●田中泯 独舞『赤光』
農作業を創作の源にする異色の舞踏家、田中泯による独舞『赤光』は、田中の新たな境地を示す舞台だった。
『赤光』は、齊藤茂吉の同名の歌集から、編集工学研究所所長の松岡正剛が、生と死、心と体を軸に、人間の諸行を織りなす十七段の次第をからめて選歌した八首を元に、三部構成にまとめたもの。
和歌の書かれた軸は、各部の状況を暗示するものとして上から吊るされたりするが、これを田中の舞踏で解読するのは難しい。
太鼓の大倉正之助、能管の一噌幸弘ら逸材を共演者に得られたのは、新国立劇場の委嘱だからだろう。
暗闇に白いスーツ姿の田中が浮かび上がる。黒い玉石の上にしゃがみ、よろめくように歩き、両腕を上げてふんばる。
その緩慢な動きから、不思議な霊気が放たれた。細かい雨が降り始めると、玉石が濡れて光沢を放ち、田中の体にスーツがまとわりついた。
客席後方から、「イヨーッ」の掛け声と共に太鼓を叩いて大倉が入場すると、田中は硬直。これに一噌の笛が加わると、田中は背をのぞけ、おののくように腕で空を切る。
田中が濡れたスーツを脱ぎ捨て、赤い身衣(みごろも)に黒い振り袖をはおるのと同時に、左右から檜の床が玉石を覆う。
数種の笛を操って一噌が奏でる鋭い音は容赦なく田中に襲いかかり、それが触媒となって田中は憑かれたように床をころげ、仁王立ちし、前屈みになり、あるがままの生の姿をさらす。
大倉の太鼓が二人を駆り立て、息詰まるほど緊迫したパフォーマンスが展開した。後方に赤土のステージが現れると、野良着になった田中はその上でヨタヨタ歩き、飛びはねる。
客席通路を歩きもすれば、獣を思わせるようにのたうち、目をむきもする。やがて舞台中央に一直線に火が燃え始めた。
そのゆらめく炎の熱と光を浴びる田中の姿は、この世を超越し、浄化されていくように見えた。そうして、自然や生ある物の命の輝きを表象化してみせたのである。
(6月3日、新国立劇場小劇場)
●堀内充バレエプロジェクト『DANCE de "H"』
一年半振りとなった「堀内充バレエプロジェクト」の演目は、「存在と現実」をテーマに、堀内が作・構成・振り付け・詩を手掛けて出演もした『DANCE
de "H"(ダンス・ドゥ・アッシュ)』。自身が多彩な活動を展開しているだけに、今回はミュージカル俳優の宮川浩を招いて歌唱を加え、自ら制作したバレエ映像も織り込むという力の入れようだった。
ステージの下手寄りに階段状の台、上手に細長い大きなパネル(照明の具合で鏡にも、半透明の幕にもなるのが効果的)が置かれている。
舞台は堀内のソロ「存在の踊り」で始まった。何かのサインを示すような細やかな手や腕の動き、切れ味の良い脚の運び、鮮やかな回転など、堀内のみずみずしいダンスは魅力的だった。
けれど、社会の中での自身の存在を確認するには他者の存在も必要だろう。
そこで堀内は、現実世界から遊離したような女たちや現実世界の男女の踊りやをながめ、時には自身も踊りに加わり、時空を共有する。
特に、ゲストの佐藤崇有貴との対話するようなデュオが印象に残った。 |
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「過去・夢〈幻想的円舞曲〉」と名付けられた映像では、四人の女性がJ・シュトラウスの雅なワルツでクラシックバレエを舞う中に、堀内も紛れ込んで踊るという形で展開。
踊る場所が野外のステージと室内と何度も目まぐるしく切り替わるが、踊りが途切れることはない。
そこだけ切り取られたような異質の世界だったが、古典バレエの整然とした秩序の美が強調されていたようだ。だが、踊りだけで概念を表すのはたやすいことではない。
これを補う意味もあるのだろう、すべてを異なる次元から見つめる男として宮川を起用し、歌わせ、語らせた。
メンデスゾーンの甘く心地よい旋律を用いた「歌曲〈瞑想の歌〉」の余韻も手伝って、幕切れの堀内は、他者とともに、今ここにある自分を素直に、客観的に受け入れているように見えた。
(6月6日、ル テアトル銀座)
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●東京文化会館コラボレーションコンサート
〈H・アール・カオス×大友直人×都響〉
「東京文化会館コラボレーションコンサート」と銘打ち、振付家・大島早紀子が主宰するダンスカンパニー、H・アール・カオスと、同会館音楽監督の大友直人と都響が共演した。
モーツァルトの交響曲第31番「パリ」で始まり、大島がラヴェルの『ボレロ』に振り付けた新作が続き、大島の代表作とされるストラヴィンスキーの音楽による『春の祭典』で締めくくられた。
今年の正月には、モーツァルトをサティ作曲『パラード』に替え、後の二作品はベジャールの振り付けによるガラ公演が、井上道義指揮都響と東京バレエ団により行われているだけに、一層、興味深かった。
モーツァルトでは、オーケストラを赤い緞帳の前のピットに当たる部分に、床を少し沈めて配したことにもよるのだろう、響きが今一つ伸びてこない気がした。
大島はダンサーの白河直子を核に創作する。『ボレロ』も同様で、赤いズボンに上半身裸の白河が赤い花びらの円環に閉じ込められて横たわり、これを囲むように五人の女性ダンサーが後方のイスに座っている。
この冒頭は、ベジャールの演出を意識したのかもしれない。白河は床から胸を反らし、体を痙攣させ、目覚めていく。 立ち上がり、両腕を翼のように広げるなど、音楽の高揚に乗じて動きを増幅させていくが、円環を出ようとはしない。
それを蹴散らして侵食するのは、外側の攻撃的なダンサーたちで、赤い花びらを投げ入れもした。すると白河は床をころげ、飛びはねたが、いつもの過激さではなく、むしろ素直さで訴えた。
赤は命の象徴なのか、真紅の布で三段に組まれた背後の壁が鮮やかだった。 |
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『春の祭典』は、事件の被害者(白河)が、四人の傍観者により、非情なまでに追い詰められていく様を克明に綴る。
白河は極限まで背をのぞけらせ、バスタブで濡らした長い髪を振り回して水滴を撒き散らし、宙吊りで訴えるように客席に向かってジャンプ。 犠牲者の苦悩を体現して鮮烈だった。
『ボレロ』も『春の祭典』も、オーケストラにとって人気の曲目だが、前者では危うげなソロも聴かれ、後者では指揮者の統率力に乱れが生じており、生演奏の醍醐味を味わうまでには至らなかったのは残念だ。
(6月8日、東京文化会館) |
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