり、寝そべったり、ポーズを替える。
次はランタンを抱え、引きずり、縦や横と様々に並べ変えて、たわむれる。それだけなのだが、冴えた構成が印象に残った。『Flightless birds―空への憧憬―』は、振付者のさとうみどりが古木竜太と組んで踊った。男は後の壁に突き進み、舞台から落ちるなど大きく動くが、女は小規模な動きと対照的。
ただ、飛ぶことへの憧れや希求は、真に迫ってはこなかった。肥後宣子の『EXIT いくつの道を歩いたら……』は、闇に立つ女が、ここでないどこかを求めてもがくが、
果たせずに悄然と佇む様を描いたのだろうか。五人のダンサーの掛け合いをもっと練り上げれば、作品の奥行きも増すと思う。
稲葉厚子の『鳥よ!!-融和-』では、黒い衣装の女性ダンサーたちが、太鼓を叩いて歌う男の登場を境に、一人を残して白い衣装に着替え、腕を鳥の羽根のようにうねらせ、白い布を波のように頭上に掲げる。
絵画的な情景は見られたものの、彼女たちの間を縫うように歩く黒い衣装のままの女との係わりが描ききれていなかったようだ。
熊澤純子・美子による『ブーツを脱いで……(平和への祈り)』は、暗示されたテロに立ち向かう五人の女性ダンサーを描いたインパクトのある作品。
こぶしをかざし、脚を振り上げ、急回転し、床に倒れ、立ち上がる。戦闘的な一人が他の四人に制されてブーツを脱ぐが、その心の推移をもっと丹念に描き込めば、訴える力も強まったろう。
『魂の赤い花』は立石美智子のソロ。ロングドレスで床に座る立石が、スカートを頭から被ったり、寝転んで脚を上げたり、四つん這いになったりするが、動きの語彙が限られており、全体に抽象的すぎたようだ。
山下美代子の『HOLE〜それは小さな穴からはじまった〜』は、四人のダンサーが円筒の中心=穴をのぞくシーンで始まる。
円筒を担いだり、平らに広げて、その上に寝転んだり、縦に四本つないだりと、色々に遊ぶ。
突然、背後の幕が開き、ソプラノ歌手がピアノの伴奏で歌い始めるのだが、その落差があまりに大きく、違和感を覚えた。
洒落た遊戯感覚を持っているのだから、それで押し通して欲しかった。締めくくりは、内田香の『Rose
Rose』。床に敷かれた赤い花びらや、舞い落ちる赤い花びらの中で、赤い衣装の男女が流れるように力強く踊り、また静止しては動く。
絵画的な雰囲気のある作品で、女が一人、床に手がつくまでブリッジの形で背を反らせていく姿が残像を結んだ。
十一作品はそれぞれに個性的。上演時間十分という枠の中でも、テーマの設定や展開次第で、充実した成果を上げられることを実感した。
また、参加した振付家とダンサーの大半が女性だったことに、改めて驚かされた。
(6月10日、東京芸術劇場中ホール)
●ベルリン国立バレエ団『ラ・バヤデール』『ニーベルングの指環』
ベルリン国立バレエ団は、2004年、ベルリンにある三つの歌劇場のバレエ団を統合して誕生した国内最大のバレエ団。
統括するのは、2002年からベルリン国立歌劇場バレエ団(旧東独)の芸術監督を務めていたウラジーミル・マラーホフである。
そのマラーホフ振り付けの『ラ・バヤデール』とベジャールの大作『ニーベルングの指環』で初来日を飾った。
『ラ・バヤデール』(プティパ原作)は、1999年にマラーホフが初めて振り付けを手掛けた作品で、2002年のベルリン国立歌劇場バレエ団での上演に際して改訂を加えたという。
古代インドを舞台に、戦士ソロルが寺院の舞姫ニキヤと愛を誓いながら、領主の娘ガムザッティとの政略結婚に心を動かしたことから起こる悲劇を、ニキヤに横恋慕する大僧正をからめて描いた異国情緒豊かな作品。
マラーホフの演出は、ソロルの心の動きを際立たせながら、随所に踊りの見せ場を築き、寺院崩壊のクライマックスへと、よどみなく運ぶ。
ユニークなのはソロルがニキヤに贈った白いスカーフの活用で、大僧正はこれをソロルの心を伝えるものとして領主に示す。
結婚式ではガムザッティがスカーフを手にするや、これに血が滲んでニキヤ殺しが暴かれることとなり、ソロルの悔恨の念を引き立てた。 |
『ラ・バヤデール』
マラーホフ/ヴィシニョーワ |
初日は、マラーホフのソロル、客演のディアナ・ヴィシニョーワのニキヤ、ベアトリス・クノップのガムザッティという配役。
ターバンを巻いて登場したマラーホフは、颯爽として、いつもより長身に見えた。 第一幕のソロルとニキヤの密会では、甘く流れるようなデュオが、シフトなどを用いて激しさを加え、燃え上がる愛を伝えた。
一方で、圧力に翻弄される弱さや抗おうと悩む心を自然体で表した。 ヴィシニョーワとクノップはテクニックも安定しており、前者のたおやかな振りと後者のバネのきいた強靭な踊りが好対照をなした。
黄金の仏像のマルチン・クライエフスキーも高いジャンプを卒なくこなす。ただ「影の王国」での精霊たちによる群舞は、有名なだけに、今一つ精緻さが求められる。
バレエ『ニーベルングの指環』は、ワーグナーの同名の楽劇を下敷きにベジャールが作舞し、1990年10月の東西ドイツの統合に先立ち、3月にベルリン・ドイツ・オペラ(旧西独)で初演したもの。
日本では同年10月にベジャールのバレエ団が上演済み。 世界制覇を約する指環をめぐる権力抗争に神々や人間界の愛憎が絡み、多くの普遍的な問題を投げ掛ける四部構成の楽劇で、上演に四日を要するが、
ベジャールは、1989年のベルリンの壁崩壊を踏まえて独自の解釈を加え、上演時間四時間半弱の二部構成のバレエに刈り込んだ。 物語は、原曲を編曲したピアノ独奏と、オーケストラや歌唱のテープ演奏で進行する。
『ニーベルングの指環』 |
バレエ・スタジオを思わせる舞台に、弁者(ミカエル・ドナールが熱演)を語り手として起用し、さすらい人と神々の長ヴォータン役を別に設けて複眼性を持たせ、
火の神ローゲにヴォータンの分身的な役割を与え、また原作にない人物を登場させ、場面の順序を変えるなど、卓越した演出である。 ダンサーではブリュンヒルデのポリーナ・セミオノワが輝いていた。
黒革服で槍を持ち、腰を回す所は、ワルキューレ(戦乙女)の逞しさに欠けていたものの、父ヴォータンとのデュオでは、背をそらせて父の膝に頭を乗せ、
親子相姦的なキスを受ける衝撃的なシーンもあり、夫となる英雄ジークフリートとのはずむようなデュオ、また愛に殉じる前のローゲとの官能的なデュオで、たおやかな魅力を発揮した。 |
竹馬のような長棒に乗った巨人族の出現、ジークムントとジークリンデのまとわりつくようなデュオ、歌も歌うミーメの達者な演技など見所は多く、 また左足にトゥーシューズ、右足にハイヒールをはいたグリムヒルデがアルベリヒと交わりハーゲンを生む提示は、
親子ながら双子を思わせるアルベリヒとハーゲンのデュオと合わせて、歪められた人格や陰謀を匂わせて鮮烈な印象を刻んだ。 人間の業をひたと見据えたベジャールだが、苦しみの果てに世界の終焉に立ち合う幕切れに、ワーグナーの『パルジファル』の音楽が流れ、救いを暗示して終わる。実に壮大な叙事詩だった。
(6月25日、東京文化会館/※写真は24日の舞台より)
ジークフリートと竜 |
神々と巨人族 |
さすらい人とローゲ
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